【三】
こうして、俺は仕事に復職した。だが、以降、鴻からの音声連絡が来た事は一度も無い。俺は疑っている。軍部が俺を引き戻すために、偽装したのではないかと。だが、そうであったとしても、俺がその方角の電波を受信・探索する事を周囲の誰もが黙認していたし、俺はどこかで生きていてほしいと、いいや、生きていると信じていたかったから、俺からも何も言わなかった。
そんな日々が――もう、百年だ。
寿命延長技術による手術を受けていない事はおろか、脱出ポットには五年分の食料しか詰んでいなかったのだから、既に鴻が生きていない事は明らかであるのに、この日も俺は、探知活動に精を出していた。
軍のほかに、最近では、大学において、若い研究者の指導などもするようになった。
見た目は三十代のまま――……童顔ゆえにもっと幼く間違われ、学生と勘違いされる日さえある俺だが、気にせず、日々の仕事をこなし、残りの時間は全部宇宙に向けて……鴻からの連絡を探索する事に意識を集中させていた。
一通の手紙が届いたのは、そんなある日の事だった。『百年後のあなたや周囲に手紙を書いてみよう!』という、イベントに応募された手紙。それが俺の元に届いたのだ。差出人は、鴻雨林。俺の、たった一人の恋人の名と懐かしい文字に、慌てて俺は封を開けた。
『――きっと、僕は今の信念のままならば、生きてはいないと思いますが、お元気ですか? 僕がいないのに元気だったら、正直腹が立つけどね。それくらい、君が好きだよ。今の時点では。長い一生を葵は歩むだろうから、普通に別れているのかもしれないし、死別しているのか、それとも違うのか、案外僕も生きているのかは知らない。けれどいつか、例えば救助不可能な事態で宇宙に放り出される事を想定すると、僕は手術をする気にはならない。終わりのない孤独に耐えられる気がしないからだよ。それに僕は善人なので、天国に逝くと思う。だから、そこから君を見守る星になりたい。まぁ、そんな事故なんて起きない事を祈っているけどね。それと、出来る事なら、一生そばで君を守りたいと思ってる。僕のそばにいてくれて、本当に有難う』
そんな、手紙だった。
俺は、泣きながら笑った。涙腺が崩壊するなんて、久々だ。
「予言者かよ。それに――大ウソつき。いないだろうが! いろよ! ずっといろよな、そばに。本当!」
両手で顔を覆い、この日は、年甲斐もなく、ボロボロと俺は泣いた。この手紙を読んでいたら、やはり俺は鴻を行かせたりはしなかった自信がある。そして生存を願うのは、俺の自分勝手な気持ちなのだとも思い知った。同時に、逆の立場であったなら、俺は今頃、孤独にポットで救助の来ない宇宙を一人彷徨っていたのかとも考える。色々な思考が一気に噴き出した。でも、分かるのは一つきりだ。
もう鴻はここにはいない。
その上、滑稽な事に、俺は元気だ。
研究室の鍵を閉め、一人で窓の前に立ち、ずっと涙を流していた。そうしながら、ずっと想っていた。いいや、いつも想っているから、それは正確ではないか。俺は、鴻の事を忘れた事は、一度も無いのだから。
それから、それから、それから。
すぐに鴻を探す日々は、二百年を越えた。
色々な事は――何も無かった。俺はただ、その後も人型戦術機の研究や開発を進め、テストパイロットの仕事からは退いたが、代わりに弟子を得て、大学で教鞭をとって……それ以外の時間は、今も変わらず、宇宙からの信号を確認する事に励んでいる。
「あの、縁堂先生」
この日は、一番弟子の、|晴宮《はるみや》|周《あまね》がやってきた。いつか、俺の所にやってきた当時の部下の曾孫だ。
「なんだ?」
「前から気になってたんですけど、そんな識別圏外の電波受信、何が楽しくてやってるんですか?」
「ん?」
「無意味じゃありませんか? 俺、無意味な事するのって、無駄だと思うんですけど」
「――愛だよ」
「は?」
「俺は、愛を探しているんだ。何か、文句があるか?」
俺が笑顔で述べると、周が胡散臭そうなものを見る顔つきになった。
「それって、ハラキリ遺伝子とかって奴ですか?」
「どういう意味だ?」
「認知症の要因だとか」
「おい」
「寿命延長技術で認知症ってあんまり聞きませんけどね」
「違うからな!」
思わず咽てから、俺は苦笑した。周は正直者すぎるきらいがある。だが、既にいっぱしの研究者だ。頭脳明晰という意味である。人間性は保証しない。
「俺、愛っていまいち分からないんですけど、縁堂先生は他惑星系の知的生命体が好みなんですか?」
「いいや。俺には恋人がいるが?」
「えっ」
「おい。おい? だから、何でそこで驚く? 驚くんだよ? おい?」
「俺にすらいないのに……はぁ。早く結婚したいなぁ」
どこか落ち込んだ様子で、周は踵を返した。そして無言で研究室を出ていった。
その背を見送り、俺は吹き出した。思わず笑ってしまう。
「若いな。結婚だけが、愛じゃないだろうに」
そう。そうだ。
例えば、もういない誰かをいると思って、愛し続ける事だって自由ではないか。
――と、我ながら不毛だが、俺は考えて、今日も電波の受信に励む。
分かっているのだ、もう、寿命的にも、食料といった生命維持の観点からも、俺の愛した鴻はいない。どこにもいない。全宇宙を探しても、きっと。それでも、俺のそばには、色褪せた手紙が残っているし、探すのは自由である。
手紙を振り返る限り、鴻が今も生きていると信じる事は違うのかもしれないと、当初は思い悩んだ。でも、思い出した事があったから、俺は捜索を止めない。鴻は、いつか言っていた。忘れられなければ、生きている、と。今でも、『ネ』には、祝日がある。隕石に打ち勝った日の祝祭だ。俺が覚えているだけではなく、鴻の名前は、歴史にも残っている。
「なぁ、鴻。今日は、イザカヤに久しぶりに行こうと思うんだ。俺、ビールはもう、何万回も体験したぞ? でもな――SEXはいまだにお前ひとりきりだ。どう責任取ってくれるんだよ。お前は勃たないといっていたけど、俺は、お前以外に触られるのが嫌になっちまったらしい。勃つ前に、そもそも部屋にも行かないし、上げないけども。今もしっかり、俺にはお前が刻まれてるぞ」
つらつらとそんな事を、遠い宇宙に向かい、俺は紡いで響かせる。
誰も聞いていない闇に、俺の声だけが、きっと現地では、溶けているのだろう。
そうしてマイクをオフにしてから、俺は研究室から外へと出た。
疑似的な空を見上げ、飛ぶ鴉が線を引くのを眺める。
人工星が輝き始めたのを目にし、宇宙のどこかにある俺の|愛《ホシ》の所在を考える。それが輝いている場所の名前は知っている。天国というそうだ。
「――忘れなければ、覚えていれば、それは『生きているのと同じ』だ」
いくらいない事を知っていても、どこかでそれを認めはしていても、俺はやはり、鴻の不在の一生は、耐えられないらしい。けれど、今となっては不老長寿でほぼ死が無いに等しい俺には、自死すら許されてはいない。だから、願い、請う。どこかで、愛しい情人が生きている未来を、思い描く。空想くらいは自由だと、誰にも制限されないはずだと、俺は思っている。たとえそれを、鴻が喜ばないとしても、俺の考えはもう変わらない。
「ま、鴻を思って人生を過ごせるんだからな。これはこれで、悪くはないな」
一人明るく口にして、俺はイザカヤの青い暖簾を見る。傍らには赤い巨大な提灯がある。店主は何人も変わったが、味は変わらない。鴻と来た初めての日と一緒だ。
「お前の分まで、俺が食べてやる。お前の分まで、俺が飲む。だから、せいぜい羨ましがっていればいいんだよ! お前がいなくても俺は、お前がいるって思えたら、元気になれるんだからな」
知っている。こんなのは、躁的防衛と言うらしい。でも、だから? 何だって良い。確かな事として、俺の中では、鴻は生きているのだから。
――俺達は、永遠に、会う事は叶わない。永遠の別れ、それが俺達の間に横たわっている溝だ。それは、越えられない。ただ、想像力だけは、懸け橋になってくれるから。
「そして、いつまでも愛し続けてやるから、覚悟していろよ。遠くても、会えなくても、俺はきちんとお前のそばに居続けてやる」
だって。
「お前が、俺の心にずっといるんだからな。当然だろ?」
暖簾をくぐり、俺は居酒屋へと入り、ビールを頼んだ。それからジョッキが届くまで、俺はメニューを見て思案する。さて今日は、何を食べようか。
そんな事を考えていたら、ビールのジョッキが届いた。俺は誰もいない隣席を一瞥し、苦笑してからジョッキを持ち上げる。そして、小声で述べた。
「乾杯」
そして一気に飲み干した。ジョッキは空になっても、俺に結末は来ない。永劫、に。だから俺は、きっと一生、探し続ける。見つからない、愛を。
【終】