【四】
「なんだその指輪は?」
翌日研究所に行くと、同僚のジョ・ルゥが首を捻った。ジョ・ルゥは猿型人類であり、両手両足が仕事に適しているので、地球系人類の依織としてはやりやすい相手である。頭部はそれこそ地球系の動物で言うならばゴリラそっくりであり、全身が毛に覆われている。ただしその毛の色は黒ではなく、黄緑色だ。今年で八十二歳だそうで、地球系の精神年齢に換算すると丁度三十代前半といったところらしい。つまり同年代だ。
「結婚したんだよ」
「け、結婚? お前みたいな性格破綻者が、結婚?」
「はぁ? 僕ほど優しい人間は、ちょっといないと思うんだけど?」
「どこがだよ? ど、どこが……?」
「煩いなぁ。とにかく僕は、今後は幸せな家庭を築くから」
「へ、へぇ。しかし指輪なんてまた……あれだろ? 地球系の古の文化だろ?」
「よく知ってるね」
「依織ってそういうの、こだわりがあったのか?」
「全くないけど、相手がねぇ」
「あー、惚気は聞かなくていいや」
そんなやりとりをしてから拡張現実型モニターを二人で見据え、飛来する隕石の探知に、新システムが無事に対応しているかを確認する。光型コンソールに両手を置いて、輪を描くように依織が指を動かす。今のところは、システム改修後に問題は起きていない。
「そういえば聞いたか?」
「なにを?」
「ほら、先月地球からサトウが着艦しただろ?」
宇宙艦サトウについては、連日ニュースになっているし、『ウ』の内部でも最大の関心ごとだ。依織にとっては結婚や、初めて過ごすクリスマス、年末年始の方が気になるが、多くの人々は、サトウに対して熱心に語る。
「『ウ』に来るまでの三十年の間に、すごい量の隕石を飛行戦略艇で撃ち落としてきたらしいだろ? 隕石のサンプルはこの研究所でもいくつか入手したし」
「そうだね。それが?」
「パイロット、最初は何人も亡くなったらしいけど、ここ二十年近くは安泰で、地球防衛軍所属のエースパイロットがほぼ全部撃ち落としてきたらしいじゃん?」
「そうなの?」
「そうなんだよ! で、だ。やっぱり『ウ』としても、そのパイロットには、今後も『ウ』で主力になってほしかったわけだよ。コロニー防衛軍上層部的に」
「まぁ、それはそうだろうねぇ」
「それがだな、あっさり引退しちまったらしいんよ。もったいねぇよなぁ。莫大な褒賞金はもらったらしいけどさぁ」
「ふぅん。興味ない」
「そういうところだぞ、依織……」
気もそぞろに雑談をしながら、依織は降矢について考えていた。自分側の引っ越しは本日終わるし、メッセージアプリで降矢も今日から新居に住むと、改めてはっきりと聞いていたので、そちらが楽しみでたまらない。
降矢のがっつきっぷり的に、初日からセックスレスという事はないだろう。そう思えば、顔が緩みそうになる。
この日伊織は、上機嫌で仕事を終えた。
新居がある第二区画の住宅街までは、新型モノレールで二駅ほどだ。
帰宅した依織は、エントランスの鍵を開けて、漂ってくる味噌の匂いに気がついた。期待で胸が膨らむ。もしや、味噌汁ができているのではないのか。ワクワクしながらブーツを脱ぐ。そして中に入り、アイランドキッチンの向こうを見れば、丁度降矢が振り返ったところだった。
「あっ、お、おかえり!」
「ただいま、降矢さん。何を作ってるの?」
「ん……味噌汁……のつもりだったんだけど……あ、あと、ご飯は炊けてる。おかずは、今日はその鮭を焼こうと思ってるんだ。バターとキノコと」
「わぁ、すごい」
ニコニコしながら依織は、鞄をソファに置いた。そばのチェストの上には、昨日撮影した写真が飾られている。これぞ結婚というような写真が愛らしいフレームに収まっている。降矢が飾ったのだろう。
しかし自発的に家事をしてくれるというのはありがたい。
そう思いながら、念のために出来栄えを確認しようと、キッチンへと向かった。そしておたまを手にしている降矢の横から、味噌汁の鍋を覗き込む。
「……」
沸騰していた。依織の知識として、味噌汁は沸騰させてはならない料理である。しかも味噌は溶けていないし、かなり巨大な塊も入っている。
依織の笑顔がひきつった。
嫌な汗が浮かんでくる。
まじまじと鍋の中を見ながら、依織は腕を組んだ。具材はネギと油揚げのようだが、油揚げには油を抜いた形跡はなく、ネギは不可思議な事に焦げている。
「味見した?」
「いや、一緒に食べようと思って」
「そ、そう……」
依織はとりあえず様子を見る事に決めて、続いて炊飯器を一瞥した。それとなく蓋を開けてみる。白米を期待したが、どうみてもお粥に近しい物体が、そこには入っていた。いいや、この表現はお粥に失礼だろう。
腕を再び組み、依織は小首を傾げる。長めに瞬きをして、続いて冷蔵庫を開けた。生の鮭、しめじ、バター。きっとこれらでおかずが完成するのだろう。しかしながら、味噌汁と白米の大惨事を見る限り、期待は何もできない。
「ねぇ、降矢さん?」
「ん?」
「料理、得意なの?」
「いいや。今日、人生で初めて作ってる」
「!」
なんという事であろうか。依織はここにきて、外見とセックスに囚われて、肝心の家事能力を実際には確認していなかった事に気がついてしまった。
やはり世間は、そんなに甘くなかった。それを思い知らされる。
しかし料理は、レシピを見て分量通りに作れば、上達するし失敗は減る。
もう結婚してしまったのだから、練習をそれとなく勧めていき、覚えてもらうしかない。
それにしても、料理未経験で専業主夫志望とは……いくらなんでも世界を舐めているし、そもそも三十六歳にもなって一度も料理をした事がないというのは逆に奇跡なのではないか。リモート型義務教育での調理実習は真面目に受講しなかったのだろうか。依織は色々と問いただしたくなってしまった。
「ねぇねぇ、降矢さんってさ、お掃除は得意?」
「掃除は、いつもドローンがしてくれていたからなぁ……でも、依織がしてほしいって言うんなら、俺は頑張るよ」
「……そ、そっか。お洗濯は?」
「洗濯? 洗濯機に入れればいいんだよな?」
「アイロンとか」
「アイロン? それってなんだ?」
「……うーん……今度買いに行こうね!」
これは、非常に危険な状況である。かろうじて笑顔を浮かべてはいたものの、依織の中では警報音が鳴り響いている。しかしまずは、さらなる現状把握に努めるべきだ。
それでも念のため、依織はリビングのソファに戻ると、光型タブレット端末を取り出し、『ハウスキーパー』『養成講座』と検索しながら、夕食の時を待った。
「ちょっと失敗しちゃったかも、ごめんな」
苦笑交じりに降矢が、テーブルへ品物を並べていく。ひきつった顔をしながら、依織はそちらを見た。
「ちょっと?」
思わず口をついて出てしまったのは、焼け焦げて最早鮭だと判別できない品を目にした時だった。生焼けよりはマシなのだろうか。
「味は悪くないと思う」
「味見をしてないのに、どうして分かるの?」
「うっ、それは……」
「……はぁ。いただきます」
「いただきます!」
こうして夕食が始まった。無論、味も、控えめに言って最悪である。そこで瞼を長々と伏せてから、目を開けて、笑顔で依織は切り出した。
「ねぇねぇ、降矢さん。ハウスキーパーの養成講座って知ってる?」
「ん? なんだそれ?」
「――専業主夫とかの訓練もしてくれる、家事のエキスパートのための講座だよ」
「へぇ! そんなのがあるのか」
「専業主夫なら時間もあるし、ハウスキーパーの養成講座、行ってみたら? 勿論、ハウスキーパーになる必要はなくて、技能だけ覚えたら、この家で活かしてほしいんだけどね」
「依織がそう言うんなら、行ってみる」
「うん。ところで、もう降矢さんは退職したの?」
「ああ。半月前に受理されたから、主夫になりたくてパーティーに行ったんだよ」
「それなら、講座にも毎日行けるね。僕が予約しておくから、明日から行ってみたら?」
「そうだな」
幸い、降矢は素直であり、笑顔だった。だが世間知らずにもほどがあるだろうと考えて、依織は先が思いやられてならなかった。
しかし結婚してしまったのだから、仕方がない。覚えてもらうしかないだろう。
今のところ、外見などが好きなので、離婚という選択肢は考えていなかった。