【一】第二天空鎮守府




 帝都東京に羽染が引っ越したのは、十八歳の春の事だった。荷物はそれほど無い。最低限の私服等のみ持参した。軍服は支給される事になっていたし、軍の寮には家具もあると聞いていた。

 寮は各軍閥ごとに借り上げられているマンションの一室で、基本的に二人ひと部屋と決まっている。羽染は寮の部屋の入口に立ち、表札を見た。羽染の名前が右側に、左側には、久坂歩という名前が記載されている。同寮者の名前を確認した後、静かに羽染はノックした。反応は無い。それからドアノブを握れば、鍵が閉まっていた。どうやら不在らしい。

 与えられていたカードキーを用いて、羽染は室内に入った。すると左側の寝台や机の上には、同寮者の私物らしき物が置いてあり、右側には何も無かった。ピシッと敷かれたシーツの上に、羽染は荷物を置きながら、両側にあるクローゼットを確認する。表札の一通り、右を使えば良いのだろうと判断した。

 会津からは旧若松市から新型の新幹線が新浅草まで通じている。それに揺られて二時間の後、ここ――第二天空鎮守府までの直通のモノレールに乗った。

 第二天空鎮守府は、元老院議会と大日本総括軍総司令部が置かれた施設である。
 大日本帝国の要とされる場所だ。
 軍用機と兵器ばかりで、実質関東方面軍の拠点となっているだけの第一天空鎮守府よりも、その影響力も実力も高いとされている。何せ全国各地から優秀な軍人と政治家が集まるのだ。嘗ての天皇家を守っていた近衛の流れを汲むような形で、第二天空鎮守府の軍人は、戦うばかりでなく、元老院の議員達の守護もしている。国内には、いくつかの天空鎮守府と呼ばれる施設があるが、中でも際立っているのが、この第二天空鎮守府だ。

 過去の世の国会議事堂と軍事施設を合わせた形の第二天空鎮守府は、五階建てで、一階や二階の一部は、市民に開放されている場所もある。羽染が所属する会津及び奥羽列列藩の東北方面軍閥が借り上げている寮も、第二天空鎮守府の敷地内にあった。

 羽染は窓から見える第二天空鎮守府の本館の塔を一瞥してから、荷物の整理を行った。僅かな私物をクローゼットに入れながら、今後過ごす部屋に対して、まだ慣れないなと考える。

 時刻は午後五時を回った所だ。大日本帝国軍は、規定の勤務時刻は朝九時から夕方五時と定められているが、部署により裁量性が導入されている。力のある軍人になればなるほど、勤務時間は自由となるらしい。

 羽染が今回配属された先は、陸軍の普通科の第二旅団に属する、即応連隊だ。中尉階級開始の羽染は、その中の第四科の新指揮官という立場である。主に最先端兵器以外の、戦車を始めとした旧装備を用いた歩兵部隊である。

 現在の世界における戦争は、どこかゲームじみた側面がある。乖離が激しい文明水準にある国々は、国家間で戦争を行う時、一定のルールを定めている。その為、第一次世界大戦時程度の武力のみを持つ国と戦争をする場合には、新型兵器を用いてはならないといった規則がある。即応連隊は、そうした小国や弱国と国外で戦う場合に出撃する、非常に負傷率や致死率が高い部隊でもある。

 主に陸曹以下の一般兵と――東北方面軍閥から上京してきた者が、構成者には多い。
 実際の戦争の際には、所属を問わず再編成された専用師団が出来る事が多い点が、大日本帝国軍の特徴であるが、そんな際にも激戦地へ送られやすく、端的に言っていつ死んでも良いという扱いを受けるのが、東北方面軍閥の人間と、その他軍閥の末端の人間である。とはいえ、その他の軍閥の者は、再編成時には指名されない事も多く、実質死ぬのは東北方面軍閥から来た者ばかりだ。

 それらの知識を、羽染は、会津を出る前に、神保皐月という後輩から聞かされた。明るく情報通の神保は、羽染をひとしきり心配してから、送り出してくれたものである。

「そろそろ食事に行くか」

 腕時計を見てから、羽染は呟いた。この時計もまた、現在身に纏っている軍服同様、支給品である。

 食事は、第二天空鎮守府の一階に、軍人専用の無料食堂が存在するので、そこで食べる事に決まっていた。費用はかからないが、念の為財布と携帯電話をポケットに入れて、羽染は新しく自室になった寮の部屋から外へと出た。

 自宅は和風であったから、洋風の建造物が珍しい。壁にかかる油絵や、所々に飾られている彫像を眺めながら、羽染は階段を下りて、寮の外に出た。春の風に揺られ、桜の花びらが舞い散っている。真っ直ぐに続く道を歩いて、第二天空鎮守府の表玄関へと回ってから、羽染は初めて中に足を踏み入れた。入口の壁にあるモニターに表示されている地図を見て、無料食堂の位置を確認する。

 緋色の絨毯が敷かれた白い床は磨き上げられていて、どこか気品を感じさせた。軍人や、開放施設に食事に訪れたらしき人々で、第二天空鎮守府のロビーは混雑している。大きな通路から逸れて、食堂の入口に差し掛かった羽染は、幾ばくか緊張しながら、中に視線を向けた。

 食堂は広かったが、簡素な造りをしていて、レトロな券売機が奥に見えた。食券を購入して、トレーを持ち、並んで受け取るらしい。まずは席を確保した方が良さそうだと考えて、羽染は一人用の端のカウンター席の前に、入口脇のウォーターサーバーで得た水の入ったコップを置いた。

 何を食べようか。

 そう考えながら、券売機の前に立つ。会津では郷土料理をはじめ、和食ばかりの生活だった為、洋食や海外縁のメニューが物珍しい。グラタンを、食べてみようかと考えた。券売機に手を伸ばして、押してみれば、食券が発行された。それを抜き取り、トレーを手に列に並ぶ。そして台に食券を置くと、受け取った厨房の人間が羽染を見た。

「見ない顔だねぇ。春からの軍人さんかい?」
「はい」
「どこの軍閥? 中尉の階級章って事は、九州方面軍閥のお方かい?」

 笑顔で問いかけられて、羽染は顔が引き攣りそうになった。少し困ったような笑顔で、羽染は首を振る。

「東北方面軍閥の者です」
「……へぇ? 奥羽列かい?」
「会津です」

 静かに羽染が答えた瞬間、周囲の視線が羽染に集中した。食券を受け取った人間も、息を飲んでから硬直した。それからすぐに、彼は目を細めて、にたりと笑った。周囲の者はヒソヒソと囁き始める。

「グラタンか。少し時間がかかるけど、特製の逸品を出させてもらうからね」

 その言葉に、羽染は肩から力を抜く。その後、羽染は奇異の目を周囲から向けられている事実を意識しつつも、無言で並んでいた。料理の多くは、特異亜空間保存による食料庫から粒子転送されるので、どのようなメニューでも時間がかからない事が多いのだが、羽染は三十分ほど立っていた。羽染のあとから来た者の方が、早く受け取っていく。

 グラタンとは、そんなに時間がかかる品なのだろうか、と、羽染が思案していた頃、漸く品が運ばれてきた。グラタン皿には蓋がついていた。羽染が過去に目にした事があるグラタンには蓋が無かった為、不思議に思う。また、グラタンの横にも器があった。こちらも蓋が付いている。

「サービスでトマト煮込みもつけるよ。ゆっくり食べな」

 厨房からそう声がかかった。微苦笑しながら羽染は頷く。周囲はそんな羽染を見ると、何故なのかニヤニヤと笑っていた。こうして羽染は、最初に取った席へと戻る。

「……」

 コップの水が零れ、椅子に敷かれていた座布団がグシャグシャに濡れていた。誰かが零してしまったのだろうかと考えて、その隣の空席にトレーを置く。食堂の人間に伝えるべきか悩んだ。しかし見渡すが、皆多忙そうにしている。羽染は卓上にあった布巾で、テーブルの上をとりあえず拭き、座布団は自然乾燥を待つ事にした。どうにもならないようならば、帰りに食堂の者に告げようと考える。

 そうしながら、手を合わせてから、グラタンとトマト煮込みの蓋をそれぞれ取った。

「!」

 そして目を見開いた。嘔吐感がせり上がってくる。グラタンの表面には、季節はずれの蝉の死骸と生きたカブトムシがいた。トマトで煮込まれているのは、ネズミだとすぐに理解した。独特の尻尾が見える。その場で吐瀉物を撒き散らしそうになった羽染は、口元を押さえてから、思わず立ち上がった。視界に入れるのも悍ましい。

 カブトムシの足と角が動いている。ネズミの毛が煮込まれたトマトを吸っている。よく見れば、白く蠢く蛆虫もグラタンから覗いていた。

 ――これが、序章だった。羽染に訪れる、新たなる陰湿な日々の。

「食わないのかい? 勿体無いねぇ」

 蓋を閉めて料理をそのまま返却口に羽染が戻しに行くと、顔を出した厨房の人間が卑しい笑みを浮かべた。すると周囲にいた軍人達も、ニヤニヤしながら賛同する。

「会津の人間に食べさせる飯なんて無いからね、ここには」
「人間未満の間違いだろ?」
「ああ、そうだね。人間扱いされたいなら、有料の食堂にでも行く事だ。本当に汚らわしい」

 失笑しながら周囲の人々が、羽染を見ている。噂以上の差別だった。
 多くの軍人は、羽染を嘲笑し、罵詈雑言を投げかける事を、当然だと考えているらしい。

「さっさと出て行け」

 そう述べた一人が、コップに入った水を羽染にかけた。髪から濡れた羽染は、俯いて眉を顰める。もし仮にここが会津で、このような目に遭ったのならば、黙っている羽染ではない。しかしここは、第二天空鎮守府であり、保科が過ごしている場所だ。変に揉め事を起こし、迷惑をかける事は、最もあってはならない事である。

 そもそも偏見が横行している事は、知った上での上京だ。
 ――耐えるべき、なのだろう。
 下ろしたままの拳をきつく握ってから、羽染は踵を返した。食欲など失せてしまっていたから、陰鬱な気持ちで歩き始める。その背後からも忍び笑いが漏れ聞こえてくる。

 こうして羽染は、何かを考える気力を半ば失いながら、寮へと戻った。どのように歩いてきたのか、上手く思い出せない。無気力な面持ちで、ドアにカードキーをかざす。そして静かに扉を開けた。

「あ、おかえりなさい!」

 すると不意に声をかけられた。そこには金色の髪に青い瞳をした青年がいた。同寮者らしいが、異国の人間が少ないご時世であるから、当初その外見に羽染は目を瞠った。

「久坂って言います。階級は陸曹。よろしくお願いいたします。羽染中尉だよね?」
「あ、ああ……よろしくお願いします」

 先程までの食堂での対応とは異なり、気さくな様子の久坂は笑顔で羽染を出迎えた。

「俺は仙台から来たんだ。羽染中尉はどこ?」
「……会津だ」
「なるほど。で、なんで濡れてるの?」
「その……」
「早速、『洗礼』を受けた感じ?」
「洗礼?」
「イジメだよ、イジメ。本当、会津も奥羽列も形見が狭いっていうかさぁ」

 久坂が立ち上がりながら、あからさまに溜息をついた。そして部屋の中央にあるティサーバーから、ホットの珈琲を淹れると、カップを羽染に手渡す。

「まぁ入って座って、ここ、今日から羽染中尉の部屋でもあるし、こういうのもなんだけど」
「いや……有難う」

 扉を閉めてから、室内に入り、羽染はカップを受け取った。傾け、一口飲むと、全身から一気に緊張が取れた。お互いのベッドに座りながら、羽染と久坂は向き合う。

「これからよろしくね、羽染中尉」
「階級は呼ばなくても……よろしく」
「羽染、羽染ね! 俺の事も、久坂って呼んで」

 青い目に柔和な色を浮かべている久坂を見て、上手くやっていけそうだと感じ、羽染はそれだけでも幸いだと考えた。

 こうして、羽染の新たなる日々は、幕を開けたのである。