【ニ】剣道新人戦




 五月が訪れる頃には、羽染はいくつかの事を覚えた。まず、無料食堂では食事をしてはならない。そこから通路を二つ挟んだ場所にある有料の軍人用食堂ならば、費用はかかるが、食事自体に嫌がらせは無い。これは久坂から教えてもらった情報だ。

 また、日々の仕事は、軍事訓練では無いという事も学んだ。羽染の指揮する部隊の者は、皆が示し合わせたように、薩長土肥軍閥から来ていた中等士官学校卒の者達なのだが、羽染より年下の者から叩き上げの高齢の者まで皆――羽染を蔑み、嫌味を言ったり、暴力を振るう。それが、『当然の事』であるらしかった。

 羽染だけが、そのような目に遭っているわけではなかった。春にはそれなりの数がいた東北方面軍閥から配属された人間は、次々に故郷への転属願いを出したり、軍を辞めていく。しかし羽染には、それは出来ない。主君である保科直々の頼みを叶えたかったし、力になりたいとこの場へ来ている。恩義に報いたい。よって、下劣な行為の被害に遭っているから――程度では、辞める気は無い。

 この日も羽染は、勤務途中で、名ばかりの部下達に囲まれた。また今日も殴られるのだろうと考える。顔は殴られる事が無く、彼らは目に付かないような場所を主に蹴るなどする。羽染は抵抗する術を考えるのは、暫く前に止めた。現在は、受身の取り方、どうすれば一番衝撃が少ないか、そればかりを考える日々だ。

 訓練用の武具がある倉庫に入った所で、部下達五人が、羽染を取り囲んだ。マットを手に取ろうとしていた羽染は、またかと溜息を押し殺す。だが――この日は、少し部下達の顔が違った。

「羽染中尉は、顔が良くて、さぞおモテになるんでしょうねぇ」

 一人が言った。無論、会津の出であるというだけで、人気等ありえない。

「俺、勃っちゃいそう」
「俺も俺も」
「お相手して下さいよ」

 羽染は、最初何を言われたのか理解出来なかった。男ばかりの軍において、また世情的にも、衆道関係等も珍しくはない。だが、同性愛はマイノリティに属しているのは否めなかったし、羽染にはその方面の知識はあまりなかった。

 襟元をねじり上げられた時も、殴られるのだろうと判断していた。だが直後、両手を取られて、マットごと床に引きずり倒される。そして引き裂くように、軍服を広げられた。ボタンが飛び散る。

「いつも涼しい顔をして無抵抗だから、退屈だったんですよねぇ」
「啼かせたくなるぅ」
「あーあー、ちょっとは怯えて下さいよ」
「ま、今から気持ち良ーく、涙させちゃいますけど?」
「俺、ローション持ってるぞ」

 五人が口々に言う。そうして羽染の首筋を、一人がゴツゴツとした掌で撫でた。別の一人は露骨に羽染の陰茎を、ズボンの上から撫でる。その段階になって、羽染は漸く理解した。強姦されようとしている事実に。瞬間、真っ青になった羽染を、周囲が楽しそうに見る。

 ――絶対に嫌だ。

 生理的な嫌悪感がこみ上げてきた羽染は、気づけば無意識に、一人目の首筋に手刀を叩き込んでいた。そうして起き上がると、狼狽えている二人目の鳩尾に膝を叩き込み、離れようとした三人目には回し蹴りをしていた。残った二名が、震えながら床に尻餅をついている。それを目視した羽染は、目を細めて、睨めつけた。冷気がその場に漂う。

 初めて羽染が発した強い威圧感に、その場にいた五人が凍りついた。

 決して羽染は無力なわけではないのだ。ただ、我慢し、堪えていただけである。

「ゆ、許してくれ……」

 羽染の気迫に、一人が懇願した。すると皆が、恐れるように何度も謝罪を口にし、命乞いを始めた。その段になって、やっと羽染は冷静さを取り戻した。震えが走り、両腕で体を抱く。そのまま羽染は、その場から逃げるように、倉庫を出た。まだ勤務時間中ではあったが、混乱がこみ上げてきて、とにかく一人になりたくなり、寮へと戻る。勤務中であるから久坂の姿は無い。

「……」

 泣きそうになっていた。何があっても、これまで涙など零した事は無いが、耐えられない屈辱だと思った。嫌悪感が体にまとわりついていた為、室内に備え付けられている浴室へと向かい、羽染は頭からシャワーを浴びた。ボディソープを泡立てて、強く肌を擦る。シャワーが羽染の両目から出ている涙を、隠してくれた。温水が優しい。

 ――配置替えの話が出たのは、翌日の事だった。
 なんでも『被害者』である五名が、羽染から暴行を受けたと訴えたそうで、羽染は別の部署に転属させられる事となったのである。中尉階級と指揮官である点は変わらないが、より過酷な実働部隊への転属だった。

 羽染は、ある種の左遷を受けたのだが、もう元部下達に会わなくて良いのだと思ったら気が楽になった。しかしながら、新しい部隊においても、殴られる日々がすぐに始まる。殴る蹴るの暴行を受ける毎日は、変わらなかった。


 さて――新規に軍属となった士官による剣道の新人戦が催される事になったのは、初夏の事である。第二天空鎮守府で毎年恒例のイベントだ。梅雨が明け、紫陽花が濡れる事も無くなったその日、羽染は久方ぶりに保科と顔を合わせていた。

「良親さん、元気でした?」

 軍属後三ヶ月間は外での訓練が主要の為、第二天空鎮守府の議事会館で職務に従事している保科を、羽染は一度も見かけなかった。穏やかに微笑している少年君主の姿に、久しぶりに羽染は、心からの笑顔を浮かべる。

「ええ。保科様は?」
「――良親さんが、訓練期間を終えて、内部での雑務に変わったら、きっとがっかりするような生活を送ってます」
「……辛いですか?」
「会津のためだと割り切れば、どうという事も無いかな。それよりも、剣道新人戦の事で話があって」

 保科はそう言うと、スっと目を細めた。茶色い瞳に暗い色の翳が指す。

「羽染」

 冷ややかな声で、保科は君主としての顔になった。

「羽染ならば勝ち残ると思っている」
「……恐縮です。全力を尽くします」
「いいや、それではダメなんだ」
「え?」

 保科の意図が読めず、羽染は目を丸くして、首を傾げる。

「もしも山口県主催の薩摩藩の軍人に当たったら――負けよ」
「……それは」
「負けよ。鷹司由香梨様――薩摩の元老院議員が庇護している、春から入った中尉がいる。長州藩も推している新人だ。今年の第二天空鎮守府に中尉階級から入ったのは、羽染とその者だけだ」
「名前は?」
「有馬宗一郎中尉。ただし、わざと負ける事を悟られてはならない。これは、命令だ」

 暗い目をしたまま、保科が冷たい顔で、厳命した。羽染は唾液を嚥下してから、小さく頷いた。

「御意」

 剣道新人戦が始まったのは、その二時間後の事である。
 羽染は、戦う相手の名を意識しつつも、聞いたばかりの有馬という相手とは当たらないままで――決勝まで進んだ。このまま当たらないのかと考えていたが、決勝戦の準備をしている最中に、保科が歩み寄ってきた。

「次だ」
「!」
「羽染、この戦い、負けよ」

 改めて保科に命じられた。保科が羽染に控え席で耳打ちしたのだ。その後羽染は、保科と視線を合わせ、しっかりと頷く。その後保科が視線を動かしたので、羽染もそちらを見た。すると防具を手にしている青年が見えた。そばには、会津を出る前に覚えさせられた元老院議員の一人である、鷹司由香梨の姿が見える。保科と同じ歳の十三歳である美少女は、にこやかに笑っている。どうやらその横にいる青年が、有馬宗一郎というらしい。

 羽染はこの日まで、有馬という名前すら知らなかった。
 その後、保科に背中を押して促されたので、羽染は一礼してから、歩き始めた。
 有馬もまた、会場の中央へとやってくる。
 黒い髪を揺らした有馬を見ながら、羽染は『気づかれないように負ける』と、胸中で再確認した。そこへ審判が訪れ、声をかけた。

「双方礼」

 竹刀を構え、羽染はじっと有馬を見る。
 有馬の構え、気迫、足運びから、相当の手練れだという事が分かる。

 ――これは、負けようとせずとも、気を抜けば負ける。

 ドクンと鼓動が一際大きく啼き、頬に汗がつたる。
 過去、これまでに――これほどまでに、強い相手と竹刀を交えたことがあったか? いいや、無い。

 高揚感が体を鼓舞し、掌に力がこもる。

 何度か撃ち合い、その緊迫感に羽染は次第に我を忘れた。
 ――どうすれば勝てる?
 ――隙は何処だ?

  息をつく間もないやりとりの後、羽染は相手の手元を捉えた。このまま振り切れば、相手の竹刀を振り飛ばせる――そう考えた時、保科の声が蘇った。

『負けよ』

 慌てて間合いを取るが、生存本能がそれを善策に変える。それすらも無意識に相手の竹刀を誘う結果になった。踏み込んできた有馬の竹刀を避け、正面から後は叩き込むだけ――しかしそうすれば、命令違反となる。

 ――この状況から、どうすれば負けられる?

 まずは袴を踏んで盛大に転ぼうかと羽染は考えた。
 しかしこれまでにその様な負け方をした事が無いため、どうすれば良いのか分からない。

 ――竹刀を振り下ろす位置を誤れば、その隙に相手が打ってきてくれるか?

 羽染は防具越しに、相手をじっと見た。

 この実力の相手ならば、きっとその隙を見逃したりはしない。
 ある種の賭だった。

 見逃されれば、己が有効で勝つ事になるだろう。
 しかしここまで本気の勝負を、人生で初めて迫られた相手だ。
 その隙を見過ごされる事は無いだろう。

 何よりも、もうこの竹刀を振り下ろす勢いは止まらない。
 羽染はそのまま竹刀を振り下ろす事にした……ただ少しだけ逸らして。
 瞬間、有馬の竹刀が羽染の首元を打った。

「一本」

 こうして決着はついた。
 いつか、最後まで本気で勝負が出来れば良いのにと、羽染は感じた。それほどまでに、有馬との勝負は、高揚感をもたらしたのだった。

 勝負を終えた後、羽染は控え席に戻り、防具を外して汗を拭った。すると、乱暴に何かを投げる音が聞こえてきた為、何気なく視線を向ける。見れば有馬が苦々しそうな顔をして、防具を観客席に放り投げていた。

 有馬は横に立っている中佐階級の軍人に向かい、何かを不機嫌そうに話している。羽染は興味が無かった為、それから保科の姿を目で探した。すると来賓席のそばに、保科と鷹司由香梨の姿が見えた。

「さすがは鷹司様の藩閥の方ですね」

 保科の笑みを含んだ声が周囲に響いている。羽染はそれを耳にしながら、二人の様子を窺った。

「当然よ」

 まんざらでもなさそうにそう答えた鷹司由香梨が歩いていく。
 それを、保科は追いかけていった。二人の姿が会場から消えた時、羽染は――強い視線に気がついた。顔を上げると、有馬が睨むように羽染を見ていた。炎が燃えるような瞳は力強く真っ直ぐに、羽染を捉えている。

 ――わざと手を抜いた事に気づかれたのかもしれない。

 羽染はそう考えたが、無駄な揉め事を起こして、保科が鷹司由香梨をおだてるという思惑を潰すわけにもいかないと判断し、するりと視線を逸らした。そして防具類を手に、会場を後にした。

 次に羽染が有馬の名前を見たのは、軍部発行の内部新聞を見た時の事である。

 剣道新人戦のすぐ後、有馬は、平和維持軍の指揮官として国外の職務に従事したらしい。その結果、大尉に昇格したとの事だった。平和維持軍は、他国との共同軍であり、大日本帝国が参加する場合は、後方支援と決まっている。非常に安全な場所での活動だ。それでも勝利を収めれば、実際に戦ったわけでなくとも昇進はする。

 泊付の為に、薩長土肥軍閥、九州方面軍が、有馬に与えた仕事だったが、羽染はそういった事情は知らない。

 羽染はといえば、第二科の作戦立案班に異動になった為、現在は第二天空鎮守府内で、書類仕事をしながらの訓練に変わっていた。

 その為、議事会館に行く元老院議員を見かける頻度も――その噂を耳にする機会も増えた。保科の話していた事を、理解するようになったのは、この頃からである。