【三】情けない好敵手




 有馬宗一郎は、軍服の首元を手で緩めながら第二天空鎮守府の三階を歩いていた。

 毛足の長い緋色の絨毯の上を、黒い革靴で進んでいく。

 ここは――優秀な軍人が集まる階だ。内勤の執務室が数多く並んでいる。

 『優秀な軍人』……それは、要するに旧薩長土肥軍閥――九州方面軍の集まりである。
 山口県主宰薩摩藩の士官学校を首席で卒業した有馬は、実質この代において、いやここの所の九州方面軍きっての実力ある新人だとされている。長州が推す新人でもある。その評価を、本人も妥当なものだと思っていた。

 ――たった一度だけ、そしてたった一人だけ、好敵手がいるとはいえ。

 今思い出してもはらわたが煮えくりかえりそうになる、剣道新人戦の事を思い出しながら、有馬は唇を噛む。皮が剥けて、血の味がした。

 有馬にとっては、『実力』こそが全てだった。
 先輩だろうが後輩だろうが、無論同輩だろうがそれは関係無い。
 そしてそれは正々堂々とした結果でなければならなかった。

 幸運がもたらした、あるいは何らかの思惑が働いた結果など、有馬にとっては何の価値もない。汚職、不正。そうしたものに、有馬は吐き気を覚える。勿論それらを許容できるようになる事も、大人になった証だと言われれば反論できない場合もあるが、有馬はこの国のためにこそ、そして故郷薩摩のためにこそ、正しくありたいと思うのだ。

 そんな事を考えながら歩いていた時の事である。
 さしかかった曲がり角の向こう、入り組んだ旧館への渡り廊下の辺りから、何かが壁に叩きつけられる音が響いてきた。

 驚いて目を剥き、壁に背を近接させて、角の向こうを覗き込む。

「本当に見る目が無いよな、会津って」

 哄笑が響いてきた。
 見れば一人の青年が、壁に叩きつけられていた。
 露骨に腹部を殴られたらしく、唇を噛みしめて痛みをこらえている様子だ。
 青年に対し、複数の取り囲んでいる軍人達が、蹴りや拳を叩き込んでいる。

 一対多数。

 殴られている青年は自分と同じ年の頃。

 取り囲んでいる者達も同年代だが、ただ一人殴られている青年の胸元には中尉の階級を示す階級章があり、他の者達にはそれが無い。

 常時であれば、これは上官侮辱罪で懲罰ものだ。そうでなくとも、暴行など、到底許されるような行為ではない。

 有馬は、殴っている面々に心当たりがあり舌打ちした。
 同郷出身者も多く、加害者達が旧薩長土肥軍閥の人間だと分かる。

 そして同時に、殴られているたった一人も、有馬はすぐに誰なのか理解してしまった。

 体力が無くなってしまったわけでもないだろうに、ただ無抵抗で殴られている青年は、羽染良親という有馬と同期の、東北方面軍閥出身者の中でも蔑まれている会津藩出身の中尉だ。中には、中等士官学校卒である事への妬みもあるのかもしれないが、露骨に差別されている事は、有馬も知っていた。

「てめぇら、なにやってるんだよ」

 有馬が声を張り上げて姿を見せると、殴っていた面々が動作を止めた。

「あ、有馬大尉……」
「多勢に無勢とは情けねぇな。薩長土肥の名を汚すんじゃねぇよ。散れ」

 有馬の一声で、羽染を取り囲んでいた面々はその場から姿を消した。
 静けさが戻った廊下で、有馬が羽染に手を差し出す。

「てめぇも情けねぇな。少しはやり返すぐらいしろよ」
「……」

 無言で有馬を見上げた羽染は、何も映していないような瞳で静かに瞬いた。

 羽染の長い睫毛を見て、有馬は、軍人よりも歌舞伎の女形でもやっていれば良いだろうにと内心思う。裸体を見たことがあるわけではないから、筋肉の付き方など知らないが、少なくとも軍服を纏っている羽染は、軍人にしては細身だ。ただ羽染が着やせするたちでそれなりに筋力はあるのだろうと有馬は推測している。それは嘗て、剣道で竹刀を交えた経験からだ。

 丁度その時、議員会館に繋がる右手の通路から、声が聞こえてきた。

「お待ち下さい、鷹司様」

 首に銀色の犬用の首輪をはめられた少年が、小走りに前を歩く少女を追いかけている。首輪の先に伸びる鎖を引いているのは、天皇家とも血縁関係にある薩摩藩選出元老院議員の鷹司由香梨である。十三歳の見目麗しい少女だ。

「全く汚らわしいのね、会津の藩主は。貴方は私の靴でも舐めていれば良いのよ」

 忌々しそうに言い捨てた彼女は、着いてくる会津藩選出議員の、同じ歳の少年――保科秋嗣をわざとらしく睨め付けている。洋装のワンピースを纏った由香梨に、和装の保科少年は、満面の笑みで付き従っていた。

「右の靴で宜しいですか?」
「冗談よ、気持ち悪い」
「今日もお綺麗ですね、鷹司様は」
「さっさと行くわよ」

 うんざりした様子の由香梨と、まるで犬のような保科。
 その光景を、思わず眉を顰めて有馬は見送った。羽染は何も言わない。

 有馬が入隊する以前から、第二天空鎮守府では、保科秋嗣が鷹司家の由香梨様に擦り寄り、犬のように、下僕のように振る舞っている――という話は、単なる噂の域を超え、事実として周知されていた。そうまでして会津藩は権力に預かりたいのかと、嘲笑されている。有馬も保科の姿を見る度に、正直情けない気分になる。

 二人の影が見えなくなってから、有馬は羽染に向き直った。

「君主が君主なら、家臣も家臣だな」

 そう言いながら有馬が手を差し出す。羽染は、その手を取らない。無言で立ち上がると、有馬など視界に入っていないかの様子で、歩き始める。

「お、おい」

 有馬が呼び止めるも、羽染はそのまま去っていく。
 その後ろ姿を暫し眺めて、有馬は嘆息した。

 ――こんなにも情けない好敵手っているか?

 中等部でも高等部でも統一試験で有馬が負けた相手。それが羽染だった。

 これまでの高等士官学校までの統一試験で常に有馬は、次席だった。形ばかりの守秘義務が横行するこの世界では、先輩軍人に聞けば一位が誰かも分かる。

 ずっと成績で負け続けた羽染良親に、この第二天空鎮守府で、漸く相対できたと思ったら、相手はとんだ腑抜けだった。これで、ただのインテリカルテルというだけなら、まだマシだった。

 有馬は、初めて羽染と会った日の事を思い出す。第二天空鎮守府剣道新人戦での邂逅の記憶。鮮烈な印象が、いつまでたっても消えないのだ。

「本当は強いくせに」

 羽染が廊下を去っていく姿を一瞥しながら、有馬は呟いた。
 ――本気で戦いたい。

 けれどそれは、現状では叶わぬ希望だった。
 せめて戦績で勝利しようと思っても、自身は安全な土地で約束された勝利の指揮官に祭り上げられ大尉となってしまった。上手くいかない。

「このまま一生勝てないのか?」

 一人呟いた有馬の声は、廊下に霞んで消えていく。
 目を伏せれば、やはり思い出されるのは、竹刀を交えたあの日の事だ。

 あの日、試合後、有馬は控え席で見守っていた、長州藩出身の、朝倉継通中佐の元へと戻り、憤怒を顕にしたものである。

 朝倉をはじめ、二人の試合を見守っていた人間は多い。

 朝倉は第二天空鎮守府きっての有名人だ。戦績も華々しい。逆にそのせいで、外部にも身内にも敵は多いのだけれど。

 その朝倉を尊敬してやまず、朝倉の副官になりたいと言ってきかない有馬は、是非試合を見て欲しいと朝倉に事前に伝えていた。だが試合後、防具を外すとそれを投げ捨てた。剣道の精神には反するだろうが、そうせずにはいられなかったのだ。

「おめでとう」

 笑顔で朝倉にはそう褒められたが、その時の有馬は眉間に皺を刻み、険しい顔をしていたものである。

「めでたくなんてありません。あいつ、わざと隙を作りやがった。わざと負けた」
「だとしても、勝ちは勝ちだ」
「こんなの勝ちに入らない」

 吐き捨てるように言った有馬の声に、朝倉が苦笑する。

「きっと彼には彼の戦いがあったのさ」

 この戦い以後、有馬は羽染の名前を、より一層、忘れられなくなったのである。


 ◇◆◇


 羽染は、首輪を繋がれ、それでもなお笑顔で第二天空鎮守府を歩く主の姿に慣れつつあった。

 それこそ最初に、薩摩の元老院議員に家畜のように扱われても笑っている姿を見た時こそ、胸を痛めはした。

 しかしそれに耐える己の主の姿を見る内に、主人が耐えている以上、波風を立てないように、ただ貝のように黙し、痛みに耐える決意をより強く固めた。

 ――いつか、幼い主は、会津を守りたいと言った。

 その声に嘘はないと、羽染は信じている。
 そして会津を守ると言うことは、下劣とはいえイジメを糾弾する事でも、そうして誇りを守る事でも無いのだと、そう理解した。

 じっと堪え忍び、機を見て、行動する事。

 どんなに卑しく強者にすり寄ると蔑まれようが、それで会津に利益をもたらすことが出来るのであれば構わない。現在最も権勢を誇る薩長に頭を下げ援助して貰うことは、戊辰戦争の恨みを晴らすよりも余程有益な事なのだろう。

 羽染はそう考えながら暫し歩いた後、背後を振り返った。遠目にまだ、有馬の姿が見える。

 ちなみに羽染は、これまでの統一試験で常に次席だった相手だという事すら知らなかった。そもそも羽染は、自身の学生時代の成績表などまじまじと見た事は無かったからだ。軍部には実名が周知されていたとはいえ、羽染のように先輩軍人に問わない学生が他者の成績など知る機会は無い。羽染は自己研鑽には興味があるが、他者との競争にはあまり興味を抱いていなかったと言える。

 それでも――剣道新人戦の後は、有馬の存在を、幾ばくか意識するようになった。
 羽染もまた、有馬と同様に、いつか本気で手合わせしたいと願っていたのである。

 二人の想いは同一であるが、軍部内の空気は、二人が交わる事を、この時はまだ、許していなかった。