【四】解けた靴紐と威嚇する猫





「ん、靴紐が解けた」

 山縣寛晃大佐が飴色のブーツを見下ろし屈んだ時、正面には朝倉と有馬が立っていた。

 長州と薩摩出身の二人と、土佐出身の山縣が親しくなったのは、なにも九州方面軍閥の関係者だからではない。同期の朝倉と山縣は、正反対の性格だったが、何かと意見が合致して自然と親しくなった。現在は共に二十七歳だ。

 なお昇進こそ山縣の方が早かったが、大佐になって以後、山縣の出世は止まっている。

 一方の朝倉は着実に出世し、今は中佐だ。階級だけ見れば山縣の方がまだ上だが、異例の出世を遂げた山縣は若くして大佐になったまま動きがないのに対し、朝倉の方は着実に出世している。二人は好敵手ではなかった。そう言う意味では有馬が羽染に抱いているようなライバル心は無い。『親友』そう呼ぶのが相応しいだろう。

「何をやってるんですか、山縣さん」

 その流れの中では、朝倉に懐いている有馬が、山縣と親しくなるのも道理だった。

「山縣、先に行くよ。いつも通り、有料食堂の方にいる」
「ああ、そうしてくれ。俺、Bランチな」
「席をとって、頼んでおきますね」

 朝倉と有馬を見送りながら、山縣は静かに靴紐を結び直した。
 二人が行ってしまうと、廊下は静かなものである。
 そんな一人の空間が、山縣は好きだった。普段は人気がある場所が、不意に静寂に包まれる一瞬は、特別に思える。

 ――若くして大佐になった。それ以上昇進しない事を前提に。

 ふと過去の『契約』を思い出して山縣は唇の片端を持ち上げた。
 昇進しないのには理由がある。大佐昇進と引き替えに、山縣は二重軍籍を得たのである。史上最年少の大佐昇格は、『諜報部所属』となる条件だったのだ。

 大日本帝国は、まだまだ情報戦に弱い。
 だからこそ有能な人材を、諜報部に集めている最中だ。

 それを理性では分かってはいても、母国土佐に、錦を飾らぬ内に、軍の表から姿を消すわけにはいかなかった。大佐まで昇格すれば、どうにか許容してもらえる。例えその後一切昇格せず、窓際に追いやられたと名指しされようとも。

 これは国のためにも土佐のためにもなる。
 ただ時々山縣は、真っ直ぐに歩く朝倉や有馬を羨ましいと思う事もある。

 名乗れぬ諜報部将校――少将となった現在でも、第二天空鎮守府において一般的な大佐の顔をしているのは、そんな実情があるからなのかも知れなかった。

 靴紐を結び終えた時、山縣は気配に気づいた。遠くから聞こえてくる失笑に、山縣は顔を上げる。

 見れば角から、突き飛ばされた一人の青年が倒れ込んできて、したたかに壁に背を打ち付けた所だった。続いて幾人かの人間が姿を現す。皆ニヤニヤと笑っている。

「本当は陥落してないのに城が落ちたと思って、自殺した白虎隊って馬鹿だよな」


 ◇◆◇


「本当は陥落してないのに城が落ちたと思って、自殺した白虎隊って馬鹿だよな」

 その言葉を聞いた時、羽染は、眼窩の奥がチカチカと赤色に染まっていくのを自覚していた。

 殴られるのはいつもの事だった。
 馬鹿にされるのもいつもの事だった。
 ――嘲笑されたって良い。
 会津が馬鹿だった、それは既に聞き慣れた言葉だ。
 ただ。

『本当は陥落してないのに城が落ちたと思って、自殺した白虎隊って馬鹿だよな』

 放たれた言葉が、脳裏に焼き付き、激情を煽る。
 噛みしめていた唇から血が滴った。

 ――君主を思うことは悪しき事なのか? 馬鹿げているのか?
 ――忠義を尽くして自決した事を笑われるのは、許せるのか?
 ――何故、何故、笑われなければならない? 笑わせておいて良いのか?
 ――決して、断じて違う。そこにあった想いの何が分かるというのだ。

「僕は良い。好きに笑え。だけどな、だけど――」

 これ程までに怒りに駆られたのが何時ぶりなのか、羽染自身分からなかった。

「侮辱するな。先人を侮辱するな、何も知らないくせに」

 羽染は、周囲にいた四人のそれぞれに、膝を叩き込んだ。
 その軽やかな羽染の動き――目で追うだけで精一杯の速度に、羽染を暴行していた者達は皆、倒れる。血を流す者や歯が折れた者こそいなかったのは、激情に駆られてもなお、羽染が手加減を加えたからだろう。

「やるねぇ」

 ブーツの踵の音が、カツカツと響いた。羽染が我に返ったのは、その時の事である。
 歩み寄ったのは山縣で、彼はニヤリと唇の片端を持ち上げた。

「噂とはだいぶ違うな。やられっぱなしの会津志士って聞いてたが」
「……」

 青ざめた羽染は、己の行為を振り返り、きつく目を伏せた。
 これでは保科の足を引っ張ってしまう。それが、真っ先に浮かんだ思考だった。
 一番辛いのは、幼いあの君主であるはずだと感じていたからだ。

「全部見てた」

 愉悦を含んだ山縣の言葉に、羽染は目を開け、顔を向ける。

「これは、自制しきれなかった僕の落ち度です」

 だから保科にも会津にも何の関係も無いのだと、羽染は続けようとした。

「落ち度?」

 しかし山縣は、腕を組んで笑うだけだ。実に楽しそうな顔をしている。

「何言ってんだよ。立派な上官侮辱罪で、お縄に着くのはそこに倒れてる連中の方だ」
「……え?」

 意外な山縣の言葉に、羽染が目を瞠る。

「ですが、彼らは、九州方面軍閥の……」
「関係無ぇよ。あるって言うんなら、俺が手を回してやる」

 そう言って喉で笑った山縣は、それから二度、羽染の肩を叩いた。

「誰だって自分の故郷を馬鹿にされたら頭にくるだろ。違うか?」
「それは……ですが……」
「お前はまだ若いんだから、信じた事をやれよ」

 山縣はそう言うと、自身の前髪を摘んだ。
 羽染よりも高い背を少し曲げ、目線を合わせる。

「お前、俺の事が誰か知ってる?」

 その声に、狼狽えたように羽染が息を呑んだ。

「俺はお前の事、知ってるぞ、羽染中尉。高等士官学校新卒だから、中尉なんだよな。有馬のライバル。最も有馬は、箔付けに出された戦場で、戦績を押し付けられて大尉に昇格してるけどな。お前まさか、有馬のことは知ってるだろ?」
「……名前と顔程度は」

 羽染が顔を逸らすと、虚を突かれたような顔をした後、山縣が破顔した。

「有馬が聞いたら泣くぞ。まぁ良い。俺の事だけでも覚えておけよ、羽染。俺は山縣大佐だ。多分死ぬまで大佐。死んだら二階級特進だけどな」
「山縣大佐殿」
「そう」
「どうして……」

 どうして、助けてくれるのか。羽染は問いかけたかった。

「俺は国内事情より、国外、対外国向けの仕事をしてるんだ――まぁでも、この国を思ってるんだよ。お前は、地元と日本どっちが大事だ?」
「……地元です」
「正直で結構。何せその地元の積み重なりが大日本帝国だからな」
「僕は――」
「何も言うな。お前の目は、結局は、この国のために尽くすって色をしてる。地元を大事に出来ない奴が、国を大事に出来るはずがない。お前みたいなのは、優秀だよ。何かあったら言え」
「……」
「ま、窓際族だから力になれることは滅多にないけどな、困ったら話すだけ話してみろよ。ごく稀に役に立つこともあるかも知れないからな」

 羽染の首に手をかけ抱き寄せニヤリと笑ってから、山縣は歩き出した。
 暫しの間、呆然と羽染は、そんな山縣の姿を見送っていた。


 ◇◆◇


「遅かったですね、山縣さん」

 食堂に着いた山縣に、有馬が声をかけた。四人がけの席には、本日のBランチが既に置かれていた。巨大なエビフライがメインだ。

「ああ、ちょっとな。大人しそうな猫が、威嚇してる所に遭遇してな」
「猫?」

 朝倉が首を傾げる。その正面に座った山縣は、楽しそうに頷いた。

「君は、猫がこの世で一番嫌いだって言っていなかったかい?」
「猫の手も借りたいほど忙しいんだよ、俺は」

 山縣が肩を竦めると、朝倉が短く吹き出す。それを見ていた有馬が、首を捻る。

「猫に手はありませんよ」