【五】死線を潜る
帝国新聞を畳の上に広げながら、朝倉は白ワインの浸るグラスを傾けた。隣には軍発行の新聞もある。どちらの新聞にも、東アフリカで起こった武力衝突に関して記述されている。大日本帝国も参戦するという決定がなされたのは、残暑が厳しいある日の事だった。
「まさか、ここまで嫌われているとは思わなかったよ」
新聞から視線を背け、朝倉はそう言いながら、桂馬を進める。新聞記事には、総指揮官として、朝倉継通中佐が――『日本国の英雄』が、赴くと書かれている。
すぐに銀を動かしながら、山縣が肩を竦めた。朝倉の家に山縣が顔を出す頻度は多い。そんな時、二人は多くの場合、ゲームに興じる。本日は将棋だ。
「東北方面軍に恨まれるのは兎も角、身内の長州に激戦地へ左遷させられるとは思わないだろうな、普通」
長州出身の朝倉が、東アフリカ平和維持軍の指揮官として派遣されるまでには、もう残りの日数が少ない。お互い軍人であるから、いつ死ぬとも限らないわけではあるが、こうしてゲームに興じていると、不思議と『これが最後』という感覚にはならないというのは、朝倉と山縣の共通した内心だった。
だが――朝倉が派遣される先は、客観的に考えれば、非常に厳しい場所であり、激戦地と言えた。だから、『最後』なのかもしれないと、双方漠然と考えてもいる。正確には、『最後かもしれないが、とてもそうとは信じられない』という感想を、二人は互いに抱いているのかもしれない。
「率直に言って後進国。核すらもない。第一次世界大戦レベルの内線地域だ」
白ワインを飲み干し、グラスを置いた朝倉は、視線でボトルを探す。
一方の山縣は持参した赤ワインをグラスに注ぎながら苦笑した。
「通常なら、東北方面軍閥から指揮官が選出される局面だしな。要するに死んでも良い軍人が行く場所だ。ま、『日本国の英雄』と言われてるお前の周りは、敵だらけって事だ」
朝倉は、裏の事情がある山縣とは異なり、その武勇で出世を重ねている。
英雄、そう朝倉を呼ぶ者は多い。
反面、若くして地位も影響力もある彼を快く思わない者も多い。
会津や旧奥羽越列藩同盟の軍人は勿論だが、同郷の人間で、朝倉と雌雄を競っている人間の中にも、反感を抱いている者が多いのが現実だ。朝倉を目障りだと思う同郷の人間も多いのが実情だ。
「まぁ陛下の命である以上、行ってくるけどね」
軍隊は名目上、天皇家がその最高権力者という位置づけだ。憲法において定められている。新大日本帝国憲法は、第三次世界大戦時に作られたものだ。
「生きては帰れないかも知れない。その時は、有馬の事を頼むよ」
以前から自分の副官になりたいと言ってくれている後輩の事を思いながら、朝倉は微笑した。現在朝倉には、特定の副官はいない。
戦地が変わる度に、その都度人を選んでいるのが現状だ。それが許される立場に朝倉はいた。大日本帝国軍が、戦争の度に新しい軍事編成による師団を作る組織である事も手伝っているのだろう。
「俺も生きて帰る確率の方が低いとは思うが――有馬の事は引き受けられない。あいつはお前が死んだら殉死するんじゃないか」
山縣のそんな言葉に、朝倉が肩を竦めて笑った。
「山縣が僕の副官だったら、まだ希望が見いだせたんだけれどね」
「階級が上の相手を副官に出来るわけがないだろ」
「分かってる。ただ、この軍部で信用できる人間が、君しかいないって事さ」
「朝倉。親友として一つだけ忠告する。俺の事も信用するな」
山縣はそう告げると、赤ワインをグイと煽った。
「……引き受けるつもりはないが、有馬を頼みたいと言う事は、副官を有馬にする気は無いんだな?」
確認するように山縣が問うと、朝倉が笑みを浮かべたまま頷いた。
「僕の次の代の九州方面軍閥の要は、有馬だ。僕も有馬もいなくなれば、九州方面軍閥は軍内部で力を削がれる未来を想定するのは易い。それだけ、僕は有馬をかっている」
それを聴くと、駒から手を離して、山縣が腕を組んだ。
「で――無能の中から、今回の副官を選ばなければならない訳か」
「薩長土肥……長州や、お前の土佐をのぞいても、薩摩や肥後の軍人もいる。もっとも、死線だから、東北方面軍閥側から押し込まれる可能性もあったけど――副官だけは……僕の一任で良いように、手配したよ」
わざとらしく嘆くように、朝倉が言った。それに対し、山縣が片目だけを細めて苦笑する。
「敵ばかりだな。どこから選ぶつもりだ?」
「一番死んで都合が良いのは旧奥羽越列藩同盟の人間だね。国もそれを望んでいるんだろうさ、僕の首を盗りたいのと一緒で」
「間違いないな」
赤ワインをつぎ足しながら、山縣は静かに目を伏せた。どこか思案するような面持ちだ。
「誰にするか決めたのか?」
「いいや」
率直に応えながら、朝倉が白ワインを煽る。本当にあてがない。朝倉は意識を将棋に戻し、指先で香車に触れる。
「これは友人として、大佐ではなく少将として言う」
すると即座に金を動かし次の一手を進めながら、山縣が唇を動かした。
「旧奥羽越列藩同盟主体の東北方面軍閥――いいや、その諸悪の根源と言われてる会津藩。そこ出身の士官に、羽染中尉ってのがいる。知っているか?」
静かに響いた山縣の声に、朝倉は顔を上げた。
「ああ、有馬が学生時代一度も勝てなかった秀才だな。剣道でも、わざとあちらが負けたと有馬が言っていたよ」
「わざと負けた、か。事実かも知れないな」
「直接見ていたけれど、間違いないね。実際、紙一重だったけどね」
思い出すように朝倉が笑う。剣道新人戦から既に三ヶ月近くが経過している。
「お前、どうせ死ぬ気で行くんだろう?」
山縣が赤ワインを飲んでから問うと、朝倉が頷いた。
「何時だって僕は死んでいるんだ」
「諜報部少将として得た情報で、羽染がお前の暗殺を命令されたと聞いている」
「そうか。彼には残念だね。僕は戦地で死んでしまうのだから」
暗殺――そんな物騒な山縣の言葉にも、朝倉は動じない。命を狙われる事が多いからだ。山縣も普段だったらわざわざ警告などしない。寧ろ今、羽染の話題を出したのは、別の理由からだった。
「そうでもない。俺の直感がわめくんだ。羽染は使える、ってな。どうせ死ぬつもりで、落とす気でいる命なんだろう、朝倉。副官に、羽染を連れて行け」
「……好きこのんで殺されるほどの享楽主義者ではないよ」
「どうせ戦地での大した策も無いんだろ?」
「あったら今頃お前と酒なんか飲んでいないさ」
朝倉がどこか投げやりに述べると、山縣がどこか遠くを見るような瞳に変わった。何かを逡巡した様子の後、改めて朝倉と視線を合わせる。
「もしも羽染がお前を殺さず、この戦況を打破する案を見出したら?」
山縣の言葉に、朝倉が小首を傾げた。
「前者は兎も角、後者は夢の見過ぎだ。暗殺者とは大抵尻込みするものだからね」
「前者は寧ろ遂行してくれた方が俺にとっては都合が良い。それでこそ『諜報部』に勧誘のしがいがあるというものだ」
勧誘するという趣旨で、山縣は羽染に目をつけていたのだろうかと、朝倉は考える。諜報部への所属は非常に難しい。何せ公的には存在しない部署だからだ。代わりに実力者が集まっている。中には表面上は軍属していない商人等も加わっている。
「問題は羽染の場合、後者――ただのお飾り的な文武両道なのか、実践に応用できる実力者なのか。俺みたいに『本当の中央』までくるとな、一人でも優秀な人材が欲しくなるんだよ」
「それは僕のような親友の命で試しても、と言う事かい?」
「親友だからこそ、お前が暗殺されるようなタマじゃないって信じているんだよ」
「――王手。もし、羽染が本当に有用な人物で、僕と一緒に帰還したら、じゃあ悪いけど、僕が貰うよ」
「なっ」
山縣が息を呑む。それは朝倉の一手に対してだったのか否か。
こうして、二人のある残暑の日は過ぎていった。
◇◆◇
晩秋、羽染は一人、寮の自室で、先日会津に帰郷した時の事を思い出していた。
四月に帝都東京に着任し、四ヶ月が経った頃の記憶だ。
お盆休みが与えられたのだ。
久方ぶりの帰郷を果たした羽染は、その日、私立病院で眠る妹小夜の顔を眺めていた。
――『旧薩長土肥軍閥の朝倉継通中佐を暗殺せよ』
その命が下ったのは、その帰省時の事だった。妹の見舞いに訪れた羽染を、会津藩の重鎮達が呼び出したのである。
本音を隠し腰を低くし、会津のために尽力している保科とは、中々顔を合わせる機会が無くなった頃合いだった。東アフリカの武力衝突の話題が響きはじめ、羽染の雑務が増えていた時期でもある。保科もまた、議会で多忙な時期だった。
見舞いに出向いたその日――妹の心臓の鼓動を管理する機器に手をかけた医師が羽染に、日新館の道場へと行くように指示をした。断れば妹は死ぬ。それを羽染は知っていた。
そしていつか保科秋嗣と二人きりで話した道場で、羽染は会津藩の重鎮達に囲まれたのである。医師にも、藩の重鎮達の息がかかっているのだ。
「朝倉がいなくなれば、長州の勢力を削ぐ事が出来る」
「そうすれば、会津にも名を上げる機会が訪れる」
そんな事を口々に言う面々に、羽染は眉を顰めた。背筋が冷えた。
羽染の瞳が困惑と憤怒、そして悲愴に濡れていった。
「朝倉中佐が何をしたのですか?」
「存在が害悪だ」
「人とし生きる事は、最低限の権利です」
反論した羽染の前で、会津藩の重鎮達が溜息をつく。皆、呆れ顔をしていた事を、羽染はよく記憶している。
「では人間として不完全な、病を得たお主の妹は、生命維持装置を切っても構わぬか?」
その言葉に羽染は目を見開いた。体が強張り、嫌な汗が背筋を伝っていく。
「全ては、この会津のためなのだ。分かってくれるな?」
「……」
「お主しか、帝都にて朝倉を暗殺できる者はいないであろう。他の東北方面軍の者は皆、監視されておる」
羽染は目眩を覚えた。足元が崩れ落ちそうになる。
――顔すら知らない相手を、暗殺?
そうしなければ妹を殺すという同郷の者の方が余程、敵に思えた。
けれど……故郷の人々を裏切る事は出来ないという気持ちもあった。
蕩々と、どれだけ会津の人々や旧奥羽越列藩同盟の人々が、旧薩長土肥の人間から辱めを受けてきたのか聞かされた。上京して知った現実と、それらは違わなかった。
怒りとやるせなさが、この身を苛んでいく――羽染の中には、そんな想いもあった。
実際、陰湿なイジメを目の当たりにしてきた。だが、だからと言って、人の命を奪うという事に、抵抗感が無いはずもない。
それでも、妹の事を思えば、断る術も無い。故郷は大切だが、敵ばかりだ。身動きがとれず、呼吸が苦しくなる。しかしいくら耐え難くても、それが羽染にとっての現実にほかならない。何より、尽力している保科を思えば――会津を捨てるという選択肢も無い。
「……分かりました」
この日、羽染は、朝倉の暗殺を引き受けた。
――それが、第二天空鎮守府の諜報部、山縣達に筒抜けである事など知らぬまま。
そんな帰郷時の事を思い出しながら、羽染は荷造りを始めた。東アフリカへの戦闘に、総指揮官の副官として伴う事に決まった為、その準備をしていたのである。出立の、前日の事だった。総指揮官は、暗殺を命じられている、朝倉継通中佐である。
◇◆◇
「すまぬ」
朝倉中佐の任命で、副官として東アフリカへと出向く事になったその日。
羽染は、軍用空港のロビーで立ち止まった。か細い声だったが、聞き違えるはずのない、君主の声が耳に入ったからだ。驚いて動きを止め、振り返る。
「保科様……」
「すまない」
立ち止まった羽染に、保科が駆け寄ってきた。
自分よりも頭二つ分背の低い少年は、自身の両手の袖を掴んでいた。ギュッと服を握りながら、じっと羽染を悲痛な面持ちで見上げている。
「わしが……僕が……僕が、帝都に呼ばなければ……」
唇を噛みしめ、眦に涙を浮かべながら俯いた幼い君主。その姿に、羽染は嘆息し、そして微笑んだ。
――暗殺話の件を、保科様は知らないだろう。
羽染はそう考えていた。
「大丈夫です」
羽染が知っている君主は、決して人の命を奪おうなどとはしない。
そして実際、保科は、朝倉の暗殺話など知らなかった。
ただ自分が呼び寄せた腹心の部下が、軍部の采配で死線に送られると聞いて駆けつけただけだ。会津藩の各校の卒業式にすら顔を出さないと専ら評判なのにも関わらず。
「保科様、この国のために、僕は全力を尽くします」
「羽染……」
「ですから保科様は、会津を、そしてこの国を、より良いものに」
国、と言う語を舌にのせながら、やはり外交官になりたかったなと羽染は感じていた。
武力ではなく、もっと平和的な手法で、幼君主の力になれれば良かったという思いが強い。
これから羽染が赴く東アフリカは、第一次世界大戦頃の戦法が主体の戦地であり、最新鋭の兵器は人道的ルールにより使用困難だ。そうである以上、死亡率も高い。
「……生きて帰れ」
「え?」
「生きて帰れ。これは命令だ」
保科はそう告げると羽染の腕を取り、そこに額を押し付けた。
「――御意」
思わず苦笑しながら、羽染は、保科の髪を撫でようとして直前で取りやめた。もう、保科は子供ではないのだと、確かに君主なのだと、そう思ったから不敬だと己を戒めた結果だ。それでも、自分のために涙してくれる保科の事が、大切だと羽染は感じていた。
こうして、羽染は東アフリカへと向かう軍用機に搭乗したのだった。
◇◆◇
東アフリカに派兵されて、三ヶ月が経過した。既に日本であれば、季節は冬だ。十二月、膠着状態の戦況で、戦いの終わりは見えない。
現在は統一アフリカ共和国とイニレシア王国という新興国の武力衝突に、大日本帝国主体の平和維持軍が平和的統治を目標に参戦している。
朝倉継通中佐は、東アフリカの一角に築いた軍事基地の一室で、簡素な椅子に座っていた。背を預ければギシギシと音が鳴る。一人きりの室内だ。総司令官室とは言うものの、設営された部屋は、本当に質素だ。
――ここが、死地か。
そんな想いが駆けめぐり、呆気ない人生だったなと思う。
場所が僻地過ぎて、連絡手段が何も使えない。こういう部分で、技術的先進国とその他の差が出てくるのだろう。何も設備が無い国では、最先端科学を用いた機器は、逆に無力化される場合もある。
そこへ、ノックの音が響いた。
「どうぞ」
「失礼いたします」
入ってきたのは、羽染だった。
「何かあったのかな?」
「統一アフリカ共和国は進撃準備を整えた模様、右のイニレシア王国は、まだ準備中の様子です」
前方と右手に敵軍が居る。左手は海だ。後方には、敵国でこそ無いが敵対的中立国のスウェーリア公国が位置している。
「援軍と連絡は取れたのかい?」
「いいえ」
「もう詰んだと言っていいね」
終始笑顔のまま朝倉はそう告げた。勿論作り笑いだ。動揺も、投げやりな気分も、総指揮官として部下に見せる気は、朝倉には無かった。
そもそもこの派兵には無理があったのだ。無理を承知で――あるいは死にに来たというのが正しい。実の所、朝倉自身はそれ程、生命に固執してはいなかった。部下の命を預かる以上、なんて情けないのだと言われても仕方がないのかも知れないが。
朝倉は、極度の享楽主義者だったのだ。本人はそれを否定するが、他に言いようが無い。他者の生死を弄び楽しんでいると噂される山縣よりも余程。
朝倉はいつも賭けているのだ。『自分は死なない』、と。
なお……山縣が推薦した羽染を連れてきた事には、僅かながら罪悪感がある。
けれど親友は恐らく自分を生かそうとしてくれたはずだと朝倉は思う。山縣が誰かを推薦する事など、過去には無かった。だからその提案を受け入れはしたが、羽染と過ごす内に度々考えてしまうようになった。羽染は、客観的に見て、若き優れた軍人だ。その命を預かる重み、それが朝倉にのしかかってくる。
「悪かったね、羽染中尉」
「――?」
「僕が連れてこなければ、君は生き残る事が出来た」
「……死線を潜る戦地に赴くのは、東北方面の軍人の定めです」
「それでも僕は、優秀な士官の命を絶ってしまう事に責任を感じるよ」
朝倉は苦笑するようにそう告げた。
実際、羽染はよく働いてくれた。
恨みなどおさえきれぬほどあるだろうに、まるで手足のように動いてくれたのだ。
朝倉のこれまでの軍人人生の中で、羽染のように優秀な部下はこれまでにいなかった。
「朝倉中佐。ならば、勝利への道筋をお考え下さい」
羽染は、軍服の中に仕込んだ拳銃の銃把に手をかけていた。
ここで射殺すれば、任務は遂行だ。
けれど……戦争で死んでくれれば、自身の手を汚す事もなく平穏だ。
どこか一歩引いた理性で、羽染はそんな風に考えていた。
殺せ。殺せ、殺せ。
それが自身に与えられた使命であると、羽染は正確に理解していた。
指揮官を殺したとしても、この戦場でどうせ負けるのならば、日本軍は大した打撃を被らない。大日本帝国軍も敗退を前提に、想定して、派兵しているはずなのだから。
嫌と言うほどその事を、羽染は理解していた。
同時に自分が死んだとしても、何もまずい事はない。
だが――それでも。
「もう一度言います、朝倉中佐。勝利への道筋をお考え下さい」
繰り返した羽染は、自身の事が統制できないような感覚に陥っていた。
「何か、策があるのかい?」
「成功するかは分かりませんが」
羽染は、意を決する。羽染もまた、朝倉と過ごす内に、力になりたいと感じるようになっていたからだ。暗殺対象だとしても、少なくとも、この場において、己は朝倉の、紛れもない副官だという自負がある。
「イニレシア王国は、準備までに未だ時間がかかるはずです。各個撃破しましょう」
「誰が先陣を切るんだい? 成功する確率は三割だ。それに同様の作戦は、既にこれまでの第一次世界大戦で失敗している国がある」
「敗因は十分にひきつけなかった事です。まずは統一アフリカ共和国を限界まで引きつければ勝機はあります」
「限界まで引きつける度量がある指揮官が、果たしてこの部隊にいるかな」
羽染は思った。
どうせ殺せと言われている相手だ。端から期待なんてしていない。
ただそれでも、こんな大胆な作戦を許容してくれる相手なら、部下を信用してくれる相手なら、ずっとついて行きたいと思った。
「僕が行きます」
羽染のその言葉に、朝倉が目を見開き、何度か瞬いた。
「君は、そんな事をしている場合なのかい?」
てっきり、二人きりの密室という最善の場所であるのだから、暗殺を実行されるのではないかと、朝倉は考えていた。羽染が銃の位置を確認している事にも気づいていたのだ。
「――は?」
だが羽染は、何を言われているのか、全く分かっていない。
「いや……君を信じるよ」
朝倉は気持ちを切り替え、羽染を身内だと思う事にした。本当は、自分を暗殺する気でいるのだろうと、言おうと思っていたはずなのだが……それは口から出てこなかった。
「ただし僕も行く」
「総司令官が戦地に出てどうするのですか。それに率直に言って、足手まといです」
羽染が断言した時、朝倉は返す言葉を失った。
「羽染……君は、日本が好きかい?」
「? ええ」
「じゃあ日本と会津、国と故郷、どちらが好きだい?」
「朝倉中佐? 何の話ですか? 今は、ただ任務を遂行するだけです。国も故郷も無関係です。ただ僕は、目の前にある事に集中しようと思います」
こうして、後日、上弦の月作戦と呼ばれるようになる戦闘は、無事に実行され、終焉を迎えた。各個撃破に成功し、援軍とも合流し、その後数ヶ月は現地での復興作業と安定化に、朝倉と羽染の部隊は従事した。帰国したのは、春の気配が近づき始めた頃の事である。
◇◆◇
「つまり――羽染の発案で助かったわけだ?」
朝倉が大佐に昇進したという新聞を両手で握りながら、山縣が笑った。朝倉達が凱旋帰国して、すぐのある休暇日の事である。山縣が本日も朝倉宅を訪れたのだ。
「そうなるね」
赤ワインを二つのグラスに注ぎながら、朝倉が微笑んだ。柔らかなその表情を一瞥してから、山縣は唇で弧を描いた。
「良かったな、朝倉大佐。それに羽染大尉か」
山縣が新聞を折って置いた時、朝倉がグラスを差し出した。
「有馬も張り合いが出来たんじゃないか。あの年代で大尉に昇格したのは有馬と羽染だけだしね」
朝倉の言葉に、山縣が肩を竦める。
「有馬は危険無しの官軍、羽染は死線を潜ってるからな。どうだろうな」
「山縣が言った通り、羽染を連れて行って良かったよ――ただ」
「ただ、お前の暗殺を実行しなかった羽染は処分を受けるかもな」
「先手を打って、羽染を僕の正式な常時の副官にしようと思うんだ」
微笑したままつらつらと朝倉が言うと、短く山縣が吹き出した。
「悪くないが、有馬が黙ってないだろ。それに、副官にしたら、それこそそれを契機に羽染に暗殺させようって言う勢力が声を上げるんじゃないのか?」
「ねぇ山縣。僕たちは、優秀な軍人を守らなければならない。違うかい?」
「違わんな――王手」
梅の花が色づき始めたこの日。本日の将棋は山縣の勝利に終わったが、羽染を獲得するという賭の勝者は、朝倉となった。