【六】辞令




 東アフリカから無事生還し、新緑が芽吹く桜の季節が訪れたその日、羽染は新しい階級章に片手で触れていた。大尉としての生活が始まると聞いても、まだ実感は無い。正確には、どうせ毎日は大きな変化を見せないだろうと考えていた。

 だがその日、内勤の仕事をしているオフィスへと向かうと、羽染の机の上は整理されていて、出て行けとばかりにダンボールへ筆記用具等が放り込まれていた。新たなる嫌がらせだろうか、と、そう考えた時、旅団を指揮する少佐が羽染の元に歩み寄ってきた。初めて見る笑顔を、羽染に向けている。

「いやぁ、おめでとう」
「有難うございます……」
「辞令が降りた。羽染大尉、今日から君のオフィスは別の場所だ」

 少佐が羽染に、一枚の紙を差し出した。また左遷だろうかと考えつつ、静かに羽染は紙を受け取る。そこには簡素な文面で、一言――『第一旅団総司令官朝倉継通の副官に任命する』と記されていた。

「これは……」

 何度も活字を目で追う。それから顔を上げた羽染の双肩を、少佐が両手で叩いた。これまでの冷たい対応とは、反応が著しく異なる。

「朝倉大佐殿の執務室に行くように。荷物は運ばせる。まずはご挨拶だ。私の名も、これまでの上官としてお伝えしてくれるかね?」
「……」
「羽染大尉を私はかっていたし、随分と目をかけてあげたと思うんだが」
「……お世話になりました」

 そう返答しながらも、羽染はこの辞令が事実なのか、信じられない気持ちだった。無論事実でなければ少佐が媚び諂ってくる事は無いだろうし、朝倉への名前の売り込みなど頼まないだろうというのは、羽染にも理解出来た。

 朝倉の執務室は、右館の三階の、日当たりの良い場所にある。それを羽染が知ったのは、前回の派兵直前に、打ち合わせで何度か足を運んだからだ。少佐に見送られ、オフィスを出た羽染は、朝倉の執務室を目指す。

 午前九時半、羽染は朝倉の執務室の扉をノックした。

『どうぞ』

 内部から聞こえてきた優しげな朝倉の声に、一度唾液を飲み込んでから、羽染はドアノブに手をかけた。

「失礼致します」
「やぁ、来たね」

 羽染の姿を見ると、嬉しそうに朝倉が両頬を持ち上げた。執務机の上で両手を組んでいた朝倉は、穏やかな茶色い瞳を羽染に向ける。

「今日から、よろしくね」
「よろしくお願いします」
「君の席は、ここ。僕の机と角を挟んで右側だ。僕は副官とは右腕だと思うから、この配置にしたいとずっと思っていたんだ。過去に正規の副官を得た事が無いから、夢が叶った形だよ」

 朝倉が示した席を一瞥し、羽染はそちらに歩み寄った。だがそのまま通り過ぎ、朝倉の横に立つ。そして深々と頭を下げた。

「精一杯、務めさせて頂きたく思います。ご指導ご鞭撻のほど、どうぞよろしくお願いします」
「そう畏まらなくて良いよ」

 揺れた羽染の黒髪を一瞥した朝倉は、笑みを深めた。顔を上げた羽染は――己が今もなお、朝倉の暗殺を引き受けたままである事を、胸中で振り返る。

「この辞令は、どうしても君が欲しくて、僕が我儘を通したんだ」

 そう述べた朝倉を見て、東北方面軍閥による暗殺成功の為の人事では無かったらしいと、羽染は確認する。

「僕は、羽染大尉をかってるんだ。東アフリカでは――本当に助かったよ。僕達が生きているのは、君がいるからだ。改めてお礼が言いたい。有難う」

 柔らかな朝倉の表情と声に、羽染は胸が苦しくなった。羽染から見ても、朝倉は優秀な総指揮官だ。その朝倉に認められた事は、嬉しくもある。軍人としての自負のようなものが、羽染の心の中で、小さく芽吹いた。

「僕は出来る職務を完うしただけですが……お力添え出来たのならば僥倖です」
「本当に頼りになった。だから僕は、今この場に君を迎えたんだよ」

 笑顔の朝倉は、それから時計を見た。

「僕は裁量制で働いているから、定時は気にしていないんだ。ただ羽染は、僕に合わせる必要は無い。それがこの執務室の唯一の決まり、かな」
「承知致しました」
「座って。珈琲が飲みたかったら、そこのサーバーから自分で淹れて」
「朝倉大佐殿は、いかがですか?」
「僕も飲みたいな」

 それを聞いて頷き、コーヒーサーバーの前に羽染は立つ。そしてカップを二つ手に取り、熱い珈琲を用意した。両手に持ち引き返し、一つを朝倉の執務机に置いてから、初めて自分の席に座ってみる。室内には他に、窓に面する位置にソファやテーブルといった応接セットが並んでいた。壁際の資料棚には雑多にファイルが並んでいる。電子化されていない書類も多そうだった。

「今は、旅団の総合訓練の内容を検討してる。羽染は、その机の上にある資料をまとめて。出力は紙に。資料はタブレットに入っているから」

 薄型のタブレットを一瞥してから、羽染は続いてプリンター等の備品を確認した。朝倉に対して頷きながら、まずは資料に目を通そうと考える。

 こうして羽染の新しい職務が始まった。
 朝倉の仕事は、軍の総括的な訓練と、実際の戦闘に関する資料の取りまとめが多い。実際に朝倉が赴かない場合であっても、再編成される師団の人員構成の検討等も行っている。羽染は細部まで資料を読み込み、頭の中に叩き込んでいった。

「羽染」

 朝倉に声をかけられて羽染が我に返ったのは、十三時が間近に迫った頃合いだった。

「昼食には好きに出て構わないよ?」
「あ……お気遣い頂き、有難うございます」
「今日は一緒に食べに行こうか」
「……お供させて下さい」
「そんなに気を遣わないでくれていい。君は僕を『足でまとい』とまで言ったじゃないか」
「そ、その際は、大変失礼を――」
「いいや、実際その通りだったと今では思うよ」

 冗談めかして笑ってから、朝倉が立ち上がった。羽染もPCをスリープ状態に変える。二人で執務室を出る時、羽染は渡された合鍵で扉を閉ざした。

「いつもはどの食堂で食べてるんだい?」

 緋色の絨毯の上を進みながら、朝倉が問いかける。無料食堂だろうかと、朝倉は考えていた。羽染は僅かに俯き、それから顔を上げて、静かに答える。

「有料食堂です」
「一階? 二階?」
「一階です」
「そう。僕は二階で食べる事が多い。二階の方が美味しいと僕は思う」

 朝倉の声を聞いて、羽染は反応に困った。二階の有料食堂は、九州方面軍閥の専用と、暗黙の了解で決まっているからだ。例外は、軍内部で影響力を持つ者ばかりとなる。時には関東方面軍閥や東北方面軍閥からも、出世する軍人もいるのだ。だがごく少数であるし、それらの者は軍閥という括りから抜け出している場合が多い。

「二階に行こう」
「僕にはその権利が――」
「権利? 食堂は軍人の為にあるのだからね、軍属にある以上、文句を言う方がどうかしている。それに権利というのならば、僕の副官である以上、羽染には僕と同等と言っても構わない権利が既にある」

 気にした様子がない朝倉を見て、戸惑いながらも羽染は付き従った。正直、朝倉の人柄を信頼していないわけではなかったが、新たなる嫌がらせについて考えないわけではなかった。いくら戦場で頼りになろうとも、ここは第二天空鎮守府であり、自分達は敵対している軍閥の人間なのだと、強く羽染は感じていた。だから、信じきれないでいたのだ。

 一階の無料・有料の食堂よりも仰々しい扉を開け、二階の食堂に入る。奥に券売機があるのは変わらないが、所々に洗練された意匠の芸術品が飾られていた。

「少し時間が遅くなったから、良い席が空いているね」

 朝倉は窓際の四人がけの席へと歩いていく。羽染がおずおずと追いかけると、椅子を引いて朝倉が座った。それを見た羽染は途中で行き先をティサーバーに変えて、冷たい緑茶を二つ用意してから、席へと向かう。

「有難う。気が利くね。ああ、何を食べようかな。羽染はどうする? ここのオススメは揚げ物だよ。その日の美味しい揚げ物の盛り合わせは、Bランチ」
「では、それを」
「僕は和食が好きだから、煮魚定食にしようかな、今日は」
「注文してきます」
「僕も行くよ。初めてだと勝手が分からない事もあるだろう?」

 その言葉を力強く思いながら、羽染は席を立つ。一階の二つの食堂と同様に、物珍しそうな視線がチラホラと飛んでくる。

「やっぱり、これまで副官を持たなかった僕が副官を伴うというのは、目立つみたいだな」
「――僕が、会津の出だからでは……」
「違うと思うよ。軍閥に関しては、気にするなというのも無理だろうけど、仕事に支障が出ないよう、僕も配慮する」

 トレーを手に並んでいる時、さらりと朝倉に言われて、羽染は目を瞠った。その後、すぐに出てきた食事の皿をトレーにのせて、二人は確保しておいた席へと戻った。

「美味しい……」

 手を合わせてカニクリームコロッケを一口食べた羽染は、思わず呟いていた。

「だろう? 僕もここの揚げ物は、本当に気に入ってるんだ。専ら和食だから信憑性に欠けるかもしれないけど。勿論、他のメニューも美味しいよ」

 ここの所、空腹が満たせればそれで良いと考えて簡素な食生活を送っていた羽染は、なんだか心が温かくなった気がした。こういう日常こそを、誰かが味わって食事が出来る日々を、守りたいからこそ――戦地で頑張る事が出来る。根底には、そんな想いが、羽染にはあった。

「所で羽染。次の土曜日は、何か予定がある?」
「ええ。ですが、何か仕事があるのでしたら――」
「ううん。そういう訳では無いんだ。そっか、予定があるのかぁ」

 かれいの煮付けを上品な箸使いで口に運びながら、朝倉が微苦笑した。しかしその眼差しは優しい。

 この日から――二人は昼食を共にする機会が増えていく。