【七】昌平坂学問所



 ――羽染が朝倉の副官になった翌日の夜。木曜日の事だった。

 桜は満開に近い。この頃、有馬は羽染の事を既に強く意識するようになっていた。逆に羽染は、まだそれほど有馬の事を知らなかった。二人共に互いの存在を知ってはいたが、羽染の側は部署の異動があった直後であったから、国内の第二天空鎮守府内部の人間関係を意識している余裕は無かったとも言える。

 そんな中で、ある夜、二人は遭遇する事になる。

 さて――江戸という名が廃れて猶、帝都東京には、江戸時代より連綿と続く昌平坂学問所があった。元々は官学である。今の世では、義務教育としての小学校があり、中学もまた、一般校と士官学校付属に分かれるとはいえ、民衆が通う事は義務付けられていた。

 しかし大抵の藩では、藩校が復活していて、武士の家系の士族を中心として土曜日に、道徳や朱子学、武芸などを教える藩学校が存在している。

 会津であれば、日新館である。ただ幕末に倣い、帝都へと上京した者は、地元で勉学を終えても、昌平坂学問所へと遊学し、自己研鑽する事が多かった。ちなみに高校に当たる高等士官学校まで出れば、遊学というよりかは、己の藩から学びに来ている、帝都在住の政治家や武家の子息、各藩からの留学生などを相手に、講師役をする場合の方が、圧倒的に多い。

 ――寧ろ、第二天空鎮守府に所属する仕官となれば、ほぼ義務的に、持ち回りで講師役を引き受ける事になっていた。勿論、先達に教えを請う時間も新人には多いわけだが、その日は、新しい春からの時期の講義について話し合うため、四人の人間が召集されたのである。各藩持ち回りの、新人から一歩だけ抜き出た者達の、当番のようなものだった。その中に、羽染と有馬がいた。他には、二名。一名は、久坂歩だ。彼の場合は語学力で選出されたと言える。

「胃が痛い……」

 その夜――佐賀藩出身の、楠木為助は、深々と溜息をついた。

 階級は、高等士官学校を中退して得た、少尉である。

 勉強自体は好きな楠木だったが、今日顔を合わせるメンバーを考えると、キリキリと胃が痛んだ。なにせ、(先輩軍人に内密で教えてもらった限りだと)全国統一試験一位の羽染と、二位の有馬、それから金髪碧眼と言うことで何かと目立っている久坂と四人で、講師役としての話し合いをする事になっていたからである。その上羽染と有馬は、剣道新人戦でも二位と一位だった上、階級も大尉だ。戦績も、楠木から見ると華々しかった。

 ――私なんて、良くて平均点しか取れなかったのに、なんて言う場違い感だろう……。

「何々、具合悪いの?」
「!」

 その時急に肩を叩かれ、楠木は飛び上がりそうになった。
 反射的に振り返ると、そこには久坂が立っていた。

「あ、いきなり失礼いたしました! 楠木少尉殿! 私は久坂歩陸曹であります」

 ビシッと敬礼し、久坂が表情を改めた。

「いやあの……大丈夫です」

 敬礼を返しながら、楠木が言う。

「じゃあ、中に入りますか?」

 フレンドリーな久坂を見て、少しだけ楠木は安堵しながら玄関で靴を脱ぐ。トイレがそのすぐ横にあった。

 ――久坂は外見以外は、普通に明るくて話しやすい相手らしい。

 楠木はそう考えつつも、それでもあまり帝都であっても、異国情緒溢れる風貌の人が歩いているわけでもないから、久坂の外見を見ただけで、少なからず緊張してしまう。

「俺、トイレ行ってたから、羽染は先に行ってるんですよね。ここまでは、一回帰寮してから一緒に来たんだけど」

 大尉である羽染を何でもないように呼び捨てにしている久坂に対し、楠木はまた胃が痛んだ気がした。楠木は、相手に呼び捨てにされる分には構わないが、徹底的に階級が上の者には礼を尽くすべきという考えの持ち主だった。佐賀藩がそう言う風潮と言うよりは、楠木自身の性格の問題である。

 その上、羽染大尉が先に来ていると聞いて、一時間も早くやってきたのにどういう事だろうかと焦った。通常、階級が下の者から先に来て、茶などの準備をしておく事が礼儀だと楠木は考えていた。

 久坂は、一切それに気を配った様子も無しに、奥の一室へと進むと、ガラガラと障子を開けた。

「羽染、楠木中尉が来たぞ」

 その言葉に、何かを読んでいたらしい羽染が顔を上げた。
 タブレットの画面を見ていたから、何を読んでいたのかまでは、楠木には分からない。
 二人が姿を現すと、すぐに羽染が立ち上がった。
 反射的に、楠木が敬礼する。

「お初にお目にかかります、楠木少尉であります」
「羽染大尉です」

 敬礼を返した羽染を見て、楠木が安堵した。
 ――やはりこれが普通だ。

「珈琲で良いですか? ミルクと砂糖は?」
「え、いや、大尉殿、私が――」
「いえ、来られたばかりなのですし、僕が」

 羽染はそう言うと、側にあったコーヒーサーバーへと手を伸ばした。

「ほらほら楠木中尉殿、羽染に任せて座って下さい!」

 その時、久坂に肩を両手で押され、強制的に楠木は座らされた。

 ――なんだろうこれは、東北方面軍閥に引き込む策略か?

 羽染も久坂も東北方面軍閥の人間だというのは、有名な話だ。
 内心、戦々恐々としながら、楠木が震える手をカップに伸ばして、羽染から受け取る。
 無性に喉が渇いていた。

「いただきます」

 羽染が差し出した砂糖とクリームは片手で遠慮し、楠木がカップを傾けた。
 有馬が入ってきたのは、丁度その時だった。

「邪魔するぞ」
「ぶ」

 飲みかけていた珈琲を楠木が吹いた。

「うわ、ちょ、大丈夫?」

 久坂が慌てたように、卓上にあったティッシュを渡す。
 畳に飛び散った珈琲を、久坂が拭いていく。

「あ、有馬大尉、大変失礼致しました。私は――」
「知ってる、楠木中尉だろう? かたっくるしいのは無し無し。俺は有馬、階級は大尉だ。けどな、先生役をやるって言うのに上も下もない。気を遣ってくれなくて良いからな」

 有馬はそう言うと、羽染が差し出したコーヒーカップをごく自然な仕草で受け取った。羽染は当然だというように給仕をしている。

「は、はい……有難いお言葉、恐縮です」
「固い、固すぎるよ楠木少尉!」

 久坂が苦笑した。しかし楠木は緊張で、とても安らげる気分にはない。

「何だ、全員揃っていたのか」

 そこに声がかかった。
 振り向いた一同が、頭を垂れる。
 立っていたのは、次の春に退官予定の元帥である、小柳丹後だった。白い髭を生やした好々爺は、微笑すると手を軽く振る。

「無礼講、無礼講。よくいらっしゃった。若き志士が勉学熱心だと、この爺も嬉しくなる」

 小柳元帥はそう言うと、静かに座った。

「それにしても、今宵は奇遇な巡り合わせじゃ。お主らは、幕末の昌平坂学問所の記録を知っておるか?」

 その言葉に、珈琲を小柳元帥の前に置きながら、羽染が首を傾げた。
 有馬は、率直に疑問を口にする。

「記録って何ですか?」
「うむ。藩校終了後に、江戸へ遊学した人数の記録があってのう。佐賀藩が一位、二位が薩摩藩と仙台藩、そして三位が会津藩じゃ。藩校の開設時期と、藩の規模的には、会津が東西の双璧の東を担ったことも記録されておる――丁度主らの出身藩と同じだな」

 そんな記録があったのかと、一同は驚いた。

「所でわしから一つ提案がある。今宵は、皆で親睦を深めたい。勿論今後の打ち合わせもするがな――さて、『ニモン』とは、どういう意味だと思う?」

 小柳元帥からの問いかけに、有馬が手を挙げた。

「縫い物」
「私もそう思います」

 楠木が有馬の声に追従する。

「え、煮物じゃないんですか?」

 久坂が首を傾げると、羽染も頷いた。

「私も煮物だと思いました」

 それを耳にすると、好々爺が喉で笑う。

「勿論どちらも正解じゃ。さて、薩摩の方言は、第二次世界大戦時には暗号に使われるほどであった事を知っているかな――……」

 このようにして、その日の話は進んでいった。
 小柳元帥の話が終わる頃には、すっかり皆がリラックスしていた。
 親睦が、少しだけ深まっていた。

 ――皆揃って、学問所を出る。帰り道を、四人は共に歩いていく。

「腹減ったな、ラーメンでも食べに行くか?」

 有馬のその声に、他の三人は視線を向けた。

「豚骨だな」

 後頭部で手を組みながら述べた有馬を見据え、羽染は喜多方ラーメンの事を思い出していた。対等な好敵手といった意識よりも、何か仲間意識のようなものが芽生えていた。これも小柳元帥の話が、皆の感覚を変えたからなのかもしれない。

「僕は醤油が良い」

 羽染が言う。すると久坂が、思案するように宙を見据える。

「俺は塩。楠木中尉は?」
「え……味噌?」
「よし、中間を取って、つけ麺を食べに行こう」

 有馬の提案に、そう言う事となった。どこが中間なのかと、漠然と三人は考えながら笑っていた。そんな、一日だった。穏やかな夜である。これ以後、このメンバーで、先生役をする夜が、時折日常に加わった。

 ――学問に関しては、学閥の垣根は少ないらしい。
 羽染には、それが無性に嬉しい事に思えた夜でもあった。