【八】花見と返杯




 街路の端には、ツクシが顔を覗かせ、陽光は優しく、気温も暖かい。
 緑のヨモギもまた道端に生えている。黄色いタンポポの花と白い綿毛が、優しい風に揺られている。春、真っ盛りだ。

 土曜日――昌平坂学問所での最初の講師役の打ち合わせを終えた二日後の昼、朝倉の副官となって最初の週末、羽染は朝早くから、清掃活動に従事していた。各藩が持ち回りで、清掃が行われるのだ。その後、寮の各部屋には業者の手が入る為、羽染は部屋に戻る事が出来なくなり、久しぶりに袴を身につけた。本日は休日だ。朝倉もまた、土日に休暇を取っている。第二天空鎮守府の勤務は、無論寮にいる間は待機となり勤務体制を取っているという扱いなのだが、実質仕事は休みという形になる。

 寮の庭の掃き掃除を終え、羽染が外出したのは、午前十一時頃の事だった。久方ぶりに身に纏った私服の和装は、やはり軍服とは違い、体が軽く感じる。ただ靴だけが革靴だ。

 ……朝倉の副官となった今でも、羽染は、いまだ朝倉の暗殺を依頼されたままである。
 ――そして、それは保科の命令ではない。

 一人、街路を歩きながら、羽染は地を見ていた。別段、春の草花の気配を感じていたわけではない。思考は春ではなく、別の事柄……暗殺についてに向いている。

 朝倉は尊敬すべき上司だと、そう羽染は思っていた。
 共に戦地を経験して、朝倉が軍部で高名な理由は充分に分かっている。
 また、朝倉の副官になってから再会した山縣も、羽染に良くしてくれた。山縣は朝倉の元に昼食時に訪れる為、三人で二度程食事をしたのだ。しかし暗殺の依頼を実行するという事は、彼らを裏切るという事にほかならない。

 朝倉を手にかけるイメージが、羽染の脳裏には、こびりついていた。

 そんな時に不思議と思い浮かんでくるのは、何故なのか有馬の顔である。先日学問所で顔を合わせて話した時も、過去、陰湿なイジメから助けの手を伸ばしてくれた時も、有馬は真っ直ぐだと感じたものである。それが、羽染には眩しかった。

 何よりも、人生で初めて好敵手と言えるのだろう有馬に出会った羽染は、同階級となった今、心から対峙したいとも思っていた。竹刀をまた、交えてみたい。このような衝動を抱くのは、初めての事だった。他者にあまり興味が無かった羽染の中で、同い歳の有馬の存在が、少しずつ大きくなっている事に、羽染自身も気づいていた。

 昌平坂学問所において、仲間のような意識が芽生えたからこそ、有馬という存在を認識し――実力をぶつけ合いたいと思ったのかもしれない。学閥意識で最初から敗北していると考えていた己を、羽染は不甲斐なく思っていた。学問のように垣根のない場所で会話をした今、対等だと考え、堂々と語り合えたら幸せだろう。

「草団子いかがですか?」

 和装で羽染が歩いていると、そんな明るい声がかかった。軍人だと気づいた様子の無い茶屋の売り子の娘が、満面の笑みで羽染を見ていた。

 羽染は別段甘い物が好きなわけでは無かったが、足を止める。嫌いでもない。茶屋のベンチに視線を向けて、少し休んでいこうか考える。

「――羽染?」

 そこへ声がかかった。
 驚いて振り返ると、そこには朝倉が立っていた。

「朝倉大佐殿……」
「ここで何をしているんだい?」
「午後から暇でしたので、散歩を。その……寮を清掃で追い出されました」

 素直に羽染が答えると、朝倉が苦笑した。

「今日は予定があるって言っていたのに――午前中に用事があったのかい?」
「はい、会津藩持ち回りの清掃が」
「午後から暇なら、そう言ってくれれば良かったのに」
「はぁ……?」
「まぁ良いや。今は暇なんだね?」
「はい」
「じゃあ少し頼み事をしても良いかな。護衛をお願いしたいんだけど」
「承知致しました」

 歩き出した朝倉の後を、慌てて羽染が追う。
 それからすぐに横に追いつき、羽染は首を傾げた。

「その……どちらへ?」
「すぐそこだよ。この路沿いの、中央公園まで」

 その言葉に、そんな近距離まで何故護衛が必要なのだろうかと、羽染は首を傾げた。中央公園は、軍事都市であるこの一帯において珍しい市民公園だ。遊具もあるが、どちらかというと木々が見ものであり、花々の観覧会等も行われる場所である。しかしまだ越してきて一年目である、今年二十歳になる羽染は、その事を知らない。

 次第に桜並木が見えてきて、辺りに薄紅色の花びらが舞い始める。
 二人は木々に囲まれた入口から、公園内へと入っていく。とても護衛が必要な空気では無かった為、羽染は不思議な心地になった。公園には花見客が多い。

「遅いぞ、朝倉」

 公園の中央付近まで近づいた時――山縣の声が響いた。羽染は驚いて目を瞠り、その後朝倉へと視線を向ける。すると朝倉は苦笑していた。

 そのまま羽染が周囲を見渡すと、辺りには旧薩長土肥藩を中心とした、九州方面軍閥の軍人達が座っていた。

 ――なるほど、花見の会場までの護衛だったのか。
 そう羽染は納得した。平和な場に見えるが、軍人の集まりであるから気を配ったのかもしれないと、羽染は思案する。

「遅いと思ったら、大物を釣り上げてきやがったな」

 山縣のその声に、靴を脱ぎながら朝倉が肩を竦めた。

「一度は断られたんだ。それを来る途中に見つけてね。お天道様はよく見ていらっしゃる」

 朝倉は穏やかに笑っている。その時、立ち上がった有馬が声を上げた。

「何で羽染が立ってるんだよ」

 自分がいては折角の楽しい雰囲気を壊してしまうだろうと考えて、羽染は、一歩後ろに下がった。ここは、自分がいて良い場所ではない。二階の食堂とはわけが違う。親しい人々の集まりであり、その面々は、己が敵対している軍閥の人間達なのだから。

 ――護衛は終わったのだから、早々に帰るべきだ。

「さっさと座れ」

 だが、帰ろうとした時、羽染はその手を、有馬に引かれた。
 強制的に座らせされる。驚きながら少しよろけて膝をついた羽染に対し、有馬が楽しそうに唇で弧を描いた。それを見ながら靴を脱ぎ、敷物の上に羽染は座り直す。その間も有馬は羽染の服を掴んでいた。まるで逃がさないというかのように。

「日本酒か? 焼酎か?」

 すると逆側から山縣の腕が伸び、羽染は肩を抱かれた。今度は強く山縣に、引き寄せられる。羽染はいよいよ狼狽えた。

「か、帰ります。お邪魔するわけには――」

 羽染がそう述べると、既に出来上がっているらしい有馬がニヤリと笑った。そして羽染の頬を指でつつく。

「お前、どうせ飲めないからそんな事を言ってんだろ。おら、飲めよ」

 グイっとコップから芋焼酎を煽った有馬が、そのコップに酒を注ぎ、羽染に差し出した。

「返杯だ」
「……」

 羽染が眉を顰める。返杯という言葉を聞くのは初めてだった。

「相手が飲み干したら、自分も飲まないとね」

 トクトクと別のコップに有馬が焼酎を注ぐ前で、朝倉が笑った。
 その隣では、山縣は土佐の辛口の日本酒を飲んでいる。

「飲めないのか?」

 有馬が言うと――羽染が唇の片端を持ち上げた。有馬に煽られた時、羽染の中で何かが吹っ切れた。楽しい場の雰囲気は、ここから退席した方が壊してしまうかもしれないという思いもあったが……有馬に負けたくないという小さな闘争心が芽生えていた。

 羽染はグイと、一気に芋焼酎を煽る。会津ではあまり焼酎を飲まず日本酒ばかりだった為、甘い芋の味が新鮮に思えた。

「返杯、か」

 羽染はそう言うと、近くの瓶を手に取り酒を注ぐ。そして酒が満ちたコップを、有馬に対して突きつけた。別のコップの中身を飲み干したばかりだった有馬は、そんな羽染に対し少し驚いた顔をした後、口角を持ち上げて、羽染からコップを受け取る。

「そうこないとな」

 こうして桜が舞い散る中、羽染と有馬の飲み比べが始まった。

 そんな二人を眺めながら山縣が腕を組む。

「――この二人が大日本帝国で俺達の跡を継いでくれれば良いのにな」
「僕はそれを期待してるんや」

 朝倉がそう言いながら徳利を持ち、山縣の空いた猪口を満たす。山縣は日本酒の水面を見るように、視線を下げた。

「そうなればいいんやけどな。心配なのは、羽染や」
「暗殺、か」

 飲み比べをしている若い二人には聞こえないように、朝倉が呟く。山縣は朝倉の隣にそれとなく移動し、小さく頷いた。幸い、飲み比べに集中している羽染達は、この会話には気づいていない。他の九州方面軍閥の人間達も皆それぞれ楽しそうにしている。中でも同郷――同じ郷里の面々が多い。旧薩長土肥の中でも、身内ばかりの集まりでもある。

「国内で権力争いをしちょる馬鹿共に羽染をやるんは惜しい」

 山縣はそう言うと日本酒を飲み干した。
 朝倉も頷くと、飲み比べをしている二人を見据えた。酒が入っているからというよりも、気心が知れた中で本音を放っている為、朝倉と山縣の口調には、方言が混じっていた。

 囁き合うように、朝倉と山縣は語り合い――それから舞い散る薄紅色の花をどちらともなく見上げた。

「暗い話は、無しにしようや」
「おう」

 朝倉の提案に頷いて、山縣はそれから、有馬と羽染に視線を戻す。

「いい加減限界だろ?」

 有馬が赤い顔でそう言うと、羽染が唇の両端を持ち上げた。

「どちらが?」
「羽染」
「有馬の方だろう、それは」
「俺はまだまだ飲める!」
「じゃあ飲めよ」
「なら――俺が飲んだら、お前脱げよ」
「上等だ。その後僕が飲んだら、お前こそ脱げよ」

 頬を赤くした二人が顔を突きつけ合っている姿に、山縣が声を上げて笑った。

「朝倉、そろそろ止めてやれや」
「自己責任やろ」

 意地悪く朝倉が笑う。
 それは山縣も同様だ。

「お前の副官と、お前に懐いてる後輩やぞ?」

 山縣がクスクスと笑うと、朝倉が空を見上げた。

「だからこそ面白いんやろ」
「こんな平和な時が、いつまでも続けばな」

 山縣は猪口を傾け、朝倉の視線を追いかける。桜の花弁に縁どられた快晴の青が、頭上には広がっていた。雲一つ無い。世界情勢も、国内情勢も、騒乱があれど、確かに彼らの日常には、平穏な時間も流れていた。