【十九】約束は三つ



 翌日――土曜日が訪れた。

 羽染は有馬と共に、少し遠出し、美味しいと評判のカフェに来ていた。
 着物の上に、白いレース付きのエプロンをした店員が可愛い。
 その奥の席の一角で、二人テーブルを挟んで座っている。

「羽染から誘ってもらえるとは思わなかった。付き合ってからの初デートは、俺から申し込むと思ってた」

 注文し終えてすぐに、有馬が言う。
 本気で驚いている様子の表情に、羽染は苦笑した。

「有馬、本気で僕と付き合うと言っているんなら、頼みがあるんだ」
「なんだよ?」
「今日わざわざ遠出したのは、何故だと思う?」
「ここが美味いって評判だからだろ? 自分でそうメッセージに書いていただろ」
「――確かにそれはそうらしいんだけど」

 羽染が、『二・三十分ほどモノレールに乗って出かける場所で、良い店は無いか』と尋ねた所、久坂からごり押しされたカフェである。

「だけどな、一番の理由は人目を避けたかったんだ」
「人目?」
「うん。今後、本気で付き合うって言うんなら、僕達の仲を誰にも言わないで欲しい」

 羽染の静かな声を聞き、有馬が首を傾げた。

「なんで?」
「僕はあまり囃し立てられるのは好きじゃない。それに――僕達が知っていれば、何も問題ないだろう?」

 身分や立場、軍閥が違うからという理由は、羽染は口にしなかった。そういった上辺の事情が気にならないくらい、既に有馬の事を好きだという自覚が羽染にはあった。

「俺と付き合うのが恥ずかしいか?」
「そんなんじゃない。仮にそうなら、断ってる」
「だったら……それこそ俺達の問題なんだから、人目なんて関係ないだろ」

 僅かばかり不機嫌そうに、有馬が言う。

「有馬、お願いだから……そうでなければ、付き合えない。ここで終わりにしよう」
「ちょっと待て。何でそうなるんだよ。今度から、冗談でも別れるなんて言うな。本気の時だけにしろ、そう言う事を言うのは」
「分かった、悪い」
「――それに、俺はまだ、羽染から好きだとは言われた記憶が無い」
「これからいくらでも言ってやる」

 羽染のその言葉に、有馬はガラでもなく照れた。羽染は時に素直にそのまま、思った事を口に出す時があると、有馬は感じている。羽染の声を聞いた途端、有馬の頬は熱くなっていった。純粋に、嬉しい。

 有馬とて、考えないでも無かった事が一つある。

 羽染は本当は自分の事などこれっぽっちも好きではなくて、付き合っていると思っているのは、本気で付き合いたいと思っているのは、己だけなのではないかと。

 だが、どう考えてみても、自分から押さなければ、羽染との仲が進展するとは思えなかったのだ。その上、付き合っていると公表して外堀を埋めなければ、他の誰かに羽染を奪われかねないとすら思っていた。

「付き合っているのかと聞かれたら、嘘はつけない。それじゃ駄目か? 自分から吹聴したりはしない。付き合っていると言う事以上も、基本的に何も話さない。だから羽染も、誰かに聞かれたら俺と付き合ってるって、はっきり言えよ」

 有馬のその言葉に、羽染は右手の指を唇に当て、考え込む。親指で静かに唇をなぞった。
 その黒い瞳が静かに揺れる。

「ああ……そうだな。分かった。付き合っている、それだけは良いとしよう。僕も聞かれたら答える」
「これで約束が三つになったな」

 有馬はそう言って、笑みを浮かべた。
 羽染が頷く。
 丁度、そこへ、二人が頼んだ巨大なパフェが運ばれてきた。久坂オススメの、巨大パフェだ。四人用の特大の代物である。

「一つ、誰かと二人で私的に出かける時は言う。二つ、付き合っているとちゃんと言う。三つ、二人の仲に関してそれ以上は言わない」

 有馬がそう言いながらスプーンを手に取った時、不意に羽染は思い出した。

「そうだ、今度紫陽花宮様と食事に行く事になった。部屋の外に、宮様の護衛はいるだろうが、一応二人だ」

 約束だからと、羽染は淡々と述べつつ、こちらもスプーンを手に取る。

「――は?」

 だが有馬は、突然の言葉に、思考が追いつかず、目を見開いた。
 それには気づかず、羽染がスプーンをパフェに突き立てる。

「ちょっと待て、それは一体どういう――」
「僕にもよく分からないんだ」
「分からないって……いや、ちょっと待て、本気でちょっと待て」
「僕もいきなり宮様に声をかけられて、本当に驚いたんだ」
「声をかけられた、だ? ふざけんな」
「ふざけてなんかいないさ。帰り道に、ばったり遭遇したんだ」
「するわけ無いだろうが!」
「事実なんだから仕方がないだろう。正直、心臓が止まるかと思った」
「今は、俺の鼓動が停止しそうだ!」
「有馬、煩い」

 そう言って、羽染がスプーンを、己の口へと運ぶ。有馬は焦るあまり、実際に大きな声を出していた。だから僅かに声を潜める。

「羽染、悪い事は言わない。何とかして断れ。紫陽花宮様はマイノリティな嗜好のお方で……非常に特殊な趣味をお持ちだという話だ」
「マイノリティ?」

 パクパクとアイスクリーム部分を攻略しながら、羽染が首を傾げる。

「今となっては俺達も人の事は言えないかもしれないが……」
「?」
「宮様は、男にしか興味がない」
「嘘だろう!?」

 今度は羽染が声を上げる番だった。
 さすがに衆道が広まっているとはいえ、完全な同性愛者の数は少ない。羽染と有馬だって、お互いが好きなだけで、たまたま性別が同じだっただけだ。女性が無理だというわけではない。

「お前、羽染……知らなかったのか!? 有名だろ、徳川の家時様と宮家の隆明様は、そっちの方面で……!」
「な……」

 唐突に出た家時の名に、羽染はスプーンを取り落としそうになった。
 まさか……そんな思いが強かった。

 しかし、羽染は納得した気がした。

 保科にカフェへと呼び出された後ではないか。
 家時が姿を現したのも、紫陽花宮と遭遇したのも。
 寧ろ保科と話しをしたからこそ、あの二人は声をかけてきたのではないのか。

 保科が仮に本当に、望まぬ性的関係を結んでいるとすれば――それは、あのどちらか、あるいは両方の事ではないのか?

「悪い有馬、ちょっと電話をしてくる」
「え、おい」
「悪い」

 羽染は慌てて鞄を手に立ち上がった。
 紫陽花宮に会った日、保科に電話をして連絡をいれた事を思い出す。

『そっか。それなら、良かった』

 あの時保科は、確かに、『良かった』と言った。
 それを羽染は、『良い友人』という立場であり『良かった』と少年藩主が口にしたのだと思っていた。

 だが、違う。
 ――紫陽花宮との肉体関係が露見していないことに、安堵したのではないのか?

 羽染はそう考えながら、人気のないトイレの前で、保科に電話をかけた。今回も数コールですぐに電話は繋がった。

『もしもし』
「保科様」
『どうかしたの?』
「紫陽花宮様の事なのですが」
『――食事に誘われたんだってね。好いている相手に隠して、二人で食事をするわけには行かないって言う良親さんの姿勢に感銘を受けたって言って、僕に連絡が来たよ』

 それに羽染が何を伝えるべきか思案していた時、電話の向こうで保科が嘆息する気配がした。その後――藩主らしさを覗かせる口調で、保科が言う。

『羽染、僕の事は心配無い』
「……」
『――僕もこの件で、羽染を心配したりしない』
「保科様……」
『……用件は、それですよね?』

 その言葉に、羽染は確信した。
 間違いなく、少なくとも紫陽花宮と保科は、関係を持っている。

 保科はだからこそ、羽染が言おうとしていた言葉を汲み取ったのだろうと判断した。
『羽染自身や小夜の安否は心配せず、嫌なら紫陽花宮から逃げろ』という声を、羽染が述べる前に、保科には釘を刺された形だ。その上恐らく、羽染が肉体関係にあると気づいた事も、保科は理解している。保科の言葉は短いものだったが、様々な意図が少年の声からは滲んでいたのだ。

 実際、その通りで、電話の向こうで保科は苦笑していた。

『良親さん、本当に有難う。だけど――これは藩主としての命令だ、羽染。この話は、二度としないように』
「……御意」

 そのまま電話は切れた。
 しばらくの間、羽染は無機質な電子音に、耳を傾けていた。

 無力な自分に、打ちひしがれそうになる。

 それから羽染は、有馬の待つ席に戻る事にした。すると、有馬がパフェの三分の二を攻略していた。

「遅い」
「悪かった」
「どこの誰になんて電話してたんだよ?」
「妹に、デート中だと……恋人が出来たと電話しようとして、止めた」
「ぶ」

 有馬がパフェを吹き出しそうになった。

「冗談だ」

 羽染はそんな姿に、肩を揺らして笑みを浮かべる。
 もしかしたら、最低最悪なことなのかも知れないが、無力な己を忘れ現実逃避したかったのかも知れない。羽染は座るとスプーンを手にし、甘いクリームを口に運んだ。

 有馬とのひと時が、どうしようもなく、羽染には幸せに思えたのだった。