【十八】夕暮れの小さな公園


 その日、羽染は一人寮へと向かっていた。金曜日の夕暮れ時、本日は朝倉の代理として、外部で打ち合わせを行った。直帰するよう指示されていたので、それに甘えて素直に帰宅する事を選んだ。

 既に晩秋で、最近は寒暖差が激しい。だが、まだ空は明るい。夕焼けが、空を鮮やかに彩っている。ただ胸騒ぎのする色だなと、羽染は思った。そんな中で、寮への近道である小さな公園を横切るため、羽染は角を曲がる。

 大抵いつも、一人で買い物に出る時等は、羽染はこの公園を通る。そして何時だってこの場所には、人気がない。小さな神社の社が、ぽつんと片隅にあり、遊具はブランコだけだ。そのブランコの前を横切った瞬間、羽染は驚いて視線を向けた。

 白い服を着た青年が、一人そこに座っていたからである。気配が無かった。
 だが視界に入った途端、圧倒的な存在感と既視感を覚えさせられた。
 ――一体、誰だろう?
 どこかで見た覚えのある青年の顔に首を傾げながらも、羽染はそのまま立ち去ろうとする。郷里であれば立ち止まる事もあったかもしれないが、ここは帝都だ。

「羽染大尉」

 しかし声をかけられた。羽染は足を止める。
 ブランコから降りた青年は、羽染よりも頭一つ分背が高い。少し年上に見えたが、それでも二十代だろうと分かる。少し長めの癖のある髪をしていて、眼差しは涼やかだ。

 ――やはり確実に、何処かで見た覚えがある。

 だが、相手が誰なのか分からなくて、羽染は眉を顰めた。
 二度ほど瞬いてみる。
 身なりからして、軍人ではない。

「初めましてだね」

 そこに続いて響いた言葉に、いよいよ羽染は、相手が誰なのか分からなくなった。
 可能性が最も高いのは、元老院議員だが、さすがにこの年代の者は少ないから、名前が思い浮かばないというのも納得がいかない。

「俺は紫陽花宮隆明」

 その言葉に、反射的に羽染は、地に両膝を着き深々と頭を下げていた。
 地面すれすれに額を持っていったため、髪まで砂に付きそうになる。

 ――冗談で語るにしては、畏れ多すぎる宮家の名前。その上、思い返せば、確かにニュース等で時折見る第二皇位継承者だとはっきりと判断出来た。

「楽にして。こちらから急に声をかけたのだから」

 羽染は恐る恐る顔を上げた。
 相手は雲の上の存在だ。何故自分の名前を知っているのか。全くもって理解が出来ない。現状把握が追いつかない。保科ですら、そうだろうと羽染は思っていた。一元老院議員程度の立場では、気軽に話す事など出来ない相手だ。保科ですらそうであるはずだったから、一介の軍人である己など尚更であると、羽染は思案していた。

 だから、直後に驚く事になった。

「保科君から、よく君の話を聞いていてね。一度直接、言葉を交わしてみたいと思っていたんだ。迷惑だったかな?」
「いえ、とんでもございません、有難き事で感激いたしております。また……当藩の藩主が、畏れ多くも――」
「ううん、保科君に声をかけたのは俺の方だから、何も気にすることはない」
「……」

 朗らかな笑顔の紫陽花宮を見て、羽染は言葉を探すあまり、沈黙した。

「鷹司家の由香梨は、俺の従妹なんだ。迷惑をかけて居るんじゃないかと心配で、保科君に声をかけたんだよ。それがきっかけでね、たまに話し相手になってもらっているんだ。俺は立場上、中々私的な場で話が出来る相手がいないのでね」
「我が藩主にとって、至極光栄な誉れだと存じます」
「だけど残念だ、君は俺の顔を知らなかったみたいだね」
「大変失礼致しました」

 自分の失態に処罰を覚悟しながら、羽染が眉根を下げる。

「おや、認めてしまうのかい?」
「っ」
「そう言う時は、手の届かない雲の上の存在が、人気のない公園に一人でいるなんて思わなかったと、遠隔的な表現を用いて言うと良いんだよ」
「……は、はい」
「それに、俺にとって一番残念なのは、保科君の口から、君が俺の名前を聞いていないという事だし。保科君にとって俺は、名前を出す価値も無かったのかな」
「……」

 保科の立場を危うくしてしまったのではないかと思い、羽染は今までよりも更に動揺した。焦りが、羽染の体に汗を喚起する。

「俺はね、保科君の事を本当に大切に思っているんだ。保科君は、俺の事をどう思っているんだろう」
「……宮様にその様に仰って頂いていると知れば、歓喜すると存じます」
「表面上は、そうだろうね」
「……?」

 紫陽花宮の言いたい事が分からず、羽染は僅かに首を傾げた。

「内心は、どうだろう?」
「? 嬉しいと思います」

 当然ではないかというような羽染の眼差しを見て、紫陽花宮は、それまでよりも表情を軟らかくした。

「君から見た保科君は、裏表が無いのかな?」
「ええ」

 反射的に頷いてから、羽染は思案した。

 確かに――……裏表がないと言い切れるわけではないが、見ていればそれが作ったものか否か、大体分かる。それこそ違う人間である以上完全に思考や感情を理解する事など何もないかも知れないが。少なくとも、元々の保科が大変優しい事も、羽染は知っていた。それ故に苦労性でもあると判断している。

「俺と君は、良い友人になれそうだね。羽染大尉」
「勿体無いお言葉です」
「所で、妹の小夜さんの話を、保科君から聞いたよ。良かったら、俺にも何かさせてもらえないかな? 会津よりも、設備の整った病院が帝都には多い。小夜さんも、君が近くにいた方が安心なのではないかな」

 羽染は息を呑んだ。表情こそ変えなかったが、保科の姿と妹の姿が脳裏を過ぎる。

 もしもこの提案を飲めば――今後は、紫陽花宮の息がかかった場所に、妹が居るという事になる。それは、可能性の一つとしては、会津藩と宮家の繋がりを公表するに等しく、保科にとって追い風にもなるかもしれない。

 その上、会津藩の重鎮達とて、宮家の申し出ならば断れないはずだ。
 そうなれば、最早妹が殺される可能性は無い。宮家の庇護のある者の、生命維持装置のスイッチを切る事など、誰にも出来ないはずだ。

 それを理由に迫られている朝倉の暗殺――それもする必要はなくなる。
 このまま朝倉の一人の部下として、軍人として生きていく事が出来る未来が、すぐそこにあるように思えた。だが。

「――恐れながら、そのご厚意だけで私も妹も満足です。妹は、慣れ親しんだ会津の地で療養したいと申しております。不甲斐ない事ですが、その願いだけでも、僕は叶えてやりたいのです」

 きっぱりと羽染はそう返した。
 もし申し出を飲み、保科が紫陽花宮に、必要以上に接近される事――紫陽花宮に気を回さなければならなくなるかもしれない事態を考えれば、やはりそれは回避しなければならない。

 もしも保科が本当に転院を勧めるとすれば、先日カフェで会った時点から今までの間に、あるいは少なくとも今後近日中に、直接打診があるはずだ。紫陽花宮のサプライズの可能性もゼロではないが、そもそも自分のような一般人が、そのご厚意にあずかる事は畏れ多い事でしかない。

「そうか、とても残念だよ」
「大変感謝致しております。厚く御礼申し上げます」
「本当に他意は無くて、厚意だったんだけどな。新しい友人への……会津の人は、みんな君や保科君のように疑い深いのかな?」
「滅相もございません。決して疑うなどと、そんな――」
「そう、ごめん。深読みしてしまったよ」

 羽染の言葉を遮るようにそう告げてから、紫陽花宮は、羽染の隣まで歩み寄った。そして耳元に口を寄せる。

「今度、食事にでも行かないかい? 二人きりで。誰にも内緒でね」
「は……い、その、」

 頷こうとしたところで、羽染は言葉を止めた。

「大変光栄なのですが、それは出来ません」
「どうして? 保科君には内緒に出来ない?」
「いえ」

 間をおかずに羽染が首を振ったので、紫陽花宮は不思議に思った。
 彼は目を丸くしながら、問う。

「もしかして俺の護衛を数えているとか? 確かに護衛無しでは、俺は動けないけど――頑張ればどうにか。それに部屋の外で待たせるし」
「護衛は是非いつでもお側におくべきです」
「……じゃあどうして? 俺と二人で食事をするのは嫌なのかな」
「誰かと二人で食事に行く時は、事前に知らせるようにと約束した――……好いている相手がいるからです」

 羽染は少しだけ言いにくそうにしながらも、率直に口にした。
 そんな羽染に驚いて、紫陽花宮は息を呑む。

「へぇ、そう。ふぅん、そっか。良いね、そう言うの。羽染大尉は、約束を守る人なんだ」
「……はい。恐縮です」
「誓って俺が君に手を出したり、君をアヤシイお店に誘ったり、女の子を侍らせて誘惑するような事はしない。それに勿論俺と出かける事は、伝えて構わないよ。その条件ならば、食事に出かけてくれるかい?」
「光栄です。ご配慮に感謝いたします」

 まかさ、『俺が手を出したり』などという冗談を、宮家の人間が口にするとは思わず、羽染は顔が引きつりそうになった。殿上人でも、冗談を言うのだなと考えて、当たり前ではないか同じ人間なのだからと自嘲する。

 この時の羽染は、紫陽花宮が同性愛者であるとは、全く考えてはいなかった。

「なんだか羽染大尉は、想像していたのとちょっと違うな。男前だね。それじゃあ、その内、改めて誘わせてもらうよ。また今度」

 紫陽花宮は、それだけ言うと、公園から歩き去った。
 見送りながら、羽染は、一連の出来事が白昼夢だったような心地になる。

 結局よく分からないまま、羽染は立ち上がった。
 ――紫陽花宮は、一体何をしに来たのだろう?
 妹の転院の話の為だけに、この場に姿を現したのだとは、考えにくかった。

 帰寮してすぐに、羽染は保科に連絡を取る事にした。メッセージアプリではなく、電話をかけた。すると数コールで繋がった。

『珍しいね、良親さんから電話なんて』

 保科の柔らかな声を聞いて初めて、羽染は肩の力が抜けた気がした。

「紫陽花宮様が、お越しになりました」
『っ』

 羽染が告げると、保科が息を呑んだ気配がした。やはり驚くだろうと感じながら、羽染は続けた。

「ご存じなのですね? 面識が、おありなのですね?」
『何か……言っていた?』
「保科様と親しくしていると。また、小夜をご厚意で、都内の病院に転院させて下さるとの事でしたが、そちらはお断りいたしました」
『親しく……って、良親さん、具体的には?』
「由香梨様と親戚関係にあるため、保科様とも知己になり、良い友人だとお喜びでした」
『そっか。それなら、良かった――ああ、ごめん。少し約束があるから、切るよ』
「はい。では、また」

 そんなやりとりをしてから、羽染は寮の寝台に体を投げ出し、毛布を握り締めた。
 気疲れした一日となったなと振り返る。その内に無性に眠くなったので、羽染は双眸を伏せた。その後室内には、久坂が戻るまでの間、健やかな羽染の寝息だけが響いていた。