【十七】恋の自覚



 ――昨日は久しぶりに、麦酒を飲んだ。

 たまに飲むと美味しいなと回想しながら、羽染は朝倉のデスクの隣に立っていた。
 執務室のレースのカーテンからは、心地の良い日差しが差し込んでくる。
 書類整理をしている朝倉を見て、残るは朝倉自身の手による捺印のみだなと確認する。

 手伝える事は何も無い。
 他に作業も無い。
 お茶は先ほど既に出した。

 そんな事を羽染が考えていた時、ノックもなく、乱暴に朝倉の執務室の扉が開いた。

「?」

 驚いて羽染が、前へと出る。

「羽染!」

 駆け込んできたのは、有馬だった。

「何かあったのか?」

 同じ九州方面軍閥という事もあるし、有馬が火急の報せを朝倉に持ってきたのだろうかと思い、羽染は朝倉に対し振り返る。だが朝倉もまた、純粋に驚いたような顔を上げているだけだった。

「羽染! 昨日の午後、どこで何をしてた!?」
「――は?」

 羽染は呆気にとられて、声を上げる。
 すると有馬に肩をガシッと掴まれ、体を揺さぶられた。

 わざわざ朝倉の執務室にまでやってくるほどの、用件であるはずだ――そう考えて、羽染は昨日の事を思い出す。保科と会っていた事は、薩摩の人間である有馬には話せない。無論、朝倉にもだ。なにせ、可能性としては、現在薩長ともかなり関係の深い、鷹司由香梨が絡んでいるかもしれないのだ。もし鷹司家からの命令で有馬が動いているのだとすれば、尚更何も話せない。

「有馬には関係が無い」

 ――言えるわけがない。言えるわけがないではないか。
 羽染が顔を背けて嘆息する。

「久坂と半休を取って、お好み焼き屋デートしてたって本当か!?」
「は?」
「噂になってるって、朝、聞いたんだ」

 しかし続いた有馬の声に、ポカンとして羽染が目を丸くした。

 ――久坂とお好み焼きは、確かに食べに行った。

 だが羽染にとってそれは、別段デートではない。
 そもそもその場で出た話題はと言えば、有馬との関係についての話である。

「違うんだな? 俺はお前の事を信用してるし、友達と二人で飲み明かそうが文句は言わない。俺だって、二人っきりで飲む事はある。でもな、浮気したら許さないからな」

 信用、と言う言葉に、羽染は焦燥感を抱いた。
 ――第一、浮気……浮気?

「有馬……所で、用件は何だ? 朝倉大佐殿はお忙しいんだ」
「あー、残りの作業は僕が一人で出来るから、羽染はソファに座って、暫く話していて良いよ」

 朝倉が視線で応接セットを示す。羽染は困ったように眉を下げた。

「ですが――」
「有馬、ちゃんと仕事は片付けてきたんだろうね?」
「はい! あ、すんません、いきなり!」
「良いよ別に。僕も、羽染がデートしてたのか気になるしね」

 朝倉はそう言って微笑むと、書類に視線を戻した。
 頭痛を覚えながら、羽染は、肩に置かれた有馬の手から逃れる。

「朝倉大佐殿のご厚意だ。そこの応接席へ。すぐに茶を淹れる」

 羽染はそう言って有馬を席へと促すと、壁際にあるコーヒーサーバーへと歩み寄った。
 カップを二つ用意し、珈琲を淹れる。
 それから座っている有馬の前に、一つ置いた。その正面に、羽染も座る。

「兎に角これからは、誰かと二人で遊びに行く時は、基本的に俺に言ってからにしてくれ」
「どうして?」
「当然だろ、恋人の安否は常に知っておきたい。俺も必ずお前に言うから」
「別に言わなくて良い」
「それは、俺が浮気しないって、羽染も俺の事を信用してくれてるって事か!」
「は?」
「嬉しいな」

 有馬の頬が不意に緩んだ。それを見て、思わず羽染は片手を頬にあて、その肘をもう一方の腕で掴む。

「いや、あの――」
「それでも、次からは絶対に連絡しろ。これは約束だ」
「……どこに連絡しろと言うんだ」
「どこって、それは俺の携帯電話。え、俺の連絡先知らなかったり……? あ」
「有馬だって、こちらの連絡先を知らないだろ」

 羽染が半眼になると、有馬がきょとんとした顔をした。

「いや俺は知ってる。山縣さんに聞いた」
「なんだって? どうして山縣大佐殿が、僕の連絡先をご存じなんだ?」
「え?」
「……」
「ごめん羽染、山縣があんまりにもしつこいから、僕が教えちゃったんだ」

 書類仕事をしながら、朝倉が声をかける。
 実際には、そんな事実など無かったが、朝倉としては助け舟を出したつもりだった。山縣が二重軍籍にあり諜報部に所属しているという点は内密であるし、その関連で連絡先は入手していたのだろうと、漠然と考えていた。

「いえ……そうですか」

 そう言う事ならと何度か頷いてから、羽染が第二天空鎮守府から支給されている携帯電話を取り出した。

「有馬、ちょっと連絡してみてくれ」
「おぅ」

 頷いて操作を始めた有馬を一瞥してから、羽染は画面を眺める。開いているのは、メッセージアプリだ。軍用のIDしか、朝倉に教えた記憶は無かったので、それを用いている陸軍専用のアプリ画面を見ていた。

「送ったぞ」
「着てない」
「は?」
「ちょっと見せてくれ」

 羽染の言葉に、有馬が素直に己の携帯電話差し出す。
 表示されている送信先のIDを見て、羽染が何度か瞬いた。長い睫毛が揺れた。

「悪い有馬――今届いた。タイムラグがあったらしい」
「あ、そうか」

 羽染はそう告げ、有馬に携帯電話を返してから、立ち上がった。

「朝倉大佐殿、珈琲をもう一杯いかがですか?」
「うん、まだ大丈夫」
「残り、どのくらいで終わりそうですか?」
「あと五分」
「承知しました――有馬。もう用件は済んだだろう? 帰れ」
「いや、この後昼飯だろ。一緒に行こう」
「悪いけど、昼休みは少し用事がある」

 羽染の言葉に、判子を押しながら朝倉が顔を上げた。

「そうだったのかい? それなら、少し早いけど、先に出ても構わないよ」
「ですが――」
「良いんだよ。羽染の仕事はもう終わっているし、有馬と二人で昼食を食べに行かれるよりはマシだから」

 何がマシなのか、羽染はよく分からなかったが静かに頷いた。

「それではお言葉に甘えさせて頂きます」

 羽染はそう告げ、二人を残して朝倉の執務室を後にした。

 そして暫し、ゆっくりと、普段通りの歩幅で歩く。
 しかし人気が無くなってからは、足を速め、気づくと走り出していた。

 向かった先は、東北方面軍閥の私物庫だった。軍閥ごとに設えられている、普段の雑務時に使うものとは異なるロッカーがある。羽染は自分にあてがわれているロッカーの前に立った。そうして静かに扉を開ける。

 それから、無表情を務めて取り繕い、何でもない素振りでロッカーの扉を開けた。
 監視カメラの位置は分かっていたから、わざわざ見えるように取り出した鞄を開け、一冊の本を取り出す。『ルーラック』という娯楽本だ。一昨日発売された、新作のミステリー小説である。それを鞄にしまい直して、鞄を手に取り、ロッカーを閉めた。しっかりと施錠する。監視カメラを見ている人間には、単純に本を取りに来たようにしか見えなかっただろう。同時に、見えない角度から、携帯電話を一台、ポケットに忍ばせてもいた。

 そして何気ない様子で、羽染は私物庫を出た。
 そのまま暫く歩く。
 それから最も人が来ない、四階の男子トイレへと入った。
 個室を選び、便座を下ろして、その上に鞄を置く。

「……」

 取り出した、一台の携帯電話の画面を見て、羽染は眉を顰めた。
 そこには、有馬からのメッセージが届いていた。
 ――何故このIDを知っている?

 それも有馬だけではなく、問題は有馬に教えた山縣、だ。
 当然朝倉も、このIDを知らない。
 何せこのIDには、会津の同窓生や妹といった、上京するまで親しくしていた相手の連絡先しか入っていないからだ。完全に私用の携帯電話であり、そのメッセージ機能は、軍属になってからはあまり利用していなかった。妹は医療機器の関係で、直接的には連絡が出来ない状態だ。

 羽染は現在、四台の携帯電話を使い分けている。
 一台は第二天空鎮守府から支給されている軍用の仕事もの、二台目は会津藩から支給されている品、三台目は先に述べた当初より持っていた自分自身の私物の携帯電話だ。そして最後の四台目が、暗殺を始めとした人には言えない件で連絡を取る際の代物である。

 保科が知っている連絡先は、一台目とニ台目だ。
 比較的頻繁に連絡を取る相手には、会津の人間でも連絡先を変えたと告げて、一台目のメールアドレスと連絡先を伝えてある。小夜にも念の為、そうしてある。

 なのでニ台目の携帯電話は、滅多に着信を知らせない。
 ――一台目のアドレスを知り得るのは、比較的連絡を取らない、会津の人間だけだ。

 例えば、会津藩の名簿には、ニ台目の連絡先を登録したままの状態で放置してある。だがそちらも、別に見られなくなったわけではないし、連絡先である事には代わりはない。けれど……会津藩の情報が漏れている。その推測が一番易かった。

 そうでなくとも、自身が郷里で仲良くしていた相手は、少なくとも羽染の連絡先を入手するために、近づかれた可能性がある。もしくは、こちらに来て一台目を持つ前に、何らかの手段でIDと電話番号を控えられたか、だ。

 だとすれば、有馬があのように仕事中にも関わらずやってきた事も、朝倉の副官になった事も、山縣とばったり出会った事も、全てひっくるめて、薩長土肥の策略の可能性がある。最初から、会津の人間である己が目をつけられていた可能性を考えてしまう。そもそも、旧奥羽越列藩同盟と縁が深く何より諸悪の根源とされる会津の人間であり、東北方面軍閥の人間である自分が、今のような立ち位置にいる事は、おかしい。

 ――そうだ、おかしい。

 羽染は、ポケットに携帯電話をしまってから、右手の拳を握った。
 震えていた。
 気づくと涙が零れそうになっていたから、嗚咽をこらえようと、その手で唇を覆う。それから……羽染は理解した。何故自分が、これ程までに衝撃を受けているのかを。一つ一つの事態を見ていけば、何も驚く事など無いのだ。当然の事なのだ。そうであるにも関わらず、衝撃を受けているのだ。

「……思ったより、僕は、ちゃんと……」

 有馬の事が、好きだ。

 気づくと、じくじくと胸が痛んでいた。
 きつく目を伏せると、涙が零れ落ちてくる。

 有馬の事だけではない。朝倉の副官として仕事をしている今が楽しかったし、時に山縣に声をかけてもらう時は、明るい気持ちになれる。この居場所が心地良かったのだ。

「有馬……っ……」

 気づくと、名前を呟いていた。

 ――きっと、少なくとも有馬だけは違う。
 有馬は、人を裏切るような事は、絶対にしない。

 そう思い直し、羽染は唇を噛みしめて、双眸を開けた。
 一瞬でも疑ってしまった自分が恥ずかしい。

 そう思えるくらいに、有馬は真っ直ぐなのだ。正義感に溢れている。よく怒り、よく笑う。感情を素直に出し、裏表が無い。そんな所が、最初は疎ましくて、そして今は、どうしようもなく好きなのだ。そうだ、好きなのだ。

 裏切られるのは怖い、嫌だ。
 しかし、好きになった相手の事すら信じられない自分なんて、許せるはずもない。

 羽染は、しっかりと自覚した。
 有馬に対する恋心を。


 ◇◆◇


「山縣大佐、有馬大尉の携帯電話から羽染大尉の会津支給の携帯に連絡行きました」

 着信履歴を監視していた久坂の声に、山縣は右の唇の端を持ち上げた。
 現在諜報部内での羽染の監視は、ほぼ久坂に一任されている。

「だけど本当に良いんですか? 羽染、絶対何か悟ってると思うんですけど」
「人の恋路を邪魔するのって楽しいよなぁ」
「馬に蹴られて死ね! じゃなかったでしたっけ?」
「――さ、どう転ぶか見物だな。お前から見て、羽染はどうすると思う?」
「案外、山縣大佐がキューピッド役なのかなって思います」
「へぇ」

 久坂の声に、楽しげに山縣が両頬を持ち上げて笑った。

「羽染に大切だって自覚させちゃうかも知れませんよ、有馬大尉の事」
「同じように朝倉の事とかも大切に思ってくれると良いんだけどな」
「恋心と仕事は別でしょう?」
「仕事って……朝倉フラれるの決定かよ」

 山縣が苦笑すると、久坂が呆れたような顔をした。口元にだけ笑みが浮かんでいる。

「禁断の恋って燃えるって言いますけど、既に軍閥違うだけで、それも会津と薩長土肥ってだけで、かなりのハードルですもん。そこに暗殺がくっついたところで、もうハードル上がりませんて、そんなに」
「俺も段々若い奴の言うことが分からなくなってきた、歳だな」

 山縣はそう言うと、久坂の横に珈琲を一つ置く。

「わ、有難うございます!」
「たまには、な」

 笑みを返してから、隣のブースの椅子を引いて、山縣が座った。

「で、ここからどうやって、羽染をダシにするんです?」

 久坂がカップを手に取りながら、尋ねた。

 ――山縣の計画では、徳川家と紫陽花宮を抱き込むために、保科を利用する事になっている。その保科の活用法の一つとして、羽染をダシにすると言う事だった。久坂が知るのは、そこまでだ。

 そもそも何のために、徳川家と紫陽花宮を抱き込む必要があるのかも分からない。本当に朝倉の暗殺阻止や、会津藩への処罰が目的なら、現時点で集まっている情報を根拠に羽染を拘束あるいは殺害して、会津藩に処罰を下す方が早い。

「どうしようねぇ」
「ちょ、山縣少将。まさかのノープラン?」
「久坂だったらどうする?」
「それって仕事のやり方、教えてくれるって事ですよね?」
「まぁな」

 山縣は何かと、久坂に自分で考えるように促す。過去、榊中将に、山縣もそうして鍛えられたからなのかもしれない。

「俺なら――……紫陽花宮に、羽染が有馬大尉を好きだって話しますね」
「なんで?」
「確かに動かしやすいのは、家時公だと思います。だけど、紫陽花宮が動いたとなれば、勝手に動いてくれそうでもあります。よって、より刺激するのが難しい宮家優先です」

 久坂は保科を巡る三角関係を思い出しながら、そう述べつつカップに手で触れる。

「そうじゃなくて、なんで、『羽染が有馬を好き』って伝えるんだ?」

 すると山縣がスっと目を細めた。それから緩慢に瞬きをした。

「羽染が敵じゃないって分かったら、保科様狙いなら味方につけておいて損はないでしょう? あの二人としては」
「それは一理あるな」
「それに冗談なら兎も角、本当に羽染を保科様の本命だなんて言ったら、羽染、すぐに消されちゃいますよ。羽染を人質に保科様に言う事を聞かせる、なんて、必要ないでしょう、あの二人には。保科様は現状で言いなりですから。『会津藩』ていう人質が既に存在するわけですし」

 確かに保科が従っている理由は、会津藩の処遇や待遇改善が理由なのは明白だ。

「大体羽染を人質になんてしたら、もう回復困難なくらい嫌われるなんて、火を見るよりも明らかなのに、あの二人がやるわけ無いですよ」

 久坂の回答を笑顔のまま聞いた山縣は、自分のカップを手に取った。珈琲が揺れている。

「それで、久坂の提案通りにした場合、紫陽花宮様はどう動くと思う?」
「羽染に接触するの一択です」
「羽染はそれにどう応える?」
「……っ……保科様が、性行為を強要されていると判断したら、殺害後に自害くらいしかねませんね……」
「それでもお前は、紫陽花宮に、『羽染が有馬を好きだ』って伝えるのか」
「いえ……」

 自分が間違っていたと、久坂は思い直した。山縣はそんな久坂の悔しそうな表情を見て、ニヤリと笑う。

「大体、羽染と有馬の噂が出てもう大分立つ。紫陽花宮様が、はたして知らないのかどうか。まぁ、羽染の気持ちは、今の所は、誰にも分からないが……本人にも分からなかったと思うな、俺は。やっぱり俺はキューピッドかも。きっと恋しているんなら、俺のおかげで漸く羽染は気づくだろう」

 冗談めかして山縣はそう言うと、カップを傾ける。褐色の熱が心地良い。

「ま、どのみち、紫陽花宮様から羽染への接触はあるだろうな。徳川も動いたんだから」
「模範解答教えて下さい。山縣大佐はどうするつもりなんですか?」
「羽染の妹の監視を強める。以上」

 そう言って、山縣は立ち上がった。

「飯に行ってくる。仕事は引き続き、頼んだぞ」

 ひらひらと手を振り、山縣は諜報部のオフィスを後にした。