【十六】友人としての顔



 保科と別れて一人帰路についた羽染は、逢魔ヶ刻の街を、静かに歩いていた。
 人目に付かないように和装で、帯刀している。

 喫茶店を出た直後から、後ろを着いてくる人間が両手の指の数では足りないほどいるのだから、やはり保科と会うのに人目を惹かないわけはないのだなと考えた。

 周囲に会話が漏れていたとは思わないが、盗聴器でも仕掛けられていたのなら、筒抜けだろうと思案する。

 実際山縣はその手法で、朝倉と二人会話を聞いていたのだが、羽染もその事は知らない。

 その時、人が歩くほどの速度で、正面からゆっくりと黒塗りの車が近づいてきた。
 何とはなしにナンバーを見て、羽染は少しだけ眉を顰めた。
 元老院議員のナンバーだったからだ。
 すれ違いざまに、車は更に速度を落とし、黒いスモーク硝子が開いていく。

 ――このまま歩き去るべきか、立ち止まるべきか。
 思案しながら、羽染は瞬いた。
 車内を一瞥すると、開いた窓からこちらを眺めている青年と視線が合った。

 焦げ茶色の髪と瞳。射殺すような鋭い目つきだというのに、口元にだけは余裕たっぷりの笑顔が浮かんでいる。

 反射的に、立ち止まり羽染は頭を垂れた。
 東京選出議員の、徳川家時だと気がついたからだ。
 徳川家は、保科家と親戚関係にあるため、会津も何度か融資して貰った過去がある。
 そうである以上、目が合ったのに礼を取らなければ、後で糾弾されてもおかしくはない。
 機嫌を損ねる事があってはならない相手の一人だと、会津では言い聞かされてきた。
 年齢は、少し年上だ。
 どちらにしろ二十代前半だったと、羽染は記憶していた。

「……」

 停止した車の中から、羽染を見ている家時。だが、彼は何も言わない。

 ――何か用があるのだろうか?

 さすがに怪訝に思って、羽染は頭を上げた。
 本来、私用で外出している時には、礼を取る必要は無いのだ。その為、声をかけられるのを待つまで、頭を下げている必要は無い。寧ろそうして、相手の時間を取らせる方が失礼となる場合もある。

「――小夜と言ったか」
「!」

 その時響いてきた声に、羽染は目を見開いた。

「妹が大切なら、保科に言――」


「あっれー、羽染じゃん! 何やってんの!!」
「!?」

 家時が何か言いかけた声を、羽染の進行方向正面から、威勢の良い声を上げて、誰かが遮った。虚を突かれて顔を上げた羽染は、手を振りながら走り寄ってくる寮の同室者の姿を、呆気に取られながら見やる。

「……出せ」

 家時の声で我に返った羽染は、けれど既に走り出していた車の後ろ姿を眺める事しか出来なかった。

 ――イモウトガタイセツナラ、ホシナニイ……?

 羽染は腕を組む。
 妹が大切なら、は分かる。

 ――保科様に、い?

 一体何の話しなのか、羽染にはよく分からなかった。
 い、なんだというのだろうか。
 ――言うな、か? 言え、か?
 ――だとして、一体何を?

「良かった、やっぱり羽染だ!」

 タイミングが良いのか悪いのか現れた、寮の部屋が同じ久坂歩の姿に、羽染は顔を上げる。

「羽染が半休取るなんて珍しいな」
「そう、だな……」

 確かに滅多に有給などを消費しない羽染は、これからは気をつけようと考えた。
 休みを取る事で、行動が露見してしまうのだと、遅まきながら気が付いたのだ。
 この時間に、寮の外に出て歩いているなど、休暇か半休しかない。
 羽染の休暇日は、久坂も休暇――土日なので、今日が該当日でない事はすぐに分かったはずだ。

「俺も半休だからさっ、飯行こうぜ、飯。それとも、もう食べた?」
「いや、まだだ」
「寮の側に、美味しいお好み焼きの店見つけたんだよ。それがもう安くてさぁ」

 隣に並んで歩き出しながら、羽染は頷いた。
 同じ寮になり、学問所での講師役も同じ日程で引き受けている事もあり、羽染は久坂とそれなりに親しいつもりでいた。久坂は気さくな性格だと考えてもいる。総務で働く陸曹の久坂に対し、羽染はある程度の友情を感じていた。実際の所、久坂は、現在山縣の副官をしている諜報部の人間であるが、羽染はそれは知らない。

 元々久坂は、実を言えば東北方面軍閥についての調査のために、率直に言うなら、会津藩が羽染を動かした時のために、羽染が上京した時点から見張りをしていた。誰にでも、上手く第二天空鎮守府に潜り込むことに成功した、若い仕官を先鋒にする事は考えつく。実際に久坂は仙台藩の出身であるが、そちら方面への忠誠心は無い。

 そんな久坂の明るい性格は、単なるキャラ作りだ――が、実際それなりに根は明るい。
 そのままゆっくりと二人で歩き、お好み焼き店の前に立った。
 適当な席に座り、二人はメニューを目にして、ビールと豚玉を注文する。

「乾杯」

 その後、二人で麦酒の入ったジョッキを合わせた。
 羽染が心地の良い炭酸を楽しんでいると、久坂がにっこりと笑って、目を輝かせた。

「どうかしたか?」
「羽染さぁ、俺に何か言う事があるんじゃないの?」
「話す事……?」

 猫のような形の久坂の目を見ている内に、しかし羽染の内心は凍り付いた。
 久坂と歩いている内に、意識的に閉め出そうとしていたのだが――徳川家時が、確かに何か言いかけたのだ。そもそも考えなければならない事は、他にもある。まずは、妹のことだ。何故家時は、小夜の名前を知っていたのか。

 また、同じくらい大切な事がもう一つ。保科は、恐らく体を使って何かしている。そしてそれに、苦しんでいる可能性がある。気づけば、眉間に皺が刻まれていた。

「羽染、そんな怖い顔するなよ、な?」
「……悪い」

 グイッとジョッキを煽ってから、羽染は溜息を漏らした。
 そもそも久坂だって、旧奥羽越列藩同盟縁の人間なのだから、保科と会ったことを隠す必要は無いのだと思い出す。

「今日、保科様とお会いしたんだ」
「へ?」
「その帰り――……さっき、黒塗りの車を見なかったか?」
「車……あ! 俺が声かけた時にいたアレ?」
「ああ。徳川家の家時様だった。どう思う?」
「どうって……さぁ。ふぅん。家時様がねぇ、何、元々羽染は家時様と知り合いなの?」
「いや。非礼が無いようにと、上京前に顔を覚えさせられただけで、話した事も無かった」

 ジョッキを置きながら、羽染は細く吐息する。
 偶然会ったにしては、家時から保科の名前が出てきた辺りが、腑に落ちない。

「保科様とは何を話したんだよ?」
「別に何も。様子を見に来て下さったんだろう、お優しい方だから」
「そんな馬鹿な。元老院議員だぞ? 多忙極まりないんだから、用件無しなんてさぁ……言いたくなかったら別に良いから、そう言えって。無理に聞いたりしないからさ!」
「そう言う事じゃないんだ。言えない事なら、そもそも話題に上げない」
「それはまぁ……そっかぁ。けどさぁ、用件無しって事は無いだろ?」
「本当に雑談をしただけで……そうか、じゃあ何か用事はあったのか……」

 羽染はジョッキを再び手に取りながら、首を捻った。

 今日話した内容の中で、保科の用件として想定できるのは――……やはり助けを求めていた、と言う事なのだろうか。合意でない性行為を強制されているとして、相手として考えられるのは……羽染は思案する。

「鷹司家の由香梨様」

 麦酒を飲み込んでから、羽染が呟いた。
 彼女とそう言う関係にあるとすれば、先方が妹の小夜の存在に懸念を抱いて何か行動を起こしたとも考えられる。しかしそれならば、何故徳川家が出てきたのか分からない。

「由香梨様がどうかしたのか?」
「……保科様と付き合っていたりすると思うか?」
「無い無い。あのプライドの高いお姫様が、告白したり出来ないだろ! 保科様も、由香梨様が好きだって言うのは口だけで、告白とかそう言うの絶対にしなさそうと言うか……寧ろ嫌いそうだしな!」
「そうか」

 まぁよく分からないが、鋭い久坂がここまで断言するのだから、無いのだろうと羽染は判断した。

「というかさ、羽染。俺が言いたかったのはさ、保科様の事じゃないんだけど」
「え?」

 続いた久坂の声に、驚いて羽染が顔を向ける。

「有馬大尉とは、どうなってるんだよ?」
「っ」

 羽染は手にしていたジョッキを取り落としそうになった。
 驚くと体から力が抜けそうになるのが、羽染の悪癖だ。

「どうって……」
「付き合ってるって本当?」
「いや……あの……」
「どこに惚れたんだよ?」

 楽しそうな久坂の顔を、口元にだけ笑みを浮かべ、羽染は半眼で見据えた。
 それから麦酒を飲み干す。

 ――何処に惚れたか?

 目を伏せれば、思い浮かぶのは、有馬の真剣な目だ。
 真っ直ぐな性格も、好ましい。

「……っ」

 慌てて、掌で口元を覆い、羽染は俯いた。
 一体自分は何を考えているのだろう。

「告白はどっちからだったんだ?」
「……有馬から」
「おお……それでそれで?」
「それだけだ」
「それだけ? 本当かよ。どこまで進んだんだ?」
「イジるな。何処までってそれは……」
「キスした?」
「……」
「したんだ。じゃあ、触りあいとか」
「……」
「え。本当かよ!? じゃあ、最後までは?」
「……してない」
「へぇ」

 幾ばくか頬に朱を指し、驚いたような顔で久坂が頷く。少し酔っている様子だ。羽染はそれを一瞥してから、店員を呼び止めた。

「すみません、生中一つ」
「あ、二つで。はぁ……有馬大尉、手、早いのな! というか、羽染も思いの外」
「違う。あのなぁ、俺はなんにも言っていないだろう!」
「いやもう、顔と沈黙が肯定を示していたからな!?」

 すぐに運ばれてきたジョッキをそれぞれ手に取りながら、顔を見合わせる。

「デートとかしてんの?」
「してない」
「したくないの?」
「何で有馬とデートしなきゃならないんだ」
「一緒にいたいとか、二人っきりになりたいとか思わないのか?」
「別に。そもそも二人で居たからと言ってなんだ? それを言うなら、俺と久坂は毎日部屋で二人だし、今も二人だろう」

 羽染が冷静に述べると、短く久坂が吹き出した。

「まぁ、確かに」
「そもそも、もう一週間以上、有馬の顔すら見ていない」
「え? まじで?」
「ああ。会う用事も無いしな」
「有馬大尉から、会いに来たりって無いのか?」
「無い」

 きっぱりと言い、グイグイと羽染が麦酒を飲む。
 その姿を見守りながら、久坂が呟く。

「……寂しくない? 大丈夫?」
「は?」
「俺は無理だわ。毎日会いたい方。え、さすがに連絡とかはしてるんだよな?」
「連絡先も知らない」
「え! ちょ、それはどうなんだよ?」
「用件がある場合は、同じ職場なんだから、伝令で事足りると思う」
「えええ? 何、デートの約束を、部下に持ってかせんの!?」

 朝倉の副官である羽染には、確かに部下もいる。だが、会議以外ではそれほど顔は合わせないのが実情だ。

「っ、そんなわけが――だから、用件て言うのは、仕事の……」
「なんだかそれだけ聞いてると、遊び行ったり飯食ったり部屋も一緒だしメッセージアプリのIDも電話番号も知ってる俺の方が、羽染と仲良い気がするんだけど」
「間違ってないと思う」
「でもほら、俺達の間には何も無いじゃん」
「まぁな」
「けど有馬大尉とは、あるもんな?」
「……もう良いだろう。この話は。止めだ止め」

 羽染はそう言って、二杯目の麦酒を一気に飲み干した。


 ◇◆◇


 翌日の諜報部。

「――と言う事なんですが」

 羽染に対して、徳川からの接触があったため、それを阻止した事。及び羽染自身から、保科や家時と遭遇した話をしてもらえた事――後者は、親密度に問題が無い為、密偵だとは悟られていないという事を、それらを久坂は、上官である山縣に報告した。

 鷹司由香梨や徳川家時の名前が羽染から出てきたことも付け加える。

「ほぅ。徳川の方が、動きが早かったわけだ。ご苦労」
「いえ。いかがいたしましょうか?」
「とりあえずお前、今日はまだ諜報部のゴシップを見てないだろ」
「アプリですか? 掲示板ですか?」

 確かに、昨夜遅くまで飲み過ぎたため、酒に強い羽染とは異なり二日酔い気味の久坂は、実際にまだ情報の閲覧をしていなかった。

「両方。お前、噂になってるぞ」
「はい?」

 意外な山縣の言葉に、首を傾げる。
 すると山縣が喉で笑った。

「『半休を示し合わせて取った羽染と久坂! 同室者カップル誕生か!? 羽染の本命は誰だ!? 頑張れ、久坂! 諜報部はお前を応援する!』だとさ。良かったな。俺は応援してやらねぇけど」
「ぶ」

 山縣に棒読みで言われ、久坂は吹き出した。

 人の目とは怖い。
 何処にあるのか、全く分からないのだから。