【十五】諜報部ゴシップ
山縣は諜報部のオフィスのブースで、背を深々と椅子に預けていた。諜報部には決まった席は無く、各自自分のPCやタブレット、携帯電話を手に、その日の気分で好きなブースに座る事が出来る。隣室には上層部の部屋があって、そちらには、諜報部の最高司令官である榊中将らがいるが、そちらに至っては雑多な玩具や熱帯魚の水槽があり、席は横長のソファセットだ。執務机等形ばかりである。自由な気風が、諜報部のオフィスである。尤もそれは、公式には存在しない部署であるから叶っているのかもしれないが。
何気なく仕事用の携帯電話を見た山縣は、諜報部で開発した専用のメッセージアプリを開いた。リアルタイムで情報を発信出来る代物で、諜報部に所属している者ならば、その情報をいつでも閲覧可能だ。
そのアプリ上では、第二天空鎮守府の、どんな些細な人間関係でも、いつでもどこでも『利用』出来るようにと、些細なゴシップまで皆が聞く都度発信している。
及びそれらを一覧にした掲示板と連携していて、まとめた内容も閲覧出来るようになっている。
山縣は、大抵、ゴシップを見聞きして、発信する側の人間である。だがこの日、初めて自分がネタになっている所を見た。
――原因は、食堂での一件だ。
嫌われ者の会津藩出身の羽染大尉を、有馬・朝倉――そして山縣が取り合っているというゴシップがトップニュースらしい。次点はいつもの通り、会津藩主である保科秋嗣を巡る徳川家時と紫陽花宮隆明、そして鷹司由香梨のニュースである。
なんだかんだと言って袖にしている風で、鷹司家の由香梨は、保科の事が好きな様子なのだ。年齢的にも家柄的にも、二人の婚姻には障壁は無い。問題があるとすれば、保科と現在爛れた関係にある二人だ。どちらも、現政府の実力者であり、多大なる影響力を持っている徳川家時と紫陽花宮だ。
江戸懐古運動から、衆道もさして珍しくなくなった現代ではあるが、さすがに旧将軍家の跡取りと、実質今後の国家元首と関係を持っている保科は、会津藩主でさえなかったならば、とっくに妾として囲われていた事だろう。
「会津って美人が多いのか……いや、無自覚タラシが多いのか」
山縣が呟くと、隣のブースで――彼の情報部においての副官である、久坂歩が顔を上げた。表向きは二人共、総務に所属している事になっているが、実際には諜報部で働いている。
「会津は致命的に鈍い人が多いですよね。後は、ネガティブというか。良く言えば、情に厚いって事なんでしょうけど」
「何で情に厚いのとネガティブが繋がるんだよ。まぁネガティブかも知れないけどなぁ……ただあれでも羽染は結構、カラッとしてたぞ」
「他人を信用しない所があるんじゃないですか?」
「かもな」
金髪碧眼の、国籍日米ハーフである久坂を見据え、山縣は頷いた。
英語が堪能な久坂は、優秀な山縣の副官だ。二重軍籍においての少将としての山縣の活動を、久坂は補助している。表向きに軍属になる前から諜報部の関係者として活動していた久坂は、山縣との付き合いは三年目である。
「それで山縣少将は、本気で羽染大尉を……?」
「んー、どうだろうな。個人的に好感を持ってるけどな、他人と戦ってまで奪うほどではない、ッて事にしておいてくれ」
「つまりかなり本気なんですね」
「なんでそうなる」
「本気じゃなかったら、諦めるような事を言わないでしょう、少将は。本気だからこそ、フラれるのが怖くて一歩退いてるんじゃ?」
「うるせぇ」
見透かすような副官の言葉に、苦笑しながら山縣は目を伏せた。
「ただ暗殺関連とか色々あるにしろ、羽染大尉の方は、まだ平穏ですよ。有馬大尉だって真っ直ぐに接してくれてるみたいですし、朝倉大佐もいるから、比較的。問題は、会津藩主様の方じゃないですか?」
「……ああ。まぁた、やっかいな二人に好かれたもんだよな、あれは」
「確かに地位・実力・人脈・金銭的に魅力的な将軍家と宮家ですけど、性格がやばすぎて、みんな仲良くなるの拒否ってるって言うのに」
久坂がひきつった顔で笑った。山縣は腕を組む。
「実際には頭が回るから性格がヤバイふりしてるだけだろ、あの二人は。寧ろ問題なのは、そんな腹黒ドSどもの心を開いた、会津藩主だな。運の尽きだ。あいつらは、両方とも、会津藩を取り潰して、保科議員を監禁して外に出さないくらいの力があるからな。そこまで考えてんなら、保科様を尊敬するが」
山縣の言葉に、久坂が目を細める。
「俺ノーマルなんで、マイノリティ問題は知りません。ただ、鷹司家の由香梨様だって、なんだかんだで保科様のこと大好きじゃないですか。確かにちょっと稀に見る美少年だし。ノーマルの俺でも、たまにクラッときますよ、あの顔と華奢な体」
「んー俺はあんまり幼いのは無理だわ。だから範囲外だけどな、言いたい事は分かる」
「やばいっていえば、そっち方面でも、羽染大尉は危ないかも知れませんね」
「どういう事だ?」
「だって、保科様の腹心の部下ですよ? わざわざ会津から呼び寄せたんですよ? 保科様の本命は羽染大尉だって噂もあります」
「……なるほど」
「山縣少将、好きならちゃんと守ってあげて下さいね!」
「――出来る限りの事はする」
山縣はそう答えてから再び窓の外を見た。既に夏の気配が近づいている。
◇◆◇
紫陽花宮と会った翌日。
重い体を引きずって保科秋嗣は、羽染良親と待ち合わせているカフェへと向かった。
「ごめんなさい、待たせましたよね」
二人で会う時の保科は、嘗て会津で過ごした時と同じ口調になる事が多い。
なお本日は保科が、意を決して羽染を呼びだしての待ち合わせだった。羽染が戦地から帰還してからは、二度目の事である。
現在は、約束の時刻を二時間ほど過ぎている。
羽染は三杯目の珈琲を飲んでいる所だった。
「いえ」
保科が忙しい事を承知していた羽染は、首を振るとメニューを差し出した。無論、どのような理由で多忙だったのかを、羽染は知らないが。
「僕も珈琲を」
「砂糖とクリームはいくつ頼みますか?」
「いらないよ、もう慣れた」
そんなやりとりをして、二人は顔を見合わせて笑う。保科にとっては羽染と過ごすこの時間だけが、自然体のままでいられる穏やかな時間だった。あるいは羽染にとってもそうなのかもしれない。
「そう言えば、噂を聞いたんだ。良親さんが薩摩の人に迫られてるって」
保科が切り出すと、カップを傾けていた羽染が咳き込んだ。
「そうなの?」
「勘違いです」
きっぱりと羽染が言うと、保科が破顔した。
「それなら良いけど――……ねぇ、羽染。これは藩主としての厳命だけど。もしも嫌々性的関係を迫られても、それを飲む必要は無い」
保科の瞳に、少しだけ真剣な色が宿る。藩主としての顔をしていた。
本日保科は、この話のために、羽染を呼び出したのだ。紫陽花宮から聞いた話が、心の中に深く刻まれていたのである。
「承知しました」
即答した羽染だったが、保科のその表情に、思わず生唾を嚥下した。
直感が……この幼君主が望まぬ性的関係を持っている事を、暗に訴えている気がしたのだ。心の中がざわつく。自分の事を気遣ってもらっているのは分かったが、本当はどこかで保科こそが助けを求めているのではないかと感じた。
「保科様。保科様が御身を犠牲にしても会津を護ろうとして下さっているのだろうと、その気持ちに敬服しております。ですが会津の皆は、同じくらい、保科様の事を思っております。保科様こそ、お体を大事にして下さい」
羽染が俯きがちに述べた。
すると保科が唇に力を込めて、悲しげな瞳で俯いた。
「――良親さん、僕は、僕なりに、きっと何らかの意味があって生まれてきたんだと思うんだ。例えその意味が、役割が、みんなを幻滅させる側面を持つものだとしても。それでも、会津を守れるなら、それで良いんだ。だから、そんな風に思ってもらえるだけで嬉しいです」
最後は苦笑混じりになった保科の言葉に、羽染は、テーブルの下で、爪を掌に立てた。何も出来ない自分自身が悔しかった。
「これは、妹の同級生に対する、ごく私的な意見ですが――……」
羽染は俯いたまま続ける。
「無理だったら逃げろ。一人の友人として言う。藩主がいなくなる事よりも、幼馴染が平温に暮らしている事の方が嬉しい。理由が必要なら、僕が殺した事にする」
「良親さん……」
「日本も、地元も、僕は大事だけど……秋嗣も大事だ。責任は僕が取るから――限界になったら、言って欲しい」
そう告げてから羽染は、珈琲を口に含む。
その言葉に保科は、一生懸命笑おうとして、だけど気がつくと泣いていた。
ボロボロと涙が、頬を伝って滴り落ちる。口元だけが弧を描いていた。
「……有難うございます」
掠れた小声で、保科が言った。
「……ただ、当然の事を述べただけです。これは、少なくとも会津の僕の友人達、皆の考えだと思います」
淡々と羽染は気持ちを伝えてから、細く吐息した。
◇◆◇
「なぁ、アレ、どう思う?」
遠方の席から、羽染と保科の様子を伺っていた山縣が、正面に座っている朝倉に問いかけた。二人は、羽染が珍しく半休を取得した為、何か会津藩に動きがあるかもしれないと考えて、長めに休憩時間を取って、『観察』しに来ていたのである。
「面白くないね」
「だよな。というか、やっぱり保科様は、絶対に将軍家と宮家の板挟みだよな」
「それもあるけど、羽染が故郷に拘る理由が分かった気がして嫌だよね」
羽染から感じる保科への忠信。朝倉の声に、山縣も頷く。それから山縣は紅茶のカップを傾けてから続ける。
「これは、俺達が羽染をどう懐柔するかとか、恋心をぶつけるかとか、そう言う問題を越えてるよな。それだけ、会津の立場は危うい」
「だろうね。なにせ、会津は第一次戊辰戦争の後は被害者的な立場を取っていた時期もあったりするから……何を言ってんだよこいつらって、少なくとも僕らの長州や土佐は思ってる部分もあるだろ? 勿論真逆の価値観があるのも知ってるけどね」
会津の自虐的な歴史史観として広まっている、幕末の薩長土肥の非道は、決して朝倉や山縣にとって快いものではない。事実が分からない点、例えば当時から異国の手が戦に加わっていた等という話――幕末に関しては様々な論調があったが、それらは第二次戊辰戦争の後にはあまり囁かれなくなった。
「因縁ていうのは怖いな。あの二人が悪いわけじゃないってのは分かる。どうにかしてやりてぇけどな」
「まぁ率直に言って、羽染と保科様の二人は敵だと怖いね。味方にしたら、本当に心強いだろうけど。今なんて、海外の情勢も怪しいんだから、国内で差別偏見が横行してる現状なんて嘆かわしい限りだし……ぜひとも味方にしたいね、会津を――というか、少なくともあの二人を」
「羽染は、お前の副官だし、有馬の押しも強いし、何とか抱き込めるだろう。お前の暗殺の件と、あの藩主様への忠信さえどうにかなれば、大丈夫だ」
「うん。鍵になるのは、保科議員だね」
朝倉が静かに頷いてミルクティを飲み込む。山縣は再び羽染達の姿をチラリと見てから、嘆息した。
「徳川の家時様か、紫陽花宮隆明様を、あの藩主様をだしに抱き込むのが得策だろうな」
「難易度が高い二人だな」
「あの二人の和解はあり得ない、二人とも引き込むことは無理、と俺も思ってたが……案外、保科様を餌にすればのってくるかもな」
「どうやって餌にするつもり?」
「そこで羽染を利用する。本命が出来たかと思えば、保科様を愛するあの二人も焦るだろ」
「確かにこの喫茶店にも、徳川方と紫陽花宮方の探偵さんがいっぱいいるしね」
「保科様が、あの二人に愛されてるのは間違いないだろ。保科様本人の気持ちはどうあれ」
「僕らには羽染の気持ちすら分からないからね」
そんなやりとりをして、二人は羽染達には気づかれぬように、少し早く店を出た。