【二十二】同郷の後輩の来訪と暗号



「それにしても、家時公もやりますね。保科様連れていなくなるなんて」

 久坂の言葉に、山縣が、窓の前で振り返った。今朝は霜が降り、場所によっては薄氷が張っていた。それまで外を見ていた山縣は、意識を切り替える。

「ああ。うちの諜報部からSPの中に忍び込ませていた奴らまで巻かれたらしいからな……駄目だな、侮れない」
「しかも、新聞各紙に写真出ちゃってますからね。『非公式訪問――福島と東京の友好の証』とかって……なんだかなぁ」
「徳川が、すっぱ抜いた週刊誌の記事を、圧力かけて差し止めたんだよ。で、わざわざ新聞社に写真と記事を送付したんだ」
「え、そうなんですか?」

 旧将軍家の話題は、何かと週刊誌で人気だ。徳川家時や、他の徳川家の姫の写真が掲載される事もある。なお新聞社に関しては、各地の天空鎮守府の息がかかった軍よりの新聞と、帝都新聞のような各藩や旧徳川家の圧力がかかっている新聞が存在する。家時が圧力をかけて友好記事を掲載させたのは、それこそ帝都新聞である。

「よっぽど宮様に見せつけてやりたかったんだろうな」
「これは紫陽花宮様も黙ってないですよね。誰がどう見てもデートに見えますもん」

 久坂が引きつった顔で笑うと、隣りのブースの椅子を引き、座ってから山縣が長い足を組んだ。そして指もまた組み、テーブルの上にのせる。視線は観葉植物の緑を捉えていた。

「で、久坂なら次はどんな手を打つ?」
「俺が宮様だったらって事ですか?」
「ばーか。仕事中だぞ。宮様に対策として、だ」

 山縣の呆れたような苦笑の気配に、久坂が姿勢を正す。

「はい! ええと……家時様に、近づきます」
「わざわざこのガードが堅くなってるだろうタイミングでか?」
「だからこそチャンスなんでしょう?」

 久坂の当然だという顔に、山縣はニヤリと笑う。『ガードが堅い時こそがチャンス』だと教えたのは、山縣本人だ。久坂の考えとしては、保科と家時が近しい内に、そちらから攻める事で、紫陽花宮を表舞台に引きずり出したいという思惑だった。

 しかし山縣は、否定するわけでは無かったが、天井を見上げながら別の事を呟くように言う。

「ま、俺なら、保科様を喰いに行くけどな」
「え」
「ただ残念ながら、俺にショタ属性はない。って事で、久坂ちょっと、保科様と寝てこい」

 保科に本命が現る――それが、諜報部所属の人間、こうなれば、確かに様々な方面で、有利に事は運べるだろう。徳川家と宮家を懐柔するのに必要不可欠な人材は、紛れもなく保科だ。諜報部は何も慈善事業で保科を救うためだけに動いているわけではない。肝要なのは、そもそもは会津藩を始めとした東北方面軍閥の動向を探る事である。

「無理ですよ、嫌です! そんな事したら、徳川からも宮家からも命狙われるというか、殺されちゃいますよ! それ俺に死ねって事でしょ!? 自分で行って下さいよ!」
「絶対嫌だ。俺もまだ死にたくない――……仕方ない、もっと難易度低い奴をあてがってやる」
「えー、俺羽染の件で、結構手一杯なんですけど」
「安心しろ。その関連だ」
「へ?」
「今日は羽染に客が来るみたいだぞ」
「そんな話、羽染からは聞いてませんけど?」
「羽染本人も知らないからな」

 山縣はそう告げると、珈琲を淹れに向かった。
 残された久坂は、来訪者が女性であることを天に祈った。敬虔なカトリック教徒である彼は、根本的には同性同士のマイノリティには不寛容だ。とはいえ、女性が相手ならば、その限りではなく、敬虔だと自称する割に、下半身は決して固くはない。

 ――もっとも、相手が女でなければ、取る行動は一つだけだ。


 ◇◆◇


 朝倉の執務室にいた羽染は、資料の確認に集中していた。我に返ったのは、館内放送が流れた時の事である。

『――繰り返します。第二天空鎮守府陸軍第一旅団所属羽染良親大尉、お客様がいらしております。至急ご連絡願います』

 初めての事態に、羽染は首を傾げた。これまでに、放送で呼び出された経験など無かった。

「呼ばれているよ、羽染」

 朝倉が書類から顔を上げると、斜め隣りの席で、書類に向かっていた羽染が頷いた。

「大変恐縮なのですが、この場合、どこへ連絡すれば良いのでしょうか?」
「総合外来受付に来てるんだろうから、中央館の受付だと思うけど、直接行ってきて良いよ。今は急ぎの仕事は無いしね。確認だけだから」

 朝倉のその言葉に、羽染は腕時計を見る。

「ですが、まだ職務中ですし」
「上司が構わないって言うんだから、良いんだよ。それに、客の相手をする時間も無いほど忙しいなんて噂がたったら困る」

 悪戯っぽくそう言って朝倉が笑ったので、羽染は頷いた。
 行きやすいようにと気を配ってくれる朝倉の発言。そう言う所が、羽染は好きだった。朝倉の気遣いを見ると、いつか己もこんな上官になりたいと考えてしまう。

「では、お言葉に甘えます。有難うございます」

 羽染はペンを置き、立ち上がった。それから襟元をしっかりと正す。

 そして、中央館の一階へと向かい、総合受付で、名前を告げた。すると受付担当の下士官の視線が、正面に広がるソファへと向かう。羽染はその視線を追いかけて何気なく振り返った。するとそんな羽染に、ロビーのソファに座っていた青年が立ち上がり、走り寄ってきた。

「ご無沙汰してます、羽染先輩!」
「――神保」

 高等士官学校時代の後輩の姿に、羽染は驚いた。羽染が三年の時に一年であったから、入軍するとすれば来年、だがおそらくが仙台にある東北方面軍閥の拠点だろうと考えていた相手だ。しかし小学時代から既知の為、二人は会津において、非常に親しく過ごしていた。

「お時間大丈夫ですか?」
「ああ……上官が好意で取り計らってくれた。昼休みが終わるまでは、時間がある。食事は?」
「朝から何も食べてません! 俺一度で良いから、第二天空鎮守府の二階にあるっていうステーキハウスに行ってみたかったんですよ! 高くて行けないんですけどね」
「……分かった。着いてきてくれ」

 後輩には奢る。
 そんな習慣があるため、羽染は神保を案内して歩き始めた。実際、朝倉の副官になってからは給料も上がったのだが、特に使う機会も無い。たまに有馬と飲みに行く時におごり・おごられる程度だ。

 また、その店であれば、昼食時であっても、軍人や議員以外の来客者が多いため都合が良かった。軍のクリーンなイメージ作りの一環で、市民に開放されている店の一つだ。

 階段を上がり、店を目指す。丁度ランチタイムだった。
 最奥の席に案内してもらい、注文を終えてから料理が来るまでは、互いの近況などを話し合っていた。喫煙席にしたのは、神保が煙草を吸うからだ。

 それぞれのステーキが運ばれてきたところで、羽染が切り出す。

「それで、用件は?」
「一通目、父からです」

 神保はそう言うと、懐から一通の書状を取り出した。
 受け取った羽染は、静かに中身を取りだし、半紙を広げる。

 手紙を持参してきた神保皐月は、会津藩の重臣を代々務める、神保家の次男だ。
 現在彼の父親は、会津藩の家老の一人である。

 ――暗殺の件を知ってはいるが、止めはせず、かといって口を挟む事も無かった重鎮の一人である。会津藩で信頼できる数少ない一人が、彼の父である神保神楽である。羽染の父の同窓だったのだという。父の死後も、何かと目をかけてくれた人物だ。

 羽染が暗殺を依頼されたと悟った時、ただ一言、神保神楽は『無理をするな、どうとでもなる。妹の事も任せろ』と言ってくれた。

 だからこそ……逆に迷惑はかけられないと羽染は思っている。神保神楽は、誰よりも保科の事を考えていて、それは羽染と同じだった。なお神楽の父であり、最近引退した神保霜月に至っては、保科には、神保の爺様や神保爺と言われて、大変慕われている。

『宮家が、小夜を転院させる手はずを整えていたが、実行せず。その際、第二天空鎮守府の軍部の関係者が、阻止しようとしていたようだが証拠は無い。会津藩と東北方面軍閥は、宮家の動向には関与出来ず』

 短い手紙だったが、羽染は表情を変えてしまいそうになった。その為、長い瞬きをして誤魔化した。やはり、あの時断って正解だったのだなと確信する。同時に、第二天空鎮守府まで絡んでいるのかと、溜息が漏れた。その必要性がある人々を想像すると、第二天空鎮守府の皮を被った、旧薩長土肥――九州方面軍閥の関係者だろうと分かる。会津と宮家の繋がりが深まる事を、彼らは、よしとはしないはずだ。現状では、宮家と深い親戚関係にある鷹司家の存在が、九州方面軍閥の勢いを高めているという現状がある。宮家の後ろ盾があるというのは、本当に強力な事なのだ。

「一通目という事は、二通目もあるのか?」
「はい。これ、俺からのラブレターです」
「……」

 笑顔の後輩の声に、引きつった笑顔を返しながら、羽染は手紙を受け取った。
 ――そう言えば、まだ有馬に連絡していなかった。

「ちょっと待ってくれ」

 手紙を受け取ってから、羽染は携帯電話を取り出す。

「連絡する所がある」
「やだなぁ、保科様には俺から連絡しますって」
「すぐにしてくれ。保科様には逆に来訪をお伝えしていなかったのか?」
「羽染先輩に会いに来たから、後で良いかなって」
「そもそも来るんなら、僕にも前もって話してくれ」
「羽染先輩は、一体どこに連絡を?」
「ちょっとな。誰かと二人で食事をする時は、伝える約束をした相手がいるんだ」
「ほう」
「それより神保。お前は、兎に角すぐに、保科様にもご連絡を」

 羽染はそう言って、一通目を胸ポケットにしまってから、二通目をテーブルの上に置く。
 そして片手で携帯電話を操作し、有馬の連絡先を呼びだした。

 少し前に羽染は、五台目の携帯電話を購入し、会津と帝都で知る私用の連絡先がある全ての人間に新しい連絡先を送付した。今はこの五台目に統一して、私用の連絡は取っている。

『二階のリオンというステーキハウスで、会津から来た後輩と二人で食事をしている』

 それだけメッセージアプリで送ると、すぐに返信がきた。

『楽しめよ!』

 これで何も問題は無いなと思いながら、羽染は携帯電話をポケットにしまった。
 それから、こちらはまだ携帯電話を弄っている神保を一瞥した後、渡された二通目の手紙の封を開ける。こちらは可愛らしいレターセットに入っていた。四葉を傘にしているデフォルメされたクマが描かれていた。

『見たらこの場で燃やして下さい。「殺意が沸いた」とか言って』

 まずその一文を見て、だからステーキの店に来たのだと納得した。この店舗は直火焼きを謳っていて、目の前には最先端の七輪があり、その上で肉を焼くのだ。炎の流れに気を使っている為、実際に火が上る。紙を燃やすくらい易い。それが可能になる程度に、防火システムは逆に弱めて設定されている。

 尤も神保が煙草を吸うのも、灰皿の上で紙を燃やせるからだと羽染は知っていた。
 会津からの伝令、会津藩の間諜、それが神保皐月の幼少時から叩き込まれた人生の職務である事は、羽染にも分かっている。現在の神保は、表向きは会津の鶴ヶ城の料理人だが。

『それで先輩に頼まれてた件ですが――先輩の携帯電話のIDの流出元は、青木先輩です。卒アルを、第二天空鎮守府の諜報部に盗まれてました。居酒屋の防犯カメラに映ってましたよ、俺が仕掛けた隠しカメラなんで、さすがに気づかれなかったみたいです。会津じゃあそこしか、部外者と二人で飲みには行けないんで、仕掛けといた俺の事を褒めて!』

 必要事項以外も混ぜ込んで書いてある神保の手紙の文面を見ていると、羽染は微苦笑してしまう。同時に、青木の顔を思い出し、裏切られたわけでは無さそうだと考える。青木はどこか人が良いのだ。

『青木先輩本人は、本当に何も知らないし、無事です』

 その記載を読んで、自分の考えが正しいと、羽染は考えながら、コップに入った水を飲む。神保はまだ携帯電話の操作をしている。

『それと山縣大佐は諜報部の人で確定っぽいですよ。先輩の同室者の久坂さんて人が、卒アル盗んだ奴と接触して、アルバムを受け取ってます。その後、山縣大佐と会ってるのを、掃除のオバサン的な人が見てました。コワいっすね、何がって、オバサンが! 久坂さんも臭いですね。調べてみたら山縣大佐と一緒で、昼の実務、偽装っぽいっす』

 続いて書かれていた事柄に、羽染は小さく息を呑んだ。山縣に関しては、知らないはずのIDを知られていた点で、疑念を持っていたが、久坂も諜報部の関係者だったというのは意外だった。やはり入寮時から監視されていたのだろうと判断する。東北方面軍閥の出自であっても、懐柔されている人間は多い。

 ――存在しないはずの、第二天空鎮守諜報部。正確には、大日本帝国軍諜報部。

 既にそれが存在する前提で、神保は手紙を書いている。各藩に間諜がいる以上、そこには疑問を抱かない。

『それと、病院の父からの件、紫陽花宮と徳川家跡取りが保科様を巡って昼ドラ展開らしいんすけど、知ってました? 知ってたなら、俺の台詞「口調にですか?」の後、「そうだ、内容もだけどな」か「違う、内容だ」って言って下さいね! 後、最後に本当に個人的な質問ですが、羽染先輩が薩摩の有馬大尉と付き合ってるって真面目な話ですか? それとも、暗殺しやすいように、抱き込む腹ですか? 前者なら「第一俺には恋人がおる」で、後者なら「俺とお前の仲だろう」でお願いします。以上! 会津藩の間諜より』

 読み終えた羽染は、神保が煙草の箱の上に置いておいたライターを手に取り、七輪の上で、手紙に火をつけた。

「ちょ、先輩何してくれてるんですか、俺の気持ちを!」
「殺意が沸いた」

 少しだけ本気で羽染は言った。

「口調にですか?」
「そうだ、内容もだけどな。第一俺には恋人が居る」
「……え。真面目にですか? 大真面目?」

 目を見開き、携帯を操作する手を止めた神保に対し、表情を硬くして羽染は頷いた。

 徳川に関しては、保科から直接的に聞いたわけでは無かったが、相手の出方と、今朝の朝刊を見て察しをつけていた。また、有馬に関しては、嘘はつけない。

 ――なにせ、有馬の事が好きなのだから。それこそ、大真面目に、だ。

「三通目渡すの、ちょっと躊躇。これは、他の人から預かってた、先輩への恋文です。読んだら可哀想なんで燃やしてあげて下さい……俺からお断りしておきますけど、せめて気持ちを伝えようという勇気だけでも、見てあげて下さい。手紙はこれで終わりなんで! 一応返事もこの場で書いてもらえると幸せなんですが」

 そう言って、神保が最後の手紙を差し出した。
 会津藩の、重鎮からの手紙だった。これまた、半紙だ。
 同時に、返信用のペンとノートの切れ端も渡される。

『薩長土肥に懐柔されたのであれば、妹の命は最早無いと思え。彼らに頼ろうとしても無駄だ。保科様も全てご存じだ、すぐに生命維持装置の電源は止まる。第二天空鎮守府の軍部を動かそうとしても無駄だ。動きがあれば、こちらには筒抜けなのだから。実際、転院させる事は出来なかったであろう。朝倉の暗殺は、いつになる? その為に、偽装として恋人を作ったのか。そうであるならば、応援しよう。しかしそれ以外、あると思うな、利用せよ。奴らは裏切りが得意だ、甘言に騙されることの無きよう。皐月は銃を携帯している、我らの忠実なしもべだ』

 読み終えた羽染は、それにも火をつけた。
 それが燃えていくのを見据えてから、ペンを手に取る。
 焦げ臭い臭いが広がったが、ステーキを焼く臭いと煙に上手く紛れた。
 直火焼きのステーキのおかげだろう。七輪の上には、巨大な肉がのっている。

『転院とはどういう事でしょうか、命と安全を保証して下さるのでは無かったのですか。暗殺は、着々と薩長土肥に疑われぬようアリバイ工作や手引きをしてくれる人間を見つけ、親交を深めながら、今はより良い時期を模索している段階まで進んでおります。故郷、会津に迷惑をかけぬよう、注力している次第です。会津を裏切る事があれば、死を持って償いましょう』

 そう書いて、羽染は、折る事もせず神保に手渡した。無表情だった。

「適当に封筒に入れて、返しておいてくれ」
「あー、文字にするとダメージでかそうなんで、口頭で伝えます」

 神保はその紙に、火をつけた。
 これで何も証拠は残らない。羽染のメッセージを伝令するのが、神保の次の役割だ。

「保科様には連絡したのか?」
「はい! 今、メッセージを送りました」
「お会いするのか? ご多忙だから、しつこく近況を聞いたりするなよ」
「勿論。俺、お喋りなんで、会津のニュースは話しますが、保科様から何か聞いたりしませんよ! 誓って」

 互いに笑顔で、けれど瞳だけに真剣さを宿して視線を交わす。焼けたステーキを、それぞれが運ばれていた鉄板の上に取る。

「でもそれって、保科様に色々あるのを羽染先輩は知ってるけど、羽染先輩が知ってる事を保科様は知らないって事ですか?」

 伺うような神保の声に、羽染はナイフとフォークを手に取りながら、目を伏せ濁す。

「当然だ。今朝の新聞を見ていないのか? 保科様は、新聞に取り上げられるほどのご立場なんだ。僕には嫌でも情報が入ってくるが、逆は無い。まぁ、今朝は兎も角、他は少しくらいは保科様ご自身から聞いた事もあるけどな」
「なるほど、それもそうですね。所で、先輩最近は、魚捌いてます?」

 なお――『魚を捌く』、それは、二人の間にだけ通じる『暗殺』の隠語だ。会津にいた頃に、当初は遊びで決定した言葉だった。だが、今では有用な取り決めとなっている事は間違いない。

「全くやってない。僕に捌いて持ってきてくれないか?」

 ――『捌いて持ってきてくれないか』、これは、羽染に対する暗殺命令が下ったか否かの確認だ。任務放棄をしたと見做されれば、羽染自身が暗殺される事もありえるのだ。あくまでも会津藩や東北方面軍閥の駒である羽染が裏切る事は、決して許容される事ではない。

「無理ですよ、俺にそんな事出来るわけが」

 首を振り、違うと意思表示しながら、神保が当たり障りの無い返事をする。

「……そうか。ではせめて、妹に」
「だから無理ですって」

 続いて――妹の暗殺命令も下っていないと聞き、羽染は少しだけ体から力を抜いた。羽染が裏切ったと思われれば、妹の小夜の生命維持装置は、簡単に電源を落とされる。それが何よりも羽染にとっては恐怖だった。

「所で先輩って、寮暮らしなんですよね?」
「ああ」

 頷きながら羽染は、久坂の顔を思い出した。
 久坂が諜報部の人間だとすれば、最初から自分は監視されていたのだろうと、羽染は改めて考える。本当に別段、あり得ない話ではないのだ。強いて言うならば、徳川家時との遭遇時に偶然外であったのも、監視されていたからなのだろうと納得する程度だ。だとすれば、徳川家と諜報部は繋がっていない。

 旧将軍家である徳川家には、お庭番と呼ばれる専任の諜報員がいるという噂は実しやかに囁かれている。嘗ては忍者の流れを汲んでいたと言われているが、現在の世界には、忍者という職業は少なくとも存在しないので、週刊誌のゴシップ記事の域は出ないとも言えるが。

 それよりも――久坂と山縣に面識あるという話は全く聞いた事が無かった。だからこそ、信憑性がある。どちらも総務所属だが、その内部の科が異なるようだったから、不思議は無いのだ。だがそうなってくると、総務の部署の内のいくつかは、諜報部の隠れ蓑の可能性を考えてしまう。

「何人部屋ですか?」

 神保の言葉で、羽染の意識が現実に引き戻された。

「二人だ」
「上手くやれてます? 仲良いですか?」
「飯に一緒に行くくらいにはな」
「うは、俺と同レベルとか。俺達も今、ゴハン食べてますよね? で、で? どんな人なんですか? 俺もその内入寮するかも知れないから、不安なんですよね、上手くやれるか」
「仙台藩の出自だ。ノリで生きていると本人は言っている。巨乳が好きだそうだ」

 久坂から聞いたどうでも良い個人情報を、羽染は語る。

「巨乳かぁ……俺はどちらかというと、すらっとして背の高い、やせ形が好きです」
「久坂は、すらっとして背の高いやせ形だぞ」
「クサカさんて言うんですか。女の人、じゃないですよね? それじゃあ無理だな、俺。俺的に男なら、ハゲがいいっす。あ、羽染先輩は例外ですけど」

 手紙では久坂の名前を出したくせに、神保は知らんぷりで通すらしい。

「さっさと食べろ。そろそろ僕は、仕事に戻る」
「了解です。じゃ、また今度。って、先輩全然会津に帰ってきてくれないじゃないですか。みんな会いたがってますよ。俺が上京するから羽染先輩に会ってこようかなって言ったら、たまたま帰ってきてた東北軍閥の結城先輩が、ゾルゲの映画見たの覚えてるか、また羽染先輩と見たい、って言ってましたよ。そう言えば結城先輩って、誕生日十月十九日の二十時四十分十一秒らしいですね。秒数まで母子手帳で確認してるとか、ひきました。覚えちゃった自分に一番ひいたけど」
「確かに気持ち悪いな」

10192041011と羽染は脳裏にメモした。ゾルゲ文と呼ばれる暗号の数字を伝えてきたのだろう、結城が。東北方面軍閥に所属している嘗てのクラスメイトとの間では、鍵本は『ルーラック』という書物だと取り決めてある。何の変哲もない、推理小説だ。正確には、今が『ルーラック』であるだけで、実際にはその作者の新刊を鍵本とする事に決めているのだ。暗号解読を防止するために。

 今回届いた暗号は六文字。鍵言葉は、昔から変わらずSUBWAYだ。

 率直に解読した後、更に結城と羽染の二人の間で通じる一捻りを加えて、羽染は結城からの連絡を受け取り理解した。小説の本文は暗記する事にも決めてあった。

 これが、秘密裏の暗号の解読は、神保にも不可能だろう。

 無論暗号だと分かっている可能性はあるが、解読法を直接聞かれた事は無い。いつも結城からの連絡を、神保は黙って運んでくれるのだ、少なくとも羽染の側には何も聞かずに。

「ただ、残念ながら、結城の誕生日は違う日だ。どうせ酔ったアイツに、適当に言われたんだろう?」
「え、嘘なんですか?」
「ああ。前にも似たような事、無かったか?」
「あったかも……」

 ポカンとした顔を取り繕った神保を見ながら、羽染は考える。このやりとりも定形的な神保とのやりとりだ。記憶力がずば抜けている神保が忘れるとは考え難いから、やはり黙って運んでくれるのだろうと認識している。

 結城からの連絡の内容は――『たらこパスタ』だ。
 たらこパスタとは、結城と羽染が取り決めた、緊急時の暗号である。

 これは互いが連絡を直接取れない状況下において、相手の近くに物理的にいる会津藩の人間に危険が迫っている事を知らせるメッセージだ。それも、命の危機に関わる物に限定される。ただ一人保科だけは例外で、保科に危機が迫っている場合は『ナポリタン』となる。その為、現在の羽染にとっては、その条件に合致するのは、神保皐月だけだった。目の前にいる後輩だけなのだ。

「直接会って、それを聞いたんだな?」
「はい」
「だったら、次に会う機会があったら、もしくは本当の誕生日の時にでも、独逸料理をごちそうしてやれ」
「独逸料理? なんで?」
「僕がそう言っていたと結城に伝えてくれれば分かる。と言うか神保、知らなかったのか? あいつが独逸料理好きだって」

 神保が知っているのか否か羽染は知らなかったが、『独逸料理』とは、結城と羽染の間で決めた『了解した』という合図だ。これは解読されても構わない言葉だ。

「あ、そうだったんですか。や、俺、羽染先輩との方が仲良かったし」
「所で今日は、神保はどこに泊まるんだ?」
「ええと、ここの最寄りの駅前のビジネスホテルに一泊予定です。明日の帰郷前に、七時から二十分だけ、保科様にお会いします。さっきやりとりしてて、そう決まりました!」
「折角こちらに来たんだから、横浜まで出て大観覧車でも見てきたらどうだ? すぐに帰るのは勿体無い。神保は、高い所が好きだろう?」

 羽染の言葉に、短く神保が息を呑んだ。
 今度は、羽染と神保の間で取り決めた言葉を、羽染が口にしたからだ。

 横浜という語には、意味が無い。その都度、近い土地の名を当てはめるのだ。しかし『大観覧車』は、『緊急避難をしろ』という意味合いである。『高い所が好きだろう』は、命に関わるという意味だ。

「それって……」
「違ったか? 結城から、そう聞いた覚えがある」
「……そういえば、言ったかも。けど横浜は、さすがにちょっと。超科学新幹線を乗り継ぐのはなぁ……けど俺、大観覧車が素敵だって分かってました。分かってたんです。それにしても観覧車って危ないですよね、特にこっちのは規模が大きいから、緊急停止したら大変だし」

 神保の言葉に、羽染は眉を顰めた。神保は、知っている様子だ。
 ――恐らく神保は、東京で命を狙われるだろう事を、理解していたのだろう。

「俺は死にたくないんで、安全確認だけは怠らないんですけどね」
「そうか……」
「なーんて言って、もし俺に何かあったら、結城先輩に独逸料理おごれなくて、すみませんって伝えて下さい」
「分かった」

 羽染は頷いて、立ち上がった。ステーキを食べ終えたタイミングだ。

「そろそろ行く。またな」
「はい。羽染先輩もお元気で」

 また……会える事を、本心から羽染は祈っていたし、笑顔でそれに答えた神保もそれは同じだった。

 ――そのレストランにいた諜報部所属の面々やどこかの藩の密偵である一般市民を装った人間達は、思い思いに得た情報を、咀嚼していた。盗聴器は、いたる所に存在している。