【二十九】最後の晩餐
「何とか無事に、宮家にも徳川家にも怪しまれずに、羽染の妹を軍病院に移転できた、って事か」
朝倉が呟きながら、ベランダの柵に両腕をのせた。
「発案者が、保科様って言うのが、ちょっとアレだけど、まぁ成功だ」
山縣が、椅子に座りながら、ビールの缶を握っている。窓の開け放たれたマンションの一室だ。朝倉が帝都内に所持している家の一つである。
「保科様は、結構酷い人だね。本気で、宮様も家時様も心配してたみたいなのに。有馬もそうだ。由香梨様もね」
「急変した事にして東京に連れてきて、死んだ事にして、軍病院に入院させるんだもんな。葬儀は密葬扱いだから、羽染以外の誰も来なくて自然な状態だったし」
「その上、しばらくの間、ショックを受けたフリをして、保科様は紫陽花宮様とも家時様とも会わない、って事か。心配のしすぎでおかしくなりそうな二人を、ここぞとばかりに山縣が懐柔するんだね」
「上手く行くと良いんだけどな」
「それで本当の容態はどうなの?」
「分からない。それこそ、神のみぞ知る、って奴だろう」
二人の姿を、星空が見おろしていた。
◇◆◇
遺体のない葬儀を一人で終えた羽染は、三日後仕事に復帰して、すぐに休日を迎えた。
まだ妹は生きているにも関わらず、仏壇には遺影がある。
丁度良く久坂が仕事の都合で部屋を移動する事になったため、一人部屋となった羽染は、片隅に小さな仏壇を設えた。
――いつか、本当に使う事になる仏壇だ。
急変の知らせを受け、会津の友人達から、続々とお悔やみの言葉が届いた。
――ああ、誰にも話す事が出来ない。
小夜が生きているという事実を知っているのは、保科と自分だけだと、羽染は聞いていた。だが恐らく、軍病院にいる以上、山縣も知っているのだろうと羽染は考えている。何せ、報せに来たのは山縣であったし、入院・生存を秘匿可能なのは諜報部の人間達だけと言える。
諜報部の取り計らいで、この計画は実行されたのだろう。
その割に、神保からも悔やみの電話が来たから、やはり彼は会津藩を拠点にしているのだろうとも思えた。懐いてくれている後輩まで疑ってしまった自分自身を、羽染はふがいなく思う。そして何よりも、保科が現在諜報部と繋がっていると判断するには、十分すぎる情報が集まっている事実には、苦痛を覚えていた。
きっとその要因の一つは、自分の存在だろうと、羽染は考えずにはいられない。
そろそろ、本格的に、朝倉暗殺について思案しなければならない段階に来た。
この件に関して、羽染には、一つの計画があった。有馬と体を重ねた今、最早何も思い残す事は無い。妹の無事も、恐らく朝倉や山縣が絡んでいるのであれば、きっと保証される。
軍病院に転院した以上、今となっては、暗殺話など聞かなかった事にも出来る。
だが自分の存在が保科の行動を制限する足枷になるくらいであれば、そう、そうなるくらいであれば――……移す行動は、一つしかない。
そもそも羽染は、会津の人間を裏切る事ど出来ないと思っていた。
丁度その時、部屋をノックする音が響いた。
立ち上がり、羽染は扉の前に立つ。
インターホンで外を見れば、そこには有馬が立っていた。
「どうかしたのか?」
扉を開けて姿を現した羽染を見て、有馬は頷いた。
「あがっても良いか?」
先日第二天空鎮守府のエントランスで会って以来、初めて顔を合わせた。
有馬から連絡が着ている事に羽染は気づいていたが、何も返す事が出来ないでいた。有馬に嘘をつきたくなかったからだ。
「できれば、外で話しがしたい。お腹が減った」
「そうか。じゃ羽染、その辺の店に行くか」
そう言う事になった。
二人で向かった先は、全席個室の、創作居酒屋だった。
豆腐料理と串焼きの盛り合わせを頼み、先に届いた麦酒のジョッキをあわせる。
「なぁ、有馬」
「ん?」
料理が運ばれてくるまでの僅かの間だけと、自分に念じながら、羽染は笑う。
「僕はお前の真っ直ぐな所が好きだ」
「なッ、なんだよ急に」
「好きなんだ。こんな風に人を好きになったのは、初めてだ」
「……俺もだ。俺も一緒。お前の事を、ずっと考えてる」
「ずっと? ちゃんと仕事中は仕事に集中した方が良い」
「してる。けどそれとこれは、別なんだ」
心なしか照れたような顔をした有馬を見て、羽染は小さく首を揺らしながら続ける。
「有馬、もし僕が道を踏み外したら、助けてくれるか?」
「お前は道を踏み外したりしないだろ」
「もしも、だ。その時は、有馬の手で、殺してくれないか」
冗談めかして羽染が告げると、有馬が手を止めた。
丁度その時、料理が運ばれてくる。
――これは、恐らく本音だ。
有馬はそう直感して、ぼんじりの串を手に取りながら、羽染の様子を伺った。
羽染は普段通りの姿で、静かに笑っている。
どうしようもないほど穏やかな顔をしていたから、有馬は串を持つ手が震えそうになった。
「分かった」
その時そう答えたのは、有馬なりの優しさだった。
――羽染には、それで十分だった。
「そうだ、有馬には兄弟がいるのか?」
「いない。俺は一人っ子だ。朝倉さんが、兄貴みたいなものだけどな」
「そうか。朝倉大佐には、妹さんがいるんだったな」
「ああ、桜か。来年、高校を卒業するんだったか」
「有馬に似合いの年頃だな」
「何言ってんだよ。嫉妬か?」
「だったらどうする?」
「嬉しい」
率直な有馬の言葉に破顔してから、羽染は続いて届いた豆腐を皿にとった。
「有馬、もし僕がいなくなったら、身を固めろ」
「なんだよ、急に」
「僕は有馬が幸せになるところを見たいんだ」
「今見てるだろ。俺は羽染とこうやって、食事が出来るだけで幸せだ」
「そうか」
「そうだ」
互いに睦言を交わしながら、笑う。
それぞれが気を使うでもなく、思い思いに食べ物を口にする。その一秒一秒が、どうしようもなく、羽染には幸せな時に思えた。失いたくないと、心が訴える。ずっと有馬の側にいたいと、そればかり考えるのだ。
――愛しているのだ、と。
羽染は伝えようとして、ただ笑った。
「なんで泣くんだよ」
「泣いてない」
自身の情動を自覚できない点が、羽染と保科のよく似た部分だった。
ボロボロと温水が伝う頬を自覚して、羽染は漸く、泣いている事に気がつくのだ。
「有馬、有難う」
「辛いんなら言えよ。何も出来ないけどな、側にいるくらいは俺だって――」
「有難う」
その様にして、夜は更けていった。
◇◆◇
「気をつけろよ、朝倉」
「何がだい?」
ベランダから室内へと戻り、山縣と朝倉は、ダイニングテーブルで向かい合っていた。
「もしも俺なら、このタイミングでお前を暗殺する」
「っ……つまり、羽染が行動を起こすとしたら、今って事?」
「ああ。羽染を副官にしたいと俺が思うのは、あいつと俺が似てるからだ」
山縣はそう言って、ラザニアにフォークを突き立てた。
それを見守りながら、朝倉は、視線を落として笑う。
「妹の安全が確保された以上、もう暗殺は決行されない――そう僕達が判断したと推測できるタイミングで、か」
「これ以上の機会は無いだろう?」
「なぁ、山縣。賭をしよう」
「賭?」
「ああ。僕が死ぬか、死なないか。僕が羽染に殺されるか、否かだ」
クスクスと笑みを零しながら、朝倉がとんでもない事を言う。
「良いぞ。俺は、そうだな。こっちに賭ける、つまり――……」
山縣の声は、静かに空気へと溶けていった。