【三十】果たせなかった約束
羽染は、朝倉の暗殺を決意した。
――決行は、今日だ。
本格的に冬が訪れたその日、帝都には初雪が降った。コートの上にマフラーを身に付け、手袋をはめ直しながら、羽染は朝倉の執務室へと向かった。本日も、鍵は空いている。
「おはよう、羽染」
「おはようございます」
微笑した羽染は、本日の予定を、朝倉の横に立ち、口で述べる。
今日の朝倉の日程では、正午手前の昼休み直前に、人気のない地下一階の訓練場を視察する事になっている。明後日、師団の演習で使用するからだ。
その時――つまり今、人気のない訓練場で、羽染と朝倉は二人きりだ。昨日下見をした羽染は、様々な用意を整えていた。午前中は普通に執務を行い、本日は早めに二人で昼食をとった。山縣や有馬の姿は無かった。視察のために、早く二階の有料食堂へと訪れたからだ。
羽染は最後の食事となるのだなと、漠然と考えながらその時を過ごした。
こうして食後、二人はエレベーターに乗り、地下一階へと向かった。
「明日丸一日あるから、掃除をすれば大丈夫そうだね」
朝倉が、訓練器具の上に積もったほこりを指でなぞりながら、言う。
「手配しておきます」
淡々と、努めていつも通りを装いながら応えた羽染は、刀の柄に手をかけた。
――チャンスは今、一瞬だ。
抜刀に気づかれる前に、斬りかかる。
唾液を嚥下しながら、羽染は古の映画のコマ送りのように進む視界を、しっかりと捉えていた。
実際の身長よりも、ずっと大きく見える朝倉の背中。
――本当は、何処までも着いていきたかった相手だ。
心底羽染は、朝倉を敬愛していた。有馬が朝倉に対して表現するような形とは異なるけれど、それでも確かに。上官と副官――そこには特別な絆が存在していたのは、間違いない。
「羽染、それと――」
朝倉が振り返った瞬間、鞘から抜いたままに、羽染は刀で斬り付けた。
天へと伸びる刃。
それを今度は、右上から左下へと振り切る。
肉を切り裂いたような、嫌な感触がした。
目を見開いている朝倉の体から、血が飛び散った。
頽れようとする朝倉の体を左腕で引き寄せ、右手で刀の切っ先を、胸へと突きつける。
後は刺して――絶命させるだけ。それだけだった。
◇◆◇
「よ、有馬」
山縣に声をかけられ、書類を運んでいる最中だった有馬が顔を上げる。資料庫へと、仕事の資料を戻しに行く所だった。部外秘の書類であり、特殊な紙に印刷されていた代物である。
「あれ、珍しいですね。こんな時間に会うなんて」
いつもは昼からしか姿を見ない山縣の顔に、有馬が首を捻る。
「何かあるんですか?」
急な仕事の最中だろうかと、有馬は足を止めた。総務と聞いても内容にピンとは来ないが、それ相応に山縣は忙しそうだと有馬は普段から思っていた。
「ちょっとお前に話がある」
「はぁ」
「お前さ、羽染が朝倉の暗殺を命令されてるって、知ってたか?」
「は?」
何でもない事であるように、いつも通りの口調で響いた山縣の声。
それに対し、あからさまに有馬が声を上げた。
「恐らく決行は今日だ。さっき、朝倉と羽染、二人で人気のない地下一階の訓練場へと向かったぞ」
有馬の手から、バサバサと書類が落ちていく。有馬は全身が冷たくなった気がしていた。
「なんで……」
「俺に止める権利はない、全ては羽染の選択だ」
「な、山縣さんは、朝倉さんの親友だろ!?」
「だからなんだ?」
「何で止めなかったんだよ。二人で、行かせたのか!?」
「――朝倉暗殺を、会津藩経由で実行させてるのは、俺だからな」
「!」
「親友なんかじゃねぇよ。本当は。いつかお前も言ってたよな? 『朝倉さんには山縣さんがいる』とかなんとか。そうだ、俺はあいつを愛してる。だから、手に入らないくらいなら――……俺の心をただ乱すだけの存在なら、いらねぇんだよ、もう」
その言葉に、有馬は山縣を突き飛ばして、走り出そうとした。
だが山縣が、彼の手首を取り、もう一方の手で、拳銃を突きつける。
「何処に行くつもりだ?」
「離せ、俺は、朝倉さんを――」
「行かせるか……なぁ、久坂ぁ」
山縣が名を呼ぶ。その時、今度は有馬が後頭部に冷たい感触を覚えた。
恐る恐る振り返れば、いつの間にかそこには、久坂歩が立っていた。
ピタリと頭部に銃口をあてがわれ、有馬は何度か瞬く。
「もう少し待って下さい、有馬大尉。すぐに終わります」
その声を聴いた瞬間、有馬は眼窩が熱くなった気がした。
――終わらせるものか。
それだけが、強い想いとなって、意識に上る。
昨日泣いていた羽染の顔を、有馬は思い出していた。なんとしてでも、愛しい相手を救わなければならない。道を踏み外させてはならない。ギリギリときつく有馬が、奥歯を噛みしめる。
有馬は気づくと、山縣に押さえられていた手首を動かし、逆にその手を掴み、投げ飛ばしていた。しかし、反動を上手く利用し、山縣は床へと着地する。
その瞬間、久坂が銃を撃った。
間一髪首を捻って交わした有馬は、頬から血が滴ることには構わず、久坂の腹部に膝を叩き込む。地に倒れた久坂の影から、山縣が足蹴をしかけた。それを両手を交差させ受け止めてから、有馬は抜刀する。振り下ろしたその刀と、山縣が構えていた拳銃が交差した。
「本当真っ直ぐなんだな、有馬は」
「羽染はそこが好きだって言ってくれました」
「まだ気づいてないのか? お前は利用されてたんだ」
「羽染は俺を利用したりしない。俺は山縣さんよりも、羽染を信じます」
「後で泣くなよ」
「泣きません。男は泣かない」
そう言いきり、有馬が強く刀を押すと、山縣が後ろに飛んだ。
その着地地点を見計らい、有馬が刀を横に薙ぐ。
「っ、これは……結構クるな」
「峰打ちです」
「……優しい奴は、最後には嫌われるぞ」
「兎に角俺は行きます」
腹部に手を添えている山縣の、首筋に刀の背を叩き込み、沈黙させる。
山縣が目を伏せたのを一瞥してから、無我夢中で有馬は走り始めた。
◇◆◇
「有馬はやっぱり腕が立つな」
「――いきなり、『暗殺』と聞いたら普通は驚きそうなものですけどね」
「予感があったんだろ。例えば、昨日の羽染との食事で」
「デートまで盗聴するって、趣味悪いですよ、山縣さん」
「有馬の軍服に盗聴器を仕込んだのは、お前だろ、久坂」
◇◆◇
有馬が訓練場へと駆けつけた時、羽染は血に濡れた朝倉を片手で抱いていた。
「羽染」
その光景に、思わず名を呼ぶ。
有馬の声は、明らかに震えていた。
緩慢な動作で視線を向けた羽染の白い頬は、返り血で濡れていた。
――誰の血だ? そんな事は明らかだった。
「朝倉さんを離せ!」
強い口調で有馬が言うと、羽染が何の感情も浮かべていない目で、抱えている朝倉を眺めた。羽染はゆっくりと、目を伏せ青ざめている朝倉の体を、床へと下ろす。
朝倉の体が床に着いた時には、既に有馬は走り出していた。
刀を抜き、両手で構える。
片手で刀を持っていた羽染もまた、もう一方の手を静かに添えた。
真っ直ぐ斬りかかった有馬の刀と、横にして受け止めた羽染の刀が、交わり高い音を立てる。
「なんでだよ、なんでこんな、こんな……ッ!」
「……始めからこれが目的で上京したようなものなんだ」
怒りに燃える瞳で目を細める有馬と、嘲笑を宿した羽染の瞳が正面からかち合う。
「だからって――、楽しくなかったのかよ!? 朝倉さんといて!!」
ギンと音を立てて刀を交わらせ、有馬が更に一歩踏み込むと、羽染が横に逸れた。
姿勢を変え、お互い刀を縦に構えて距離を取る。
何度か刀を交わし、それぞれが真剣な眼差しへと変わった。
二人が本気で刀を交わすのは、出会ったあの時――剣道新人戦以来の事だった。
有馬を突き動かすのは、やるせない怒りだった。朝倉を傷つけた、羽染の事が許せなかった。そして羽染にそんな事を強制した、この世界が何よりも許せない。
一方の羽染を動かすものは、純粋な歓喜だった。
最早自分に未来は無いのだと、羽染は悟っていた。なのだから、最後に本気で有馬と刀を交わす事が出来る幸運を、喜ばずにはいられないのだ。
「俺のこと好きだっていったのも嘘だったのか!?」
「本気だと思うのか?」
「あたりまえだろうが!!」
何度も角度を変え、刃を交え、互いに足運びに注意する。
「ふざけんな!!」
「有馬。これは、最初から決まっていた事だ。多分――運命みたいな名前をしているものなんだよ」
「運命は自分で切り開くもんだろ」
「それが出来ない人間もいる」
「そんなの立ち向かわずに逃げてる臆病者の言い訳だ」
「そうかもしれないな」
羽染はそう言うと、有馬の肩を切り裂いた。
「っ」
「今度こそは、本気を出せる。ずっと有馬と、真剣勝負をしたいと思っていた」
「ああ、俺もなッ、馬鹿野郎、何もこんな時に――」
「手を抜くなよ」
笑いながら羽染が、刀を前へ傾ける。少しだけ斜めに構えている有馬は、羽染を睨め付けた。どちらもそのまま動かない。
有馬のこめかみから、汗が伝う。
それが顎まで届き、首筋へと落ちようとした時、羽染が大きく踏み込んだ。
――隙だ。
有馬はそれよりも一歩早く、斜めに斬り付けた。
反射的な、本能的な行動だった――だが。
「……手を抜いたの、羽染じゃねぇかよ」
新人戦の時と同じだった。わざと羽染が作った隙に、有馬は誘われたのだ。
咄嗟に刀を捨て、駆け寄り羽染の体を抱き留める。
斜めに切り裂かれた衣服、その中央に走る紅い一筋の線。
噴水のように飛び出してくる血と、だらだらと服を汚していく、どす黒い紅。
「……殺してくれるんだろ? 僕が、道を踏み外したら」
「なっ」
「有馬、ごめん。だけど……僕は、有馬の手にかかって死にたかったんだ、どうしても」
「なんでだよ……っ、自分勝手すぎんだろうが!!」
「不思議と痛みは感じない……だけど、体が寒い」
冷や汗が浮かんでいる青白い顔で、羽染が無理をするように笑った。
思わず有馬が抱きしめる。
「いくらでも暖めてやるから」
「僕の事は、忘れ……っ、ぁ……」
「羽染!!」
「……忘れ、ろ……じきにお前には、縁談が……ッ」
「何言ってんだよ!!」
「たまに、でいい……僕の妹の見舞いに……は」
口から、ゴボっと羽染が血を吐き出した。
「救急車……」
「ああ、すぐに呼んでやる、だから、おい、しっかりしろ!! しっかりしろよ!! 頼むから、してくれよ!!」
「違……朝倉、大、佐の……っ」
「羽染!!」
「保科様に……謝って……――」
そのまま、羽染は意識を失った。
力が抜けていく愛しい人の体を、ただ呆然と有馬は見据えていたのだった。
◇◆◇
――以後。
有馬に訪れたのは、何も変わらない日常だった。
ただ、そこに羽染がいないだけの、そんな日々。
「いやぁ、俺本気で有馬に殺されるかと思ったわ」
山縣があっけらかんとした陽気な調子で、笑った。
朝倉の執務室の応接席。
いつか羽染が座っていたソファに腰を下ろし、山縣が肩を竦める。
「大体俺が、朝倉の事を好きだなんて言った時点で、おかしいと思えよ。俺はな、有馬をたきつけてやったんだよ。それが羽染の最後の願いだろうと思ったから」
山縣のそんな言葉に、執務机の前に座ったまま、朝倉が嘆息した。
「なんで、羽染は僕に止めささなかったんやろうな。確かに斬られたけど、あんな浅い傷――……実際には、気絶させられて、その上、鳥の血まみれにされたっていうね」
「まぁその惨状を見れば、勘違いするのは仕方ないよな。羽染が朝倉を殺したんだって」
「羽染も何を考えて、血糊なんか残したんやろ」
親しい間柄の者ばかりがいるせいか、朝倉は気づけば、自然体の方言混じりの口調で呟いていた。
「それほど、有馬を本気にさせたかったんか……あの場に有馬が駆けつけるのを、まるで知っていたみたいやけど」
二日ほど入院した朝倉は、今日から執務に復帰した。
その見舞いに訪れた山縣と有馬は、珈琲を飲んでいる。
朝倉の冷ややかな眼差しが自身に向いていることに気がつき、山縣が肩を竦めた。
「知ってたんだよ、羽染は。俺が有馬をたきつける事を」
「どうして?」
「久坂に盗聴器をつけてたんだ。お前にもだ、朝倉。その上俺にもだ。部屋や家じゃない。小物に忍ばせてたんだよ。てっきり神保が動いてたのかと思ったんだが、盗聴器を仕掛けてたのは、羽染だったんだ。当然やろうと思えば、傍受できたって事だ」
「なるほどな」
「羽染は、会津を大切に思っていた。妹がいた、ただ一人の家族がいる故郷が、アイツにとっては本当に故郷だったんだろうな。だからこそ保科様と会津藩の重鎮達の間で揺れたんだろう。どんなに好ましくない事であっても、羽染は裏切れなかったんだろう。裏切るくらいなら、命を賭けて償うほどに――そして結局お前にとどめを刺せないと理解していたから、自死を選んだんだろう。それも、愛する有馬の手による最後を」
山縣が語ると、正面に座っていた有馬が俯いた。
「ま、そんなに気にすんなよ有馬。お前は悪くない。お前が救急車を呼んだおかげで、そこの朝倉はぴんぴんしてるんだからな。恋人候補なんて、それこそ、星の数ほどいる。まだ若いんだから」
「……俺は、約束を守れなかった」
有馬が静かに呟く。
道を踏み外したら、殺してやると約束したのに、有馬は結局羽染にとどめを刺す事は出来なかった。
だからただ、後になって、搬送先で死亡した事だけを聞いたのだ。
有馬のそんな様子に、朝倉と山縣が顔を見合わせた。
「有馬――今、妹の桜が婚約者を探して居るんだ。見合いしてくれないかな」
話を変えるように朝倉がそう言うと、有馬が首を振った。
「俺には、羽染しかいない」
断言した有馬に対し、山縣が、苦笑を滲ませ、片目を細めた。
「――……だったら、羽染の妹の見舞いに行ってやれ」
「え?」
その声に、有馬が顔を上げる。
「亡くなったんじゃ……」
「生きてる。宮家や旧将軍家の齣にされないように、軍の目の届くところに引き取ったんだ。表向きは死んだ事にして」
有馬が立ち上がる。
「行ってきます。居場所を教えて下さい」
◇◆◇
有馬が病室の前に立つと、開け放たれている扉の奥に和装の少年の姿が見て取れた。
保科秋嗣だった。彼の前には、ベッドの上で身を起こしている、ピンク色のパジャマを着た少女の姿が見える。
「そうなんだ、秋ちゃん。じゃあ、お兄ちゃんは元気なのね?」
その言葉に、有馬の飲み込んだ酸素が、肺に張り付き、胸を痛めつけた。
どうしようもないやるせなさと罪悪感がこみ上げてくる。
「うん。だから小夜は、何も心配しなくて大丈夫」
「早く会いたいなぁ、いつ帰ってくるの?」
「暫くは無理かも知れない。でも、いつだって良親さんは、小夜の事を考えてるよ」
柔和に笑った保科の顔を見て、有馬は動けなくなった。
そのまま扉の脇にある壁に背を預け、天井を見上げる。
――恐らく羽染の妹は、兄の死を知らない。
いたたまれなくなって、俯きながら、唇を噛む。
羽染の妹は、どこか兄に似ていた。
「じゃあ、僕はもう行くね」
「うん。秋ちゃん――保科様、か。うん、頑張って。けど、あんまり無理しちゃ駄目だからね」
「……同じ事を、良親さんにも、よく言われたよ」
そう告げ、手を振ってから、保科が病室から出てきた。
保科と有馬は、扉が閉まった直後に顔を合わせた。
「有馬大尉、小夜の見舞いですか?」
すぐに気を取り直したように、小首を傾げ、保科が笑う。何処か悲しげな笑みだった。
「……そのつもりだったんですが、俺にはとても合わせる顔がない」
「そんな事は無いですよ。きっと小夜は喜びます。羽染の親友だって言ったら、きっと。まぁ、恋人って言うのは、伏せておいた方が良いかもしれませんけどね、今はまだ」
「いえ、出直します」
「そうですか。じゃあ、少し一緒に歩きませんか?」
保科の誘いに、有馬は頷いた。
揃って病院の外まで出て、庭を暫し散策する。
手頃なベンチを見つけた時、どちらとも無く腰を下ろした。
「――羽染の最後は、どんな風でした?」
保科が、意を決したように切り出した。
「保科様に謝って欲しいと、言っていました。お伝えするのが遅くなって……」
「そうですか……謝らなきゃならないのは、僕の方なのにな。本当、良親さんて自分勝手な所がありますよね。勝手に満足して納得して、死んじゃうんですもん」
明るい声で、保科が言った。
けれど彼が静かに涙を堪えている事に、有馬は気づいていた。
――ああ、羽染はもう居ない。
有馬がそう理解した日の事だった。