【終】宵の明星



 ――薄闇の中、羽染はうっすらと目を開いた。微睡んでいたのは初めだけで、すぐにハッとして目を見開く。

 畳の上に敷かれた布団の上に横たわっているのは自覚できたが、最初はそこがどこかなのかは羽染には分からなかった。慌てて身を起こすと、ズキズキと肩から脇腹までが斜めに痛みを訴える。

 それでも咳き込みながら体を起こすと、開け放たれている障子の向こう、庭の更に先の空に、宵の明星が見て取れた。アマツミカボシが輝いていると言う事は、今は夕方だ。太陽と双子の英雄であるだとか、何かと伝承がある金星の光に、羽染は何度か目を瞬いた。

 視線を下ろせば、左手の甲に、点滴の注射針が刺さっている。辺りを見回し、襖に描かれた虎の絵を見て取り、ああ見覚えがあるなと感じた。夜桜が、瞼の裏側に映った気がした。

「良かった、目が覚めたのか」

 その時、廊下を歩いてきた朝倉が、部屋の中を一瞥して、声を上げた。
 彼はそのまま中へと入ってくる。

「朝倉大佐殿……ご無事だったのですか」
「君が救急車を呼ぶように、有馬に言ってくれたんだろう?」
「……」
「有馬が嘆いていたよ。君にとどめを刺すことが出来なくて、約束を破ってしまったと。殺してやれなかったと、ね。愛しい人を手にかけるなんて、有馬には出来ないそうだ。羽染も残酷だね」

 そう言ってクスクスと朝倉が笑いながら、畳の上に腰を下ろした。羽染も上半身を起こす。包帯が腹部に巻かれていて、和装の下に覗いている。

「あの後、どうなりましたか?」
「羽染、良い報せと悪い報せ、どちらから聞きたい?」
「悪い報せから」
「君は死んだ。軍葬も藩葬も行われて、君の墓が会津にある。勿論、ここに君はいるから、それは表向きだ。君は一生、第二天空鎮守府の諜報部に飼われることになる」
「……処罰は、」
「死者を罰する事は出来ないからね。そもそも、僕だって生きているんだから」

 朝倉はそう口にして、悪戯っぽく笑った。

「次は良い報せだね。一つ、君の妹さんへの、臓器提供者が見つかったよ。拒絶反応は、現在の医学ならほぼ心配はいらないから、助かる可能性がかなり高い」
「っ」

 その言葉に、羽染は目を見開いた。

「提供してくれたのは、神聖プロイセンの方だ」
「そうですか……」
「神聖プロイセンといえば、丁度今、日本から派遣している外交官が帰国する事になっているから、新しい外交官を探している。君のお父様は外交官だったそうだね、独逸語が堪能な。羽染もペラペラなんだって? 羨ましいな。元々外交官になるのが夢だったんだってね。知らなかったよ。そう言うわけだから、怪我が治り次第、元老院議員選出の特使と共に、渡欧してもらう。外交官として――日本国のスパイ、諜報部の軍人として、ね」
「!」

 その言葉を上手く咀嚼できず、羽染は瞠目した。

「諜報部に飼われるって言うのは、要するに、諜報部所属の軍人になるって事だよ。心配しなくて良い、あれで山縣は頼りになる。これからは、君には違う人間として生きてもらう事になる」
「ですが、僕は……」
「もう済んだ話だ。これから忙しくなる」
「……」
「君にもすぐに色々分かるだろう――……残念だけど、羽染はもう、表だっては好きな人とは会えない。それは覚悟して貰えるかな」

 羽染は静かに頷いた。
 妹の事や、保科の事、そして何より有馬の事が、羽染の脳裏を過ぎっていく。

「――だけど有馬は、いつまでも君の事を待っているみたいだ。妹との縁談、断られてしまったよ」

 その言葉に、気がつくと、羽染はぎゅっと掛け布団のカバーを握りしめていた。

「羽染の事を愛しているんだって」

 気づくと羽染は、嗚咽を堪えきれなくなっていた。
 目をきつく伏せると、眦から透明な雫がこぼれ落ちる。

「愛は、消えないものなんだね」

 その夜、朝倉が去った後、一人静かに羽染は泣いた。

 以前この部屋で過ごした、花見の帰りの日の事や、有馬と過ごした二人きりの時の事が、ありありと思い出されたのだった。


 ◇◆◇


 独逸に旅立つことになったのは、晩秋の事だった。
 国際線のエアポートで、夕日を見据えながら、羽染は佇んでいた。
 ここで副外交官と、特使と待ち合わせているのである。

「何を見ているんですか?」

 不意に声をかけられ、羽染は息を飲んだ。
 聞き覚えのある、懐かしい声が響いたからだ。

 おずおずと振り返ると、すぐ隣で、先ほどまでの羽染同様、外を眺めている少年の顔がそこにはあった。少しだけ、背が伸びていた。

「保科様」
「訃報を聞いた時は、心臓が止まるかと思いました。何で生きてるって、もっと早くに連絡をくれなかったんですか? しかも直接は一度も無いなんて。酷いです。僕の心配を返して下さい」
「何故ここに?」
「僕が特使だって聞いてないんですか?」
「そう、ですか」

 もう二度と会えないと思っていた、ただ一人自身が定めた君主の姿に、羽染はくしゃくしゃの笑顔を浮かべた。

「保科様……お会いしたかったです」
「僕もです。小夜も会いたがってます」
「だけど、もう会えないんだ」
「今じゃ違う戸籍なんでしょう? 何の問題も無いです。変な所を気にしすぎ何ですよ、いつもいつも。ただ、会いたいだけだったんだ僕……っ、ああもう、本当、色々と僕のせいだし――しかも何で遺言で謝るんですか。止めて下さいよ」

 口早に言いながら、いつの間にか、保科が涙声になった。

「家時公や宮様とはどうなったんですか?」
「聞いて下さいよ、本当。話したい事、沢山あるんです」

 泣きながら怒っている保科の顔を見て、何度か羽染は頷いた。

「ちょ、俺だけのけものすか?」

 そこへ明るい声がかかった。
 羽染と保科が揃って振り返ると、笑っている神保の姿があった。にこやかに手を振っている。

「ええと、初めましてとか言った方が良いですか? 副外交官に任命された、会津藩の神保皐月です。独逸語は苦手です!」
「料理人の道は諦めたのか?」
「あきらめてません! ブルストの作り方吸収してきます」

 神保のそんな言葉に、二人が吹き出した。


 ◇◆◇


 有馬は始め、幻覚かと思った。

 空港での要人護衛を唐突に命じられた有馬は、窓の前で、笑っている愛しい顔を見つけた。
 信じられない思いで、目を見開く。

「羽染……?」

 ――どうしようもなく懐かしくて、愛しすぎて、決して忘れられぬ声が、己の名前を呼んだ気がして、羽染が顔を上げる。その時羽染と有馬の視線が重なった。

 まるで悠久の時が過ぎるかのような、沈黙が、二人の間に横たわる。
 けれど、我慢できずにそれを破ったのは、有馬だった。

「羽染!」

 走り寄った有馬に対し、虚を突かれて羽染が硬直する。

「どうしてここに……?」
「山縣さんに命令された」

 そんな二人の様子に、保科が嘆息する。

「先に行ってます」
「あ」

 視線を戻した羽染の前を、神保を引きずりながら保科が歩いていく。
 それを見送ってから、改めて羽染は、有馬を見た。

「……久しぶり」
「……おぅ。生きてたんだな」
「……」
「何で連絡よこさないんだよ、ありえねぇ!!」

 有馬が叫んだ。
 目が赤い、鼻をすすっている。

「馬鹿野郎!! どれだけ、どれだけ俺が、後悔したと思って……っ……」
「有馬……」
「なんだよ」
「……有馬、ごめん」

 謝罪を繰り返した羽染の手を、有馬が握って持ち上げた。

「何に対してだよ!? 別れることだとか言ったら、許さないからな!!」
「まだ……僕の恋人でいてくれるのか?」
「あたりまえだろ、本気で別れたいと思った時しか、そう言うことを俺は口にしないんだよ!!」

 有馬はそう叫ぶように言うと、羽染を抱きしめた。
 その熱い胸板に、力強い腕の感触に、懐かしさと愛おしさがこみ上げてきて、羽染は有馬の肩に顔を押し付けた。

「有馬、会いたかったっ、自分勝手だけど僕は、有馬に、ずっと会いたくて」
「だったら何で会いに来ないんだよ!?」
「でももう僕は、僕は、会っちゃ駄目なんだ、それに朝倉大佐殿の事を――」
「朝倉さんは無事だろ、それで良いじゃないか。それに、どこの誰が、恋人同士が会うのを禁止したんだよ!!」
「有馬ッ」
「何でよりにもよって、お前が日本離れる日に……特使の保科様と、副外交官の神保といるって事は、そう言うことなんだろ? お前が俺の警護対象か!」
「うん……っ、多分な」
「羽染」

 短く名前を呼ぶと、有馬は羽染の唇を貪った。
 深々と口づけられ、有馬の舌に中を蹂躙され、羽染は震える。
 全身が歓喜を訴えていた。
 息苦しかったが、それが何に由来するのか、羽染には分からない。
 ――好きすぎて、苦しい。
 それが一番だったのかもしれない。
 それからゆっくりと、互いに名残惜しみながら唇を離す。

「――羽染。ちょっと待ってろ」

 有馬はそう告げ、携帯電話を取り出すと、電話をかけ始めた。

「あ、山縣さん? やっぱり俺、一週間の外交官の護衛引き受けます」

 それだけ短く言うと、一方的に有馬が通話を切った。

「これで、しばらくは一緒にいられるな。本当山縣さんて性格悪い。なんで、羽染がいるって事前に教えてくれないんだよ。全く」
「有馬……これは、僕が勝手に暗殺を遂行し――」
「お前が生きてるんだから、済んだ事はどうでも良い。お前は理由無く人殺しなんかしないし、実際朝倉さんは生きてるんだしな。それを言うなら、俺こそ……」
「違う、違う、そんなんじゃない、有馬は、有馬は――」
「もうこの話は止めよう。行きの飛行機の中までの護衛は最初から引き受けてたから、チケットはある。続きはゆっくり、空の上で」

 その時も、奇遇にも二人を見守るように、宵の明星が輝いていた。

 けれど有馬にとってのアマツミカボシは、羽染だけだ。
 そして羽染にとっての太陽は、紛れもなく有馬だ。

 二人は寄り添い、共に輝く、英雄だった。

 ――宵の明星が見ているだけだった。






【了】