【五】白い鴉と黒い鴉


 暗殺事件の翌年、快癒した羽染良親は、別の国籍を得て、外交官となった。それが彼本来の夢でもあったらしい。見送った朝倉は、再び一人暮らしとなっていた。現在の副官は羽染ではなく、有馬だ。無事に、有馬にも羽染の生存は伝えられた。

 これは、そんなある日の事である。有馬が出張だった為、一人きりの執務室において、朝倉は溜息をついていた。

 ああ――全身が気だるく肩が重い。

 ピタリと壁に体を預ければ、その冷ややかな温度に体中が引き寄せられて、全ての気力を奪われていく気がした。執務机の前に座り、冷めた珈琲の入るカップを眺める。

 何もしたくない。
 嫌、それとは少し違う。

 ただ何事も億劫なだけで、やろうと思う気力はあるのだ。
 体を起こして今度は椅子に座り、背もたれに全体重を預ける。ギシギシと軋んだ音がした。
 結局仕事をする気は起きなくて、その日朝倉は早退した。


 忌々しいほどの日差しの中、自宅の縁側に座りぼんやりと鴉を眺める。
 呼び鈴が鳴ったのはその時のことだった。
 視線を玄関の方へと向けると、朝倉が出るのを待つでもなく、合い鍵を持っている山縣が、中に入ってきて庭へとやってきた。

「なんだ、元気そうだな」
「元気ではないよ。体調が悪いわけではないけれどね」
「見舞いに来て損をしたかと思った」

 紙袋を抱えていた山縣は、そこからのぞくワインの瓶を一瞥した。

 外をまわる用事があったから、朝倉の好きな白ワインを買ってきたのだ。山縣が座る場所を空けた朝倉は、手を伸ばしてチェス盤を引き寄せる。会話に頭を使う気力が無かった。そんな朝倉の様子を一瞥して、特に何を言うでもなく山縣は素直に座った。それから二人で駒を並べていく。

「ねぇ、山縣。どうして人は、思った通りには生きられないんだと思う?」

 朝倉の問いかけが急で奇怪なものである事は少なくない。
 その分心を開いてもらっているのだろうと判断して、山縣は黒のポーンを握りながら思案する。逆に言えば、思い通りに生きられる人がどれだけいるというのだろう。それも朝倉ほど、地位も名声も手に入れた人間でも持ち得ないような軌跡を歩んできた存在など、人間同士を比較する事は出来ないとした所で、なかなか想像がつかない。

「まあ、思い描いた事なんか忘れて、今そのものを、最初から想定していた事にでもして生きていけば、ある意味思った通りに生きているという事になるんじゃないか」

 ワイングラスを差し出されたので、コルクを引き抜きながら答える。
 そもそも解答なんか存在しないし、朝倉も納得できる解答など探していないのだろうと思った。

「山縣はそうやって生きているのかい?」
「どうだろうな。ちなみに――どんな風に生きたいんだ?」
「君と朝寝がしてみたい」
「昼寝でもしてろ」

 山縣は適当に答えて、ワイングラスを手に取った。白ワインを飲むのは久しぶりだった。
 つれない山縣の答えに朝倉が苦笑する。そうしながら灰皿をたぐり寄せて、山縣の側に置いた。目で礼を告げて煙草を銜え、山縣は黒のポーンを動かす。後攻だ。朝倉と勝負をする時は、大抵山縣が黒い駒を操っている。

「羽染は元気かな?」
「今頃新西蘭にいるぞ」
「有馬が明日から休暇を取っているのは、やっぱり合流すると言う事なのか」
「だろうな。全く羨ましい。朝倉も余計な事を考えなくて良いくらい、狂うような恋に堕ちてみたらどうだ」
「誰と?」
「その辺にいるだろう、沢山お前のファンは」

 くだらないし疲れたなと思いながら、朝倉は白のルークを眺めた。
 ――恋、か。
 やはり今でも思い出すのは、山縣と二人観覧車に乗った時の事だ。

 自分の思い上がりに恥ずかしくなってくる。山縣に告白されると信じきっていた。
 ただ今でも思う――……もしそうなっていたならば?

「山縣は恋をしないのかい?」
「恋ねぇ。別にしないつもりはないんだぞ、これでも」
「仕事に恋人を巻き込むのが怖いんだろう?」
「だったら今頃、同業者を捕まえてるさ。金髪の巨乳が望ましいな」
「チェックメイト」

 山縣が舌打ちした。たったの数手で負けた。朝倉はゲームに強い。
 それは現実の戦争においてもだ。
 未だに朝倉が指揮した部隊は無敗だ。
 どんな暗闇に放り込まれても、常に朝の光のもとに舞い戻ってくるようだ。

 闇の中に息を潜めて、それを見ているような影じみた諜報部に在籍していると、山縣は朝倉でも迷うことがあるのかと時に失礼かもしれないが思う。

 朝倉は山縣がそんなことを考えているなんて知らない。ただ山縣をはじめとした大切な人が、笑ってくれていればそれで良いと思う事が、時折ある程度だ。だがそのためならば、三千世界の鴉をも殺してしまえるだろうほどの激情を孕んだ身の内を思い、時に身が竦む。

「君がいなきゃ、あるいは何も考えなかったかもしれないのにな」
「何の話だ、朝倉?」
「僕はとうに軍を辞めていたかもしれない」
「――本気なら、今からでも遅くないし、今からならば早期退職といえない事も無いんじゃないか?」
「僕が軍を辞めたらもう山縣とこうして酒を飲む事もなくなるのか」
「それはないんじゃないか。俺は飲みたい時はお前の所にちゃんと行くぞ」

 駒を並べ直し始めた山縣の言葉に、朝倉は微笑した。
 いつも山縣は安定していて変わらない。
 勿論それが錯覚だとは分かっているが、山縣の笑顔を見ていると落ち着く己が確かにいる事を朝倉は否定できなかった。

「朝倉がどこに姿を消しても、探し当てるくらいの実力はあるつもりだからなァ」
「諜報部の少将様にそう言われて、逃げ通せる者なんているのかい?」
「いないと思いたいな。ま、白い鴉を見つけるよりは楽かもしれないけどな」

 白ワインの香りを楽しんでから、朝倉がグラスを傾けた。

「山縣に追われるために、姿を消すのも悪くはないな」
「趣味は悪いけどな」
「なぁ山縣、空を見てみて」
「空?」
「今一緒に眺めたら、もし僕が消えた時、空を見る度に僕を思い出すんじゃないかと思ってね」
「仕事じゃなけりゃ、すぐに忘れる」
「探し当ててくれるんじゃなかったのかい?」
「ああ、そうだった」
「結局僕を追いかけてはくれるのかい?」
「賭けるか?」

 そんなやりとりをしてから、再びチェスの駒を手に取る。
 なんて言うことはない、初夏の午後のある日。
 見上げた空は綺麗で、そこを一羽の鴉が横切っていったのだった。