【番外】白南風
――現在僕は、身請けされ、雨宮様と一緒に朝ご飯を食べる毎日を過ごしている。
そして今日僕の目の前には、トーストがある。チーズののったトーストが。思わず過ぎった過去の思いに、僕は赤面した。チーズの気持ちが分かるって、当時の僕は一体何を考えていたのだ……!
恥ずかしくて、とてもお腹が減っているのに、パンに手が伸ばせない。
「紫陽は、こういう食べ方は嫌いかな? 塗る方が良い?」
「いえ……」
そういうことではない、そういうことではないのだ。
僕はそもそも洋食をあまり食べたことがなかったから、塗るのだって食べてはみたいのだが……なんというか。
「どうかしたの紫陽。顔が赤いよ?」
すると心配そうに口にした雨宮様が立ち上がり、僕の所へ歩み寄ってきた。
ピトリと額に触れられて、羞恥で僕は俯いた。
「ち、違うんです」
「じゃあ、どうしたの?」
周囲にはお手伝いさんがいたので、僕は雨宮様の腕をつかんで引き寄せた。
そして耳元で告げた。小さな小さな声で、チーズの気持ちが分かることを告げたのだ。
すると虚をつかれたような顔をした後、雨宮様が声を上げて笑い始めた。
さらに恥ずかしくなってしまって、両手で顔を覆う。
「可愛いなぁ紫陽は」
「っ」
馬鹿にされている。この言葉は馬鹿にされていると思うのだ。
雨宮様は僕の頬を撫でながら、ニコニコ……というよりもなんだかニヤニヤと笑っていた。酷い。
「じゃあ俺が食べさせてあげるよ」
「え」
「はい、あーん」
パンを差し出されたので、僕は思わずかぶりついてしまった。ホテルブレッドに僕の歯形がついた。何でここはホテルじゃないのにホテルブレッドというのだろう。チーズののったトーストは美味しかった。
それから食事が終わり、今日は雨宮様のお仕事がお休みなので、二人でリビングに移動した。洋室だ。僕の怪我が治ってから、三つ目に建ったお屋敷である。この館には、和室は二つしかない。神棚があるお部屋と、仏壇があるお部屋だ。吉原では和室にしか馴染みがなかったから、いまだに戸惑うことが多い。
吉原で、特に東屋で洋室と言ったら、一番目立っていたものはそれこそお手洗いだ。
なんだかそう考えていくと、吉原が懐かしい。
僕は雨宮様に貰った打掛を、もう長いこと来ていないなと思い出した。
相変わらず普段は和服を着ていることが多いが(洋服を着たことは数えるほどしかないが)、さすがに打掛は着ない。
「どうかしたの、難しい顔をして」
「雨宮様にいただいた打掛のことを思い出していて」
「ああ……久しぶりに、君が着ているところをみたいな」
「僕も着たいです」
「うーん。悩むな」
「雨宮様?」
三つあったからどれにするか悩んでいると言うことだろうか?
「紫陽がまた俺以外の誰かに買われそうになっているなんて考えにとりつかれそうになって心臓に悪いんだよね」
「?」
「紫陽、どこにもいかないでね」
「行きません! ずっとおそばにいさせて下さい!」
それこそ望むところだった。
――その日の夜は、久しぶりに打掛を着た。
「あ、ああっんあ、あ……ひぅ」
「綺麗すぎて嫌だな、なんだか」
「あ、あ、もっとっ……ッ……んぅ」
いつもよりも雨宮様が激しくて、僕は首にしっかりと両腕を回した。
すると首筋に口づけられて、体がしなった。
「ああっ、は、ン……あ、あ、動いてッ」
「勿論」
「ンあ――――!! あ、あンあ」
「紫陽きつい、ちょっと力を抜いて」
「で、できなッ……あ――――!!」
片手で胸の突起を弄られながら、下から突き上げられる。その感触だけで僕は果ててしまいそうだった。どうして雨宮様はいつも余裕なんだろうと思った。
――違う、余裕そうに、見えるだけだ。だって今日はこんなにも激しい。体と体が交わる音が、静かな室内にこだましていく。
「ん、あ、ア――――!! やぁああ!!」
「ッ、出すよ、紫陽」
「あ、あああ!!」
僕もまた精を放ち、ぐったりとした。すると、いつかのように、雨宮様がギュッと抱きしめてくれた。まだ繋がったままだが、そのせいかもしれないが、不思議と満ちあふれたような気持ちになった。なんなのだろう、この気持ちは。
二人きりのこの部屋では、この館では、そして今では二人で歩むこの世界では、もうなんだってしてもいいのだ。そう思うと、自然と頬が持ち上がった。
「ねぇ、紫陽。本当にずっと一緒にいてくれる?」
「はい。雨宮様こそ、僕とちゃんとずっと一緒にいてくれますか?」
「うん」
「約束ですよ。じゃないと僕、蕩けて無くなっちゃいます」
「それは困るな。無くなる時は、俺に食べられた時だけにしてもらえるかな。いや、食べても食べてもなくならない紫陽でいて欲しいけどね」
そんなやりとりをしてから、二人で同じベッドで眠った。そんな毎日が幸せだった。
雨宮様のお薬で、吃驚するほど僕の傷は良くなった。
消えてしまったのだ! 世の中ってすごい。僕の知らないことが沢山ある。ううん、雨宮様がきっとすごいんだと思う。
「紫陽、おいで」
雨宮様が書斎で僕のことを呼んだ。本棚の前に立っていた僕が振り返って歩み寄ると、ギュッと抱きしめてくれた。クーラーがガンガン効いているけど、雨宮様の腕の中は温かい。僕は雨宮様の体温が好きだ。
「何を読んでいたの?」
「タイトルを見てただけです!」
「なんて言う本?」
「A-Bという本です!」
「……英和辞典だね。それは本と言うか……うん。紫陽は好奇心旺盛なんだね」
雨宮様はそう言って何故か苦笑すると、僕の頭を撫でてくれた。
僕だって英和辞典なら知っている。ただあんなに巨大な本が何冊もあることは知らなかったのだ。図鑑かと思っていた。
「紫陽は英語に興味があるの?」
「無いです!」
だが残念なことに、僕は語学があまり好きではない。勿論『東屋』には異国のお客様も多かったから、簡単な日常会話ならば僕も少しは出来る。しかし実際に使ったことは、僕にはない。雨宮様しかお客様がいなかったのだから!
「英語は嫌い?」
「嫌いじゃないけど、日本語が一番好きです。ただ……」
「ただ?」
「沢山の人とお話が出来るのは、格好いいですよね。楽しそう」
「……俺とばかり話しているのは退屈かな?」
「まさか! すごく嬉しいです」
「それは本当?」
「はい!」
雨宮様はおかしな事を聞く。僕は雨宮様が一緒にいてくれたら、それが一番幸せなんだけどな。首を傾げて雨宮様を見ると、不意に喉で笑われた。
「露瑛さん――天堂元楼主に会いに行ってみようかと思っていたんだけど、俺と一緒にいれられれば良いんなら行かなくても良いかな」
「え」
それとこれとは話が違う。そう思って息を飲んだ。すると吹き出すように笑われた。
「坂本社長が是非にって仰っててね」
「坂本社長……?」
「少なくとも俺の財界での数少ない親しい相手なんだけど。俺は、それ以上のことは何も知らないけれどね」
知らない、と、言った時、雨宮様が天井を仰いだ。こういうお顔の時は、本当はちょっとは何かを知っているというような、嘘とも本当ともつかない……そう、そうだ、黙秘の時だ。僕も難しい言葉を覚えたな。
「紫陽が危ない目にあったら嫌だな」
「坂本社長という方は、危ない人なんですか?」
「露瑛さんを手に入れちゃうくらいには積極的だよ」
雨宮様が楼主様を呼ぶ名が変わっている。多分、僕の知らないところでお会いしているのだろう。僕だって会いたい。楼主様が引退した事も、僕は雨宮様から聞いた。
「雨宮様が一緒なら僕は平気です! でも雨宮様がいきたくないんなら行きません!」
「――良いの? 折角会える機会なのに」
「代わりに楼主様とお会いしたら、沢山そのお話を聞かせて下さい」
「俺と露瑛さんが会ってるって分かるんだから、紫陽は案外鋭いね」
ギュッとまた、雨宮様が抱きしめてくれた。触れる髪がくすぐったくて、僕は照れた。
雨宮様と一緒だと、僕は未だに照れてしまうのだ。
「やっぱり一緒に行こうか」
「良いんですか?」
「いつも惚気られているからね」
「の、惚気?」
「俺達も思う存分惚気ても良いかも知れないね」
そう言って笑った雨宮様は、すごくすごく格好良くて。
僕はやっぱり雨宮様のことが大好きだと思った。
「紫陽のことは、俺が守るから」