【番外】露涼し ―― 雨宮 ――
涼しくなってきた夏の午後、青い草を踏む紫陽を見る。
木陰の下に立つその姿は、あんまりにも華奢で折れてしまいそうで心配になる。
世を儚んでいるような表情に見える。
有り体だが、綺麗という以外の言葉が見つからない。
世を憂うような白磁の頬、大きな黒い瞳。紛れもなく黒いのだが、紫陽花という名前のせいなのか、青や紫の印象を与える。まるで作り物のように端正で、それは指先までもの全てがそうなのだ。気圧されてしまう者が多いのも知っている。
最初に会った時に、一目見たその時にはもう目を惹き付けられて離せなかったものだ。
本当に身請けさせてもらえて良かったと思う。
――懐かしいな。
もう一年近くになると言うのに、こうして庭にいる紫陽を不意に見た時になど、今でも地に足が縫いつけられてしまう。ああ、淡い色の着物など贈るのではなかったな。あまりにも儚く見えて、どこかにさらわれて消えてしまいそうに感じられた。
紫陽と最初にあった日は、雨が降っていた。
はじめはただ俺は、仕事で接待を受けた帰りで歩いていたのだ。特にどこかで遊ぶつもりもなかった。むしろ俺は、接待以外では第三吉原に近寄りたいともあまり思っていなかった。
何故わざわざ疲れた後に、さらに睦言のやりとりをして気疲れしなければならないのか、率直に言って面倒だと思っていた。だから足を止めたのは偶然だ。傘のせいで人混みの流れがゆったりだったから、周囲のざわめき声が耳に入ってきたのだ。
「今日も一人で咲いてるな」
「あそこまで綺麗に咲かれると、かごの中に飾っておくのが一番って感じだな」
「馬鹿。どうせ誰が声をかけたって袖を振られる」
誰の話だろうかと周囲を見回し、俺は息を飲んだ。
うつむきがちに一人の青年が、赤い着物の上に緑色の打掛をはおって座っていたからだ。側に置いてある椅子の上の鏡越しに、その表情をよく見れば、なるほど綺麗としか言いようがなかった。何を考えているのか分からない無表情だったが、ただどうしようもなく悲しげに見える。そう言う表情に作られた人形のようだった。いや、作り物よりも端正だった。
しばしの間見惚れていると目があったので、反射的に笑顔を取り繕った。だがすぐに青年はまた俯いてしまった。流れるような綺麗な髪が揺れている。触れたら柔らかいのだろうなと思った。
それから二度店へと通い話すところまでこぎ着けた。
冷たいだろうなと思っていたら、必死に話している姿に、急に幼さを感じた。
大人的な美を誇っていたが、頑張って話をするその姿は実に愛らしく、思わず虐めたくなってしまうほどだった。試しに、もう来ないと、そう伝えてみた時の、あの顔といったら今でも頭に焼き付いて離れない。目を見開いて、短く息を飲んで、どうしようもなく悲しそうな顔をされたのだ。その表情が、瞼の裏に焼き付いて離れなくなってしまった。多分そのころから、俺は堕ち絡め取られ始めていたのだろう。
分かってはいた。
場所は第三吉原だ。
恋を、一夜限りの恋を、売買する場所なのだ。
「雨宮様のことが好きです」
紫陽は俺が店に通う内によく笑うようになった。いつもその頬に触れたくなってしまう。だがそうしたら壊れてしまいそうで怖かった。
偽りの言葉だと言うことも重々承知をしていた。
――どうしたら気が惹ける?
そんなことを、接客業をしている相手に考えるのは、生まれて初めてのことだった。
分かっていたのだ。本気で恋をするのは無粋で、したふりをする事こそが粋なのだと。だから、紫陽の前ではせめて、粋でいたいと思った。
それにしても、紫陽には欲が無かった。
酒をねだられることはおろか、食事をねだられることもなく、着物を始め贈り物を望まれたこともなかった。他の客に貰っているのだろうか。そう思えば、苛立ちが募る。
だなんて他の客のことまで気にし始めた頃には、自分は末期的だなと自覚した。
紫陽を自分だけのものにしたいと思った。
こんな独占欲は初めてだった。
そう気づいた頃には、夜ごと東屋に通うようになっていた。
紫陽は、話してこそ甘い毒のある花だった。俺との宴の席で、そして腕の中だけで表情豊かになる紫陽を知ってしまうと、格子に一人孤独に咲いている時の紫陽とのギャップを見てしまうと、もう駄目だった。頬を持ち上げ、唇の両端で小さく弧を描く紫陽の表情は、艶っぽくて可愛らしくて、なのに綺麗で――……もっともっと様々な表情を見てみたいと、どうしても思ってしまった。
後は言動が思いの外幼いのだ。品がないと言うことではない。断言してこれは愛故に言うのだが、馬鹿なのだ。いつも必死に何かを考えている様子なのだが、大抵の場合から回っている。時に深刻そうな顔で何かを思案しているなと思って話してみれば、口から出てくるのは四十八手だったりSMだったりと、少々抜けている上にこちらの理性を揺さぶってくる。そんな紫陽は、俺のことをそれでもそれなりに思ってくれているのだろう。
当然接客なのだろうと判断しておく方が後で違った時にダメージが減るから接客だと割り切りつつも、俺は、俺のために増えていくてるてる坊主を見るのが嬉しくて仕方がない。
俺以外の客が見たらなんて言うのかと思っていたら、俺以外の客などいないというのだから、なんていじらしいのだろうかと思ってしまった。俺しか客がいないから俺を好きだというのかもしれない、それでも良かった。確かに紫陽ほど綺麗ならば、近寄りがたくてなかなか初会に踏み切れる客がいないのは分かる。だが、一言話をすれば、虜になってしまうのは間違いがない気がした。
ある日苛立つことがあった。取引先の古狸が、菖蒲の宴で俺が紫陽花を連れていたのをどこで見ていたのか、『抱きたい』と口にしたのだ。
俺は私情を仕事には挟まない。だが、『一晩貸してもらえないか。なんなら今からでも店に行こうかと思うんだが』なんて言われた時、我ながら表情が強張ってしまった。
その時俺は何も言わなかった。「どうぞ。ご自由に」くらい言うべきだっただろう。そして客が増えれば紫陽にとっては良いことなのかもしれない。けれど俺は何も言えなかった。言う気も起きなかった。珍しく怒りという感情を抑えることに苦労した。それでも俺は笑っていたはずだった。
「じょ、冗談ですよ」
取引相手の声で俺は我に返った。相手の顔が引きつっていた。後で部下に聞いたが、俺はよほど怖い笑顔を浮かべて古狸を見ていたらしい。商談自体は美味くまとまったのだが、結局その日はずっと俺は苛立っていたようだった。早く紫陽に会って癒されたいと思ったのだが、そんな日に限って紫陽は、なにやらお品書きを眺めて上の空だった。
結局その日、俺は紫陽の顔をおそらくまともに見ていることは出来なかった。
自分が一体誰にどんな想像をされているのかも知らないで、気楽な顔をして笑っている姿に、八つ当たりなのは分かっていたが苛立ってしまったのだ。
自己嫌悪に襲われた。勿論仕事が大詰めで忙しかったのもあるが、俺は紫陽に会いに行けなかった。紫陽は俺を好きだと言ってくれるが、それは紫陽の仕事なのだ。紫陽の言葉を信じないわけではない。
今ではあんなにもまっすぐな性格が偽りのものだとは思えないし、仮にそうであっても、それならば騙されても良いとすら思っていた。もう粋でなんていられない。俺は紫陽に、狂いそうになるほど恋いこがれていた。
紫陽は、自分の美しさに気づいていないと俺は思う。
その日は、また増えたてるてる坊主を眺めた。眺めながら、思わず微笑してしまうのは、本当は中身が可愛いと知ったからだ。
「雨宮様は、今日はいつもよりも静かですね!」
「そうかな。紫陽に見とれていたんだよ」
「この打掛本当に綺麗ですもんね」
そういうことじゃなかったのだけれど、実際によく似合っているなと思う。
贈って良かった。
帯をほどいてしまいたくなる衝動だけはどうしようもないのだが。
紫陽を見ていると、雨に濡れた紫陽花の花を連想する。
手折りたいわけじゃない。
愛でていたい、とも少し違う。
惹きつけられて目が離せなくなるのだ。
時折はにかむように微笑まれたりしたら、すでに限界だ。
もちろん外見だけが好きだというわけじゃないが、すぐにでもこの華奢な体を抱きしめたい衝動にかられる。だけどあまり力を込めたら折れてしまいそうで怖い。
――まさか、男娼に恋い焦がれる日が来るとは思わなかった。
けれど冗談交じりにしか愛の言葉など囁けないからひどくもどかしい。
外見だけならば凛としていて氷のようなのに、たまに褒めてみればひどく恥ずかしそうにする。それは決して顔に出ているわけじゃないのだが、もう慣れ親しんだと俺は思っているから、雰囲気でわかる。
「なんだか今日の雨宮様のお顔は優しいですね!」
「それはいつもは冷たいという意味?」
「そうゃなくて、笑顔が意地悪くなさそう」
「いつもは意地悪なんだ」
「それは、その……」
紫陽は正直だ。それに思わず笑ってしまう。そんなところも好きだった。
日々の生活で古狸ばかりを相手にしているせいなのか素直で裏表のない紫陽といると大変落ち着く。
「紫陽、おいで」
「……はい!」
俺は布団の上に紫陽を呼び結局抱きしめた。
小さく息を飲んでいるのがわかる。
ああ、俺は紫陽には一体どう思われているんだろう。
――ただの客。
それが一番真っ当な答えだ。俺は一体何を期待している?
自分とは異なる温かい体温に、僕は目を伏せ、その肩の上に顎を置いた。
腕を離して紫陽の手をぎゅっと握る。
ああ、いつかこの俺の思いを伝えられる日は来るのだろうか。
俺は紫陽を、愛してる。
ただもう口に出さなくても伝わっている気がするのだ。
俺にできることはといえば、毎日ここに足を運ぶことくらいだけど、毎日来ている時点で入れあげていると伝わっているのは間違いがない。
――ただ、紫陽は鈍い。
俺が一晩中紫陽と過ごすために、他の客を基本的に蹴散らすために、どれだけの労力と手回し、費用を払っているかも知らないだろう。そこまでする俺も俺だけど。
ただ一人だけ阻止できない客がいる。
よりにもよって紫陽が以前好きだったという噂の客だ。
そんな日は嫉妬で気が狂いそうになる。
「紫陽は俺のことが好き?」
「大好きです!」
正直そんな言葉だけでも、たとえそれが営業だろうとも構わなかった。
紫陽の声で好きだと言われるだけで満足する俺がいる。
それから打掛を脱がせて、押し倒す。
首筋に貪りついて、強く吸った。
「あっ……」
痕をつけたから、また紫陽に怒られるだろうなと思う。
だけどもうこの独占欲が止まらない。止まるところを知らない。
触れている箇所全てから、俺の気持ちが溢れ出してしまいそうな感覚がした。
だけどこの思いがきちんと伝わるのならばそれでもいい。
ああ、夏が来るまでには、もっときちんとこの想いを言葉して紡ぐことができるだろうか。そう考えていた。
だからこそあの日――視界に燃えている東屋の姿を捉え、周囲を一瞥した時には凍り付いた。どこにも紫陽の姿がなかったからだ。
楼主の姿を見つけて走り寄った時、丁度中から秋桜太夫が一人で出てきた。
「紫陽は!?」
楼主の声に、太夫が中へと振り返った。
――中にいる?
もう、いつ全てが燃え落ちてもおかしくはないというのに。
「ちょっとお客様! 雨宮様!」
気づいた時には俺は中に走り込んでいた。今思えば我ながら無謀だが、紫陽を失うくらいであれば他には何もいらなかった。
――そしてその選択は、今でも後悔していない。
「紫陽」
木陰まで歩み寄り、俺は紫陽に声をかけた。
「何を見ているの?」
「雨宮様……そこに巣があって小鳥がいるんです」
「本当だ」
俺は紫陽の手を握り、どこにも攫わせてなどなるものかと思考を打ち消して、鳥の巣をのぞき込んだ。
「綺麗な鳥だね。なんだろう?」
「僕も今必死で名前を思い出していたんです」
あんなにも周囲が気圧されるような端正すぎる表情の原因は、別に世を儚んでいたわけでもなんでもなくて、鳥の名前が理由だったわけだ。そんな紫陽が愛らしい。紫陽はいつも素直だ。つないだ指先の温度が温かくて、嗚呼生きているのだなとほっとする。
「そろそろ中に戻ろうか。傷に障るよ」
「もう平気です!」
平気じゃないのは紫陽を心配するあまり苦しくなる俺の胸の方だった。
今では、家に帰れば紫陽がいてくれると思えるからこそ、仕事にも身が入る。
仕事とそれ以外を切り離して考えていたはずの俺には、考えられないほどの変化だった。
「ねぇ紫陽、俺のことが好き?」
「大好きです」
だから、この言葉が返ってくるこの今が、俺にとってはどうしようもなく大切なのだった。一生この今をつなげていこうと思う。
そのためにも俺は、紫陽のことを大切にすると誓おう。俺の方がきっとずっと、紫陽のことを大好きで、愛しているのだから。
――ああ、また出会った梅雨の時期が来る。
これからの俺達は、どんな風に過ごしていくのだろうか。