【番外】時計塔
この第三吉原は、中央にお不動さんがある。他の名物は、北側の時計塔だ。
西は西村屋、東は東屋が有名で、南には神社がある。
「都市伝説があるんだってね、この吉原には」
雨宮様は、本日は、少し遅い時間にやってきた。もう夜の十時だ。今日は曇りだったからかもしれない。雨が降り出したのは、つい先ほどの事だ。
最近では、雨宮様の優しい笑顔は、お日様みたいだと感じる事も増えた。
だから……晴れの日も来店してくれたら良いのに……!
お客様が欲しいというよりも、僕は雨宮様のおそばにいたいのだ。
「都市伝説ですか?」
「うん。今日ね、僕が紫陽を贔屓にしているのを、菖蒲の宴で見ていたらしい客先の人が、打ち合わせの帰りに教えてくれたんだよ」
「どんなお話ですか?」
吉原には、怖いお話は――案外、少ない。それは、一晩中、吉原には灯りがあるからだ。幽霊も、見物する事はあっても、光る夜に悪さはしないらしい。
「時計塔とお不動様と神社を結ぶ道が結界になっていて、他の建物を入れて、ぐるりと走るモノレールで――陰陽道のマークを表していると聞いたよ」
「有名な偶然です!」
「そうなの?」
「うん。僕もそれを聞いた事があるけど、楼主様に本当か聞いてみたら、『日本人は規則正しいから』と言っていました」
僕が言うと、雨宮様が首を傾げた。
「どういう事?」
「楼主様は、『私達日本人は、前に点があると並べてしまう癖があるらしい』とお話していました。何度も火災があった第三吉原を再建する時に、ちょっと前に点――お店があると、規則正しく次の店も一度りしたらしいんです!」
「なるほどね」
雨宮様は、座りながら微笑した。僕は気合を入れる事にした。今日は、トークで、雨宮様を楽しませられるかもしれない。いつもは、雨宮様とお話出来る事で、僕ばかりが喜んでいる気がする。
「他にはねぇ、傾城と言われた花魁の若紫が、恋が実らなかった事を悔いて見世から身投げして、今も彷徨っているという話も聞いた」
僕は茶器から、冷たい日本酒を、雨宮様の酒盃に注ぎながら、頷いて聞いた。
「それもデマです!」
「そうなの?」
「身投げした事にして脱走したんだけど、見習いの子が心配で時々見世に見に来ていたのを、お客様が発見しちゃったから――幽霊として誤魔化したと聞いています!」
若紫は、南の大店、至信屋の有名な花魁だ。楼主様がこのお店を開く前、現役で男娼をしていた頃に活躍していたらしい。僕が菖蒲の宴で履いたような三枚下駄を、毎日のように履いていたと、楼主様から聞いた事がある。
遊女は、普通で五百万、ちょっと人気で一千万、大人気の傾城と呼ばれるクラスだと一億は、身請け費用がかかる。だけど若紫の恋した相手は、小さな金物屋さんの職人さんだったらしく、見受け金が用意できなかったらしい。
このお話は、吉原では都市伝説ではなく、ゴシップの一つとして伝わっている。
「他にはね、愛する相手が居る客が、一夜の戯れじゃなく、永遠を望む場合――時計塔に、夜の九時に出かけて、九字を切ると、両想いであれば、それが叶うと耳にしたよ」
雨宮様はそう言うと、お座敷の柱時計を一瞥した。
「――あの日はねぇ、時計塔の帰りだったんだよ」
雨宮様に連れられて、僕は第三吉原へとやってきた。観光で第三吉原に足を踏み入れるのは、初めての事である。僕は、いつか雨宮様に送ってもらった黒い打掛をまとっているが、本日の帯は後ろで結んでいる。
「だから、遅くなったんだ」
「曇天だったからだと思っていました!」
「だろうと思っていたよ――あの頃から、俺はね、両想いだったら良いなと願っていたんだ。思えば、すぐに紫陽の虜になっていたんだな」
手を繋いで歩きながら、僕は名前しか知らなかった西村屋の前を通り過ぎる。目指すのは、東屋だ。西のモノレールの駅を降りてきた所だ。
引退してしまった楼主様と、夜、待ち合わせをしている。雨宮様が取り計らってくれたのだ。
こうして外から見ると、吉原という街は、不夜城なのだと感じる。まだ午後の三時だから、空いていない見世も多いが、代わりに普通の茶屋が三色団子やお汁粉、あんみつを振舞っている。
「俺はいつもね、この道を歩いて、紫陽の籠の前まで向かって行ったんだよ」
その言葉に、僕は繋いだ手の指先に力を込めた。ギュッと握る。
「今は、僕が雨宮様を目指して、歩けるようになりました」
「そうだね――だけどね、本当に出迎えは気にしなくて良いんだよ? こちらが不安になるんだ」
「だって……待っていたいから」
それから僕らは、咲き誇る菖蒲の園に立ち寄った。菖蒲の宴が懐かしい。
「本当に綺麗ですね」
「――本当はね、菖蒲よりも、紫陽の方が綺麗だと思ったんだ」
「え?」
「紫陽を前にすると、ついからかいたくなっていたんだ。素直になれない時もあった。ただね――きちんと伝えないと伝わらないと知ってから、俺はこれでも気をつけているんだよ」
冗談めかして雨宮様が笑った。僕は照れくさくなったから、目を伏せて顔を下げる。それでも嬉しくて、唇の両端を持ち上げてしまった。
その後も雨宮様に連れられて、僕は第三吉原を歩いた。僕の方が長く暮らしていたのは事実だけれど、見世の外の事は全然知らないから、ずっと詳しい雨宮様の隣を歩いていた。
「そういえば、この道順を身請け後に歩くと、ずっと一緒にいられるという都市伝説も聞いた事があるな」
最後に時計塔に立ち寄った時、雨宮様が言った。僕は、吉原中を見渡せる景色に感嘆しながら、両頬を持ち上げた。都市伝説の通りに歩かなかったとしても、僕はずっと雨宮様の隣にいたいと思うけれど、雨宮様の考えが嬉しかったからというのが大きい。
東屋へと行くと、楼主様――元楼主様がいた。隣には、雨宮様によく似た紋付姿の青年がひとり座っていた。
「ほんに、雨宮君は、大切にしちょるようやな」
坂本社長というらしい。雨宮様と違う部分は、紋付の色が薄い事と、似非土佐弁らしい。
「ヴェニスでも世話になりそうやな」
「坂本社長も、露雨さんをお連れに?」
座りながら、雨宮様が問う。促されて、僕は雨宮様の隣に座った。お座敷は、嘗て秋桜太夫が使っていたお部屋だった。すると、元楼主様が喉で笑った。
「先日は、モルディブに出かけてまいりました――雨宮様こそ、今度こそ、紫陽を?」
「見せたい景色がありますから」
そこへ、豪勢な山菜や海老、鱚の天ぷらと、刺身が届いた。僕がやる前に、僕の分を含めて、流れるように楼主様がお酒の用意をしてくれた。僕のグラスには、シソ焼酎が入っている。それも薄めだ。
やっぱり元楼主様は、僕の家族のような人だと思う。僕の事を、なんでも知っている。
「紫陽も見たいと思ってるのかい?」
元楼主様に聞かれたので、僕は大きく頷いた。すると坂本社長が笑った。
「昼に来たら、時計塔の噂巡りを、雨宮君と愛妻がしちょると聞いて和んどったわ。な、露雨」
「ええ。時計塔を愛する御方と見られるのは、遊郭の者の夢ですから」
二人の言葉を聞いて、僕はギュッと、下ろした手で雨宮様の袖を掴む。
そばにいてくれる事が、幸せだった。
――紫陽花の咲く夜は、このようにして、毎年巡り、続いていくのだった。
(完)