【番外】花鳥籠
今日は、雨が降っている。きっと雨宮様が来てくれる。僕はそう信じるように願いながら、籠の外を眺めていた。道行く人々の波、靴の色は華やかだ。
雨宮様は、本日は早く来てくれた。
「仕事が早く終わってね」
「お疲れ様です!」
雨宮様に会えた事が嬉しくて、僕は満面の笑みを浮かべた。本日の雨宮様は、大きな荷物を持っている。お仕事帰りだからだろうかと考えたが、あまり詮索するわけにはいかない。
「良かったら、これを」
しかし――違ったらしい。雨宮様は、白い布をかけてある大きな荷物を僕の前に置いた。
「今日の商談相手は、お花屋さんだったんだよ。花と言っても、夜に咲く花じゃない。菖蒲や紫陽花のような、本物のお花だよ。言い訳じゃないけど、紫陽には誤解をして欲しくないからね」
雨宮様はそう言うと、静かに布を取った。
「!」
僕は目を見開く。そこには鳥籠があったのだが、中には青いお花が入っていたのだ。
「ブリザーブドフラワーなんだけど、生花のように見えるだろう? 青い薔薇」
「綺麗です……わぁ」
思わず手を伸ばす。甘い香りが漂ってくる。くすんだ金色の籠の中で咲き誇る青い花は、何というか、荘厳な空気を醸し出している気がした。
「紫陽にプレゼントだよ」
「有難うございます!」
少しずつ、僕の部屋には、雨宮様からの贈り物が増えていく。それが嬉しい。胸がいつも温かくなるからだ。
「紫陽に、この花も、少しだけ似ていると思ってね。憂いを感じるというか」
「え?」
「何でもないよ。外見の話」
「?」
僕が首を傾げていると、雨宮様が珍しくお品書きを見た。
「この前、紫陽に勧めてもらった鍋は美味しかったね。暖まったし――紫陽が、その薔薇のように凍てつかないように、今日も何か温かいものを頼もうか。何が食べたい?」
「鍋だと、あんこう鍋もオススメです」
「三鳥二魚――五大珍味だね」
その後、あんこう鍋を頼んでから、僕は徳利を手に取った。酒盃を手にしている雨宮様にお酌をする。本日は、熱燗だ。
「僕じゃなくて、雨宮様の方が、今日は寒そうです」
「――出張で、山奥に出かけて来たんだけどね。まだ雪が残っていたんだよ」
「え?」
「葉桜の季節も過ぎて梅雨が来たのに、驚いた。標高がいくら高いとはいえ――ただ、名残雪を見るのも悪くなかったよ」
喉で笑った雨宮様は、静かに酒盃を傾ける。その長い指先を目で追いながら、僕は考えた。吉原に来てから、僕は一度も雪を見た事が無い。ただ買われてくる前の事は、ほとんど覚えていない。ススキが揺れ動いていた事を、かろうじて覚えているだけだ。同じように、冬は寒くて、雪が深かった事も覚えている気がした。
「いつか、紫陽と二人で、雪景色を見てみたいな」
「雨宮様……」
僕はお店から出られない。そう考えて視線を落とすと、鳥籠の中の青い薔薇が視界に入って。僕は鳥籠をあけてみる。薔薇は、頑張ったら、外に取り出せそうだった。
「紫陽、その花は特別な処理がしてあるから、籠から出すと、生花に変わってしまうと聞いたよ」
難しい科学技術が使われているのだろう。
「雨じゃなくても、霙や雪が降る季節になっても、雨宮様は僕に会いに来てくれますか?」
「――どうかな。もうこの店には、足を運ばなくなっているかもしれない」
「え」
「だけど、紫陽の顔は、毎日でも見ていたいんだ」
雨宮様の言葉は、矛盾している……! 毎日見ていたいなら、これからも、毎日来てくれたら良いのに。その後僕達は、届いたあんこう鍋を食べた。
翌日――僕は、鳥籠を抱き抱えていた。よく考えたのだが、お花を窓辺に持っていく事にした。薔薇にも日光が必要かは分からないし、外は雨なのだけれど。
窓辺で青い薔薇を、籠から取り出す。生花になるという事は、これからは枯れるようになってしまうという事だろうけど……綺麗な一瞬を籠の外で過ごしてもらいたいと思ったのだ。雨宮様からの贈り物だから、このお花にも幸せになって欲しい。
僕には籠の中が不幸かは分からないけど、確かに籠の中にあると、どこか寂しそうに凍っているように感じたのだ。
その日訪れた雨宮様は、お座敷の窓辺に咲き誇る青い薔薇を見ると、心なしか苦笑するように、唇の端を持ち上げた。
「紫陽も、籠から出たい?」
「今は、雨宮様が買ってくれるから、こうしてお座敷に来られます! 雨宮様と毎日会えるなら、籬の外の方が良いです」
「――格子の話じゃないんだけどな」
雨宮様はそう言うと、静かに立ち上がり、僕の隣に座った。そして僕の右手を、両手で覆うように握る。
「紫陽の事を、籠から籠に移したいな」
「?」
「紫陽は、俺だけの籠に入るのは嫌?」
「今も僕の籠の前で足を止める、観光客以外のお客様は、雨宮様だけです」
「……交わされているわけじゃないと分かるのが、逆に辛いな」
この時は、雨宮様が何を言いたいのか、僕には分からなかった。
「あれはね、身請けをしたいという意味だったんだよ。あの頃には、もう君と離れるなんて考えられなかったから」
「本当ですか?」
「うん。一緒に外に出て、雪が降る季節も外に居て欲しかったんだ。身請けをしたら、もう店に通う必要も無いだろう? 冬までにはと思っていたから、店には通う予定は無くなっていたんだよ――俺だけの籠は、こうして一緒に家にいて欲しいという事」
身請け後、最初の梅雨が来た。僕は、庭で共に色づいた紫陽花を愛でながら、雨宮様からそんなお話を聞いた。
二人で過ごした去年の記憶が、全て愛おしい。
僕の愛は、身請けされてからも、全然変わらない。
寧ろ、深まっていく。雨宮様は、優しい。
その後は、家の中へと入って、執事さんが淹れてくれた紅茶を飲む事になった。ティカップに入っている。吉原では、紅茶であっても蓋付きの和風の茶器に淹れるから、僕にとってはこのカップもまた物珍しい。まだ慣れない。クッキーも添えられている。
ティカップからは、いつか青い薔薇を見た時に感じたような、甘い香りが広がっている。僕はクッキーを一枚手に取り、口に含んだ。
「甘い……」
「紫陽は、甘いものが好き?」
「大好きです! たい焼きのバニラアイス添えも、東屋では人気でした」
「和洋折衷だね」
「このクッキーも、同じくらい美味しいです」
僕の言葉を聞くと、雨宮様が吐息に笑みを乗せた。
「東屋よりも、俺の用意したこちらの籠を気に入っては貰えないかな?」
「雨宮様……」
「いいや、ここは籠ではないか。紫陽をずっと俺のそばに置きたい気持ちは変わらないけど、置きたいというより、一緒にいたいし、一緒に色々な所へ行って、一緒に――共に歩いていきたいからね。ここには、外が広がっているよ」
それを聞いて、思わず僕は笑顔を浮かべた。
「雨宮様の隣が、僕は一番好きです」
雨宮様の隣にいられるならば、そこが籠の中であっても外であっても、僕はどちらでも良い。僕の方こそ、ずっと一緒にいたい。
「また一つ、紫陽に見せたい景色を見つけたんだよ」
――この年、僕と雨宮様は何度か旅行に行く事になった。
僕はもう、雨宮様が来てくれると願う事は無い。確信しているからだ。
僕は、雨宮様が大好きで、信じている。
いつかの青い薔薇は、結局枯れるのではなく、火にまかれて燃えてしまった。
僕の将来がどうなるかは分からないが、雨宮様の横に在れる内、僕は精一杯、咲き誇ろうと思う。お花と競争するのは駄目だと僕はもう学んでいるから、僕なりに。
「僕も、一緒に見たいです」
こうして、穏やかな時間が流れていく。窓の外では、梅雨らしく雨が降り始めた。