【零】酌み交わす(楼主&雨宮)
――また一つ、繋がっていく。
冷たい500ml缶の側部に触れ、微笑する。それからプルタブを捻った。丸い飲み口に白い泡が散った。別段高級酒じゃなかった。なぜならばここは、『見世』ではないからだったし、訪ねてきたのはあちらの方だったからだ。
「楼主様」
「雨宮様とこうしてまだお会いしているというのも不思議な気分ですね。紫陽は元気ですか?」
コップすら差し出さなかった私の前で、いつもの通りの微笑を浮かべながら雨宮様は缶を手に取った。恐らく普段はこんな酒など飲んだことがないだろう。いいや、お歳暮で貰い尽くしているか。
「元気にしていると俺は思っています」
「それは良かった。幸せに、とは簡単に言っても難しいことですからねぇ」
「……幸せに、か。口で言うのは簡単だけど、それでも確かに俺は紫陽を幸せにしたい」
「今の現状で幸せでないというのであれば、紫陽を返せと言いたいところだねぇ」
「そればかりは出来ない相談だ」
そんなことを言い合って互いに笑った。
男娼を身請けした後も顔を出す客というのは、実は少なくない。
娼館遊びが止まらない客も多い。
だが、雨宮様のように、指摘に私の所を訪ねてきてくれる『お客様』だった知人は少ない。元々、私自身がそう交友関係が広い方でないことも手伝っているのだろう。
無論、商売柄知人は多いのだが、家にまで押しかけられることは滅多にない。
こういった終わらない関係、新たに繋がっていく関係が、けれど私は嫌いではなかった。
「紫陽のどこに惹かれたんです?」
「なッ」
ずっと疑問に思っていたことを聞いてみた。無論見世の子の良さは何よりも私が知っている。けれど顧客が惹かれた理由は、当人にしか分からない。そして雨宮様のように余裕がおありになる客人が、まさか缶麦酒で咽せるとは思わなかった。揺れる肩を見据えながら、申し訳程度に差し出した、これまた知人からのもらい物のブルストの皿を少し雨宮様のがわに渡す。
「外見ですか?」
違うだろうなと思いながら聞いた。それこそ紫陽の外見だけが好きな客など腐るほどいただろう。紫陽は、そんな客に手渡さないように、大切に大切に目をかけてきた子だ。本人はいつも、売れないと嘆いていたが。実のところは、将来的には太夫にと考えていた。紫陽にはその器があったと思う。芸妓が出来ればいいと言うわけではないのがこの世界だ。何よりも、この第三吉原にあってもまっすぐな心根が、私は好きだった。
「外見も好きですよ」
「では、てるてる坊主にやられたのですか」
「ッ、ああ、ええ、そうですが、何か?」
珍しく照れている雨宮様に、思わず笑みが漏れた。
紋付きの袖で口元を多い、瞼を伏せた雨宮様を見る。思いの外長い睫。整った顔。紫陽の側も、けれどこの顔に惹かれたわけではないような気がする。紫陽の前では余裕を崩さないだろう、そんな見栄を持ったこの男客の事を、きっと紫陽は深く理解している訳じゃないのかも知れない。それは私のように齢を重ねてこそ、理解し得る
楽しみだ。
私も後三年もすれば三十五になる。
「紫陽は、どうせいつも貴方の帰りを待っているのでしょう? 外にでも出て」
「それは俺が禁止しました」
「じゃあ今度は何を作っているのですか?」
「最近は、生け花の稽古――……いえ、その」
「成果を貴方に見せるために、毎日?」
「ええ、まぁ」
待てと言いたい。そう言うことであれば、見世にいるときに頑張って欲しかった。
本当に、雨宮様という報酬がないと何もしない子になってしまったらしい。いいや、紫陽にそこまでさせられる男がこれまでにはいなかったと言うことだ。庄野様ですら、紫陽にやる気を出させることは出来なかったらしい。
「腕前はなかなかでしょう?」
「ええ。あんなに上手だとは思わなかった。流石は、東屋の男娼だっただけはあると、周囲で評判です」
「当然です。私の見世の男娼だったことは、大きなステータスですからね」
しかし生涯、男娼だったと言われ続ける烙印。
それを受け入れられるのか否か。紫陽ならばきっと、前向きに捉えてくれると信じている。私は自分の見世を卑下することはない。私の見世は素晴らしい。何せ、紫陽のような良い子を排出し、現在の見世にも素晴らしい男娼がそろっているのだから。ただの陰間茶屋と同一視されては困るのだ。
「最初は下手でしたけど」
「紫陽は、やれば出来る子なんです」
「今まではやらなかったって事だよな」
「雨宮様のためだと言えば満足ですか?」
「当然です」
「おお怖い。雨宮様は嫉妬深いですね」
クスクスと笑うと、今度は雨宮様が喰えない笑みを浮かべた。
「楼主様は、無かったんですか?」
「何が?」
「愛しい人からの身請け話」
あっさりと場合によっては傷を抉るようなことを聞いてくるこの人間が、私は嫌いではない。この程度で揺らぐほど、私はもう子供ではないからだ。勿論見受け話など、太夫だった頃は腐るほどあった。
その中に、愛しいと思う相手がいなかったと言ったならば嘘だ。
ただ私はその人物よりも、第三吉原を選んだだけだ。
嘘か誠か、私を身請けするために、より給料の良い、軍部の諜報部に入り直し、表向きは軍を辞めたなどと言っていた。調子の良い人間だった。だった、か。ああ、もう暫く会ってはいない。海外に赴任しているから――なのだろうか。私には分からない、今となっ
では。会いたいとは思わない。頼りがないのは元気な知らせだと思うからだ。
「聞きました。貴方は昔、貿易会社の坂本社長とご懇意だったとか」
「おや、懐かしいお名前ですね」
なるほど、大企業の社長同士、親交もあるのかも知れない。
坂本靖眞の事は、もう私は放っておくことにしている。
時折、山縣という名の軍人が第三吉原にやってくるのが、私の様子見だと言うことも知っているが、どうでも良い。閨の睦言を売るような男娼は、私の見世にはいない。
「俺が紫陽を身請けしたと言ったら、全力で悔しがられました」
「日本へ戻っておいでなのですか?」
「いえ、先日紫陽とヴェニスへ出かけた時にお会いして」
「なるほど」
「お元気そうでしたよ――何故、身請けの誘いを断ったのですか?」
「そこまでの客だったと言うことです」
私も笑顔を崩さなかった。それは、楼主の顔では無いからだ。
「楼主様でも嘘をつくんだな。そんな幸せそうな顔、初めて見た」
今度は私が息を呑む番だった。
「必ず奪いに行くと行っていたから、お気をつけ下さい」
雨宮様はそう言うと缶麦酒を飲み干した。それを見守りながら、思わず目を伏せる。
――ああ、いつかそんな幸せな未来があっても良いかも知れない。