【二】
また、まただ。
またもうすぐ、五月雨の季節がやってくる。
梅雨の足音に耳を傾けながら、私は花魁道中をぼんやりと眺めていた。
嘗てはそうして私が、あの道を歩いたこともある。本当にあの下駄は歩きにくい。しかしそれを優雅に歩ききってこその太夫だ。梅雨と言えば、昨年は毎日のようにてるてる坊主を作っていた紫陽の事を思い出す。身請けされた見世の子だ。あの子にも、この花道を歩かせてみたかったものである。
「綺麗やな」
「ええ」
隣で誰かが呟いた声に、気づけば私は同意していた。それからハッとして視線をあげた。
振り返ろうとする前に、右の手首を掴まれる。
「紋付きも色っぽいのな」
「坂本様……」
嘗ての上客の姿と変わらぬ声に、私は狼狽えた。いつか再会することを思い描かなかったわけではない。けれど、こうも唐突だとは思わなかったし、再会したときに自分がこのような反応をするとは思ってもいなかった。震える声で名前を呼ぶことが精一杯だった。
「雨宮君と会うてね。君が元気やて聞いて安心したんよ」
「……そうですか」
私は嘗ての私自身を取り戻すように、そして武装する心構えで、微笑を形作った。
笑顔は男娼の武器だ。最早私は男娼ではないが、坂本様という喰えない相手を前に、何も持っていないというのは心許ない。
ああ、最後に会ったときと全く変わらないこの男は、時間も距離も感じさせずにまた私の前へと現れた。そうしてまたきっとすぐに去っていくのだ。
そんなことを考えながら、雨宮様と話しをしたときのことを思い出す。雨宮様は紫陽を身請けしたお方だ。確か出かけていたはずだ。
「ヴェニスではお楽しみだったとのことでしたね」
「それは雨宮君やろ? 紫陽言うたか、君の店上がりの子となぁ、そりゃあもう仲が良さそうに。あんな雨宮君を見る日が来るとは思わんかった」
「雨宮様に愛されて、紫陽は幸せですね」
「俺に愛されてる君かて幸せやろ」
「坂本様の博愛に憧憬を抱いている者は多いと思いますよ」
「ふぅん、博愛、ね。それはそっちや。山縣から聞いとる。随分と、昔なじみの客が店に通って来とるらしいやん」
「皆様大切なお客様ですよ」
「そろそろ俺に着いて来ん?」
「お心はいつまでもおそばに」
「それ何人に言ってるん?」
「坂本様にだけですよ」
「他の客には、別の言い方で同じ意味の言葉を言ってるって話しかいな」
肯定も否定もせず私が笑うと、坂本様が、私の手を握る指に力を込めた。
「暫くの間は日本にいる。その間、話がしたい」
本音を言う時、坂本様はなまりも方言もなくなる。あるいは意図的なものかも知れない。
そもそも彼の口調がどこの方言なのかも私は知らない。
郭言葉ともまた異なるが、似非関西弁だ。
「私達の間には、もう話をするようなことは何一つ無いと思いますよ」
「俺は君を無理にでも連れて行かなかったことを今でも後悔してる」
「お気持ちだけで十分です、それにお断りしたのは私です。私はその事を悔いたことはありません」
「寂しいな。相思相愛じゃなく、やっぱり客と男娼だったと君は言うのか?」
「いいえ」
「じゃあ――」
「私達の間にあったのは、ただの同情ではないでしょうか。互いに傷をなめ合った。そんな不健全な関係を愛と呼ぶのは歪なことでしょう」
「ふぅん」
坂本様は、静かに目を伏せながら私の手を離した。
坂本様は、私が初めてとったお客様だ。坂本様の側も、初めて遊郭に来たらしかった。
勿論水揚げは済んでいたが、酷く緊張したことを覚えている。
以来――ほぼ坂本様お一人の力で太夫まで私は上り詰め、次第に客を増やした。寧ろ客が増えたのは、太夫になってからであり、私は皆に手解きするほど枕を共にしたことはない。
当時の私は、私と話をすることだけで、相手へのステータスとなっていたのだ。
ただ唯一、坂本様を除いては。
坂本様だけは、会ったその時、私を求めないことはなかった。
お互いに若かったのだと思う。
「じゃ、これからはそんな同情心は捨てて、新しく愛を築けばいいな」
「坂本様?」
「俺はこの夜、東屋の楼主、天堂露瑛に一目惚れをした」
「――ただ私はその想いには気づかない」
「気づこうや」
「お断りします。私達の間には、まだ恋愛ごっこをした歴史が一度もないのですからね、一度くらい夢を見させて下さいませ」
「参ったな。なんや、デートでもするん?」
「悪くないですね」
「どこにだって連れて行ってやるわ」
「では坂本様のおそばに」
「ん?」
「坂本様の隣を空けておいて下さい」
「そんなもんいつでも空いとるわ」
そんなことを言い合いながら、眺めた花魁道中は美しかった。ああ、桜が散る季節。
道行く花魁の袖に描かれた桜の花びらに目を奪われなかったと言えば嘘になる。
その時肩に手を置かれ、笑われた。
「これからは、俺だけを見ろよ」