【24】ゼミの選択



 結局、一度も質問することも会話することもなく、精神分析の必修は終わった。

 けど、他の学科の興味のある授業以外は、私にとって、この必修と、この先生の一般講義だけ。それが、心理学上で唯一の楽しみだった。どちらも一限なのに、必ず行った。みんなには散々頭がおかしいと言われた。

 だけど、他にはもう、心理学自体に興味がなくなりつつあった。必修の時にやった際は楽しかったMMPIもロールシャッハも、その他にもいろいろ覚えた知能検査の実験時より難しいものも、バウムとかその他のテストも、ぼうやりたくなかった。嫌いにはならなかった。でも、興味を失っていたのだ。あきっぽいのと、面倒くさいのが理由だ。

 この二台理由は、突発的に死のうと考える時の、ある種の要因だ。

 死ぬことを決めたら、明るい気分になったので、私は七輪と練炭を買った。
 きっとこのマンションで実行したら、火事になったり、賠償金を請求される。
 そこで、きっと、そうなっても安いだろう、当時は珍しかったレンタル倉庫を借りた。

 二日だけ貸してくださいと言ったら変な顔をされた。

 そこは密封性が高く、保存に最適だと書いてあった。
 空気孔がないのだと思った。
 そこで私は、七輪と練炭を使用した。そして死ぬのを待った。

 ちょっと眠くなってきたので、死ぬのだろうと思って、そのまま寝た。
 しかし翌日普通に目が覚めた。
 寝てしまったのは、意識喪失ではなく、ただの疲労だったみたいだ。

 密封性、ないじゃん!
私はムッとしつつ、今日にはレンタル倉庫返却日なので、家に帰った。
そして、誰にも今回のことを気づかれなかったことに安堵していた。

 今度はもっと、密封されているところを探し、練炭をいっぽいにすべきだろう。

 その内に、三年生になり、本格的なゼミ決めの時期が来た。
 ロールシャッハの先生が、ゼミを持っていた。

 当然そこへ行くのだと、周囲はみんな考えていたようで、人気のところに行けていいなと言われた。嫌味ではない。純粋に、喜んでくれたのだ。私自身だけが、喜んでいなかった。そこに行ったら、その後大学院に行くのだ。もう嫌だったが、笑っておいた。

 本音を言えあば、精神分析のところに入りたかった。

 だが――このゼミは、大人気なのは変わらないが、三年次からは意味が変わると知っていた。相変わらず出席確認はない。しかし、信者と、二年次の必修で目立った人しか受からないのだ。希望しても、よほどの奇跡がなければ受からない。

 私は信者でもないし、目立ったことはない。唯一一度話したのは、自分の発表の日で、「よく頑張ったね」と言われて「ありがとうございます」と返した、あの時だけだ。単純に、先生の講義が好きで出ていただけで、先生は私の存在を認識しているかも怪しい。

 三年前期で、卒業に必要な単位はほぼ全て取り終わる。
 だからもう、必修と就活と院試組に分かれる。
 なのだから、院組だと考えられている私は、あとはずーっとロールシャッハなのだ。

 普通練炭は車なのだろうが、免許も持っていないし、レンタルもできない。

 どこがいいだろうか考えていた時、上村先生に会った。
 会ったというか、肩を叩かれて気がついた。
 そして笑って挨拶をした後、教授室に誘われたので出かけた。
 それから、少し雑談をしたあとに、言われた。

「ところでさ、何かあった?」
「え? なんにもないですよ?」
「――本当?」

 私は練炭のことがバレたのかと思って、慌てて大きく頷いた。
 しかし違った。

「最近、研究室に入り浸りって聞いてる」
「ああ……」

 正直その話題で、ホッとしてしまった。
 だが、面倒くさいと思っている話題だったからだろう。
 気づくと、私は、笑顔ではなくなっていたらしい。

「ゼミ、どこ行くの?」
「……」
「ロールシャッハの所って即答しないんだね」
「あ、その……」
「二年の時さ、地元の人に話すほど、精神分析行きたかったんだよね? 意外だったけど」
「……でも、もう、無理です」

 ここでやっと私は笑うことができた。

「だって、研究室に入れてもらえるなんて、名誉なことだし! 精神分析大好きだけど、入れる人、決まってて、私は無理です。しょうがないし、きっと、きっと、だからその……私には、検査する才能があるんですよ! 実験もすごく評価良かったです! 大学院生になれるなんて、すごく格好いいし!」

 上村先生は、お茶を飲みながら、私の話を聞いていた。
 それから、ポツリといった。

「躁的防衛って知ってるよね」
「空元気の重いやつです!」
「普段は自分の評価に対してネガティブなのに、今級に、自慢げにプラス思考に話している現状は、躁的防衛に非常に近いと僕は思うけど、雛辻さんの見解は?」

 思わず言葉に詰まった。思わえば私は、これまでに、大学においても自分の成績を絶賛してみせたことはないのだ。ちょっとレポートの成績が良かったという話をしたことがある程度だ。その結果、経済学部の友人のレポートを代筆したりしていた。これも適当に書いたのだが、なぜか最高評価で、多くの友人にこの作業をテスト時には頼まれた。

 研究室に呼ばれていることは、バイトを始めたということにしておいた。

 何をしているのか聞かれたから、秘密だと言ったら、キャバだなと言われた。どうやらキャバ嬢とは、佳奈ちゃんみたいなギャル系だけじゃなく、私のような服装の人もなるらしかった。一応否定はしたが、みんなそう思っていたようだ。

「君にとって研究室に呼ばれることは、行動分析の教授室に行っていた事とは、違う? あの二人が言うんだから、確かに君には、その道の才能があるんだろうし、向いてるとは思うけど。嫌だったりしないの?」
「だけど他に、道が――」
「前にここは自由な校風だって話した気がするけどな。道だけはいっぱいいくつもあるはずだと思うよ」
「でも」
「でも、だって、そう言う言葉は使わない方が良い」
「……」
「君の不幸は、この大学はさ、根本的に頭が悪いといわれる事も多々あるのに、ここへ入っちゃったことだよね。まず、それ。自由度がウリなのに、先生方、君に期待しちゃったんだ。だけど君は、期待されることが好きじゃないみたいだ。行動分析の時からそうだけど、普通の学生は、喜ぶことが多い」
「……」
「けどね、僕はそういうのは気にしないほうがいいと思うし、将来もっと偉くなったら、さらに自由な校風にしたいと思ってる」
「……」
「だから雛辻さんには、僕が最初に相談に乗った、初代の例として、ここは自由なんだって証明してほしいな。僕の講義人気ないから、雛辻さんとしか話す機会があまりないんだ」
「……」
「好きなゼミ、行きな」
「けど、もう、みんな大体、指導受ける先生決まってるし――」
「けど、も、禁止だね。まぁその傾向があるのは事実だ。でもそれは、実験以外の二つの必修のうちのどちらかが基本だよ。実験中の勧誘なんて、ちょっと変だ。だから本来であれば、君は犯罪心理か精神分析のゼミ、この二つを志望するのが適切だね。自由だから、別に他でも良いんだけど、現状としては、ね。やっぱり、精神分析行きたいんだ?」
「受かりませんから、行きたくたって無理です」
「確かにあの先生はねぇ――ちょっと特殊なんだよね。ここの関係者とは全く違う有名医学部系列の学閥といえばそうなんだけど、そこに加わってる感もあんまりないし、高校も普通だし。ま、高校に関しては、この大学の雛辻さんみたいな感じだったんじゃない。それで、精神科医になって、専門医になって、某精神医学関連で有名な海外の専門施設で本格的に精神分析学関連の、とある学派を学んで帰国して、それで僕の次に若い先生だ。あんまり他の先生方とも交流とってないし、紀要で行動分析の先生とイヤミ書き合うのが一番印象的。講義は僕と違って大人気だけど、参加人数もテスト内容もあんまり変わらないし。うちがそういう専門家探してて頼んで採用になっただけで、クリニックも週何回か普通に診察してるわけだし、権力にも興味がなさそうだ。ただ熱心な学生がとても好きなのはわかる。僕が口出ししても受け入れてくれないかもしれないけど、雛辻さんが真面目に授業に臨んでたんなら、受かるかも知れないよ」
「熱心な人、いっぱいいました。私より、いっぱいいっぱい。そういう人でも落ちることあるのに」

 私は気づくと愚痴っていた。あんまり愚痴らない方なのだが、なんだかこの時は、愚痴ってしまったのだ。しかもまたポロポロ泣きながらだ。私はどうやら涙もろかったらしい。

「落ちたら、ロールシャッハでいいじゃない。普通はあそこ、第一希望者が多いけど、君なら第二希望で書いても通るよ。第三でも通ると思う。ちなみに行動でも通ると思うよ。あの先生も君に未練タラタラ。実験でさ、行動のビデオの分析も、とってもレポート良かったらしじゃないか」

 そのまましばらく私は静かに泣いていた。なんて情緒不安定なのだろうか。
 きっと大2病というやつだと思った。
 ずっとその間、先生は励ましてくれたけど、ただ本心では、絶対に無理だと思っていた。

「じゃ、これ書いて」
「……!」

 そこには、ゼミの希望書があった。
 先生は、私が、第一希望に精神分析学と書くのを見守っていた。
 なんだか、書くべき空気が流れていたように思う。

 そして、ゼミの発表日、私はあんまり期待せず、なんだか怖いと思いながら見に行った。

 そうしたら、精神分析のゼミに受かっていたのだ。
 五回くらい見たが、張り出された紙には、ちゃんと私の名前があった。
 理由がわからない。全然わからない。信者でも落ちた人もいる。

 きっとすごく嬉しかったような気がする。
 だがそれ以上に、ロールシャッハの先生に怒られることを考えていた。
 実際、すぐに、その帰り道で呼び止められた。

 心理学準備室の真正面に張り出されていたから、先生が私を待っていたのだ。

 ビクビクしながら、すぐそばの小会議室に連れて行かれた。
 私は怒られるのだろうと思っていた。
 とりあえず座れと言われたので、素直に座った。すると、言われた。

「雛辻、ごめんな」

 私は最初、意味がわからなかった。先生のクラスに落ちたと判断しているのかなと思った。希望書を見なかったのかもしれない。だが、怒られる気配じゃないことに、ひとまず安心した。

「お前、笑ってたし、熱心にやってたし、研究室に呼ばれたら過去の数人は全員喜んでて、そのうえでお前は誰よりもしっかりやってたから、喜んでるし、やる気満々だと思ってた」

 ポカンとしてしまった。何を言えば良いのかわからなかった。
 だが必死で考えて、すぐに答えた。

「い、いえ、本当に名誉なことだと思ってます! 面白かったから、だから、いっぱい、やって、その……」
「もう無理しなくていいから。笑わなくて良い。行動分析の話、聞いてたのにな、結局俺も、同じことをしてただけだ」
「いや、違――」
「違わない。お前が泣くほど悩んでるなんて、考えてもいなかった」
「っ、あ、その」
「上村先生から聞いたよ」
「……」
「あんなに身近にいたのにな。全く気付かなかった。俺は、心理学者として失格だ」
「そんなことないです!」
「俺の専門、知ってるだろ?」

 ちなみにこの先生のメインの研究対象は、ロールシャッハではない。
 この大学と院では、それを教えていただけである。

「本当にごめんな。辛かったよな」

 直後、私は驚愕した。なんと、いつも明るく、あるいは怒鳴っている先生が、泣き始めたのだ。そして泣きながら、ひたすら私に謝り始めたのだ。もらい泣きだったのか、情緒不安定だったのか、他のなんなのかは分からないが、私まで泣き出してしまった。

「違うんです違うんです先生は何にも悪くないんです」
「もう無理すんな。やめろ、俺がさらに泣くから」
「いえ、あの――」
「無理してた。今も無理してる。お前返せば、心当たりがすごくある。だからもう、笑うな。なんで笑いながら泣くんだよ」

 私は、そういえば、泣く時にはなんだか笑っている気がした。
 実は全然気づいていなかった。

「――良かったな、精神分析のゼミ受かって」
「先生のところ行かなくて、その――」
「気にすんな。院でもいつでも俺のところ来ていいしな。それ以外でも、教授室でも研究室でも遊び来い。もう検査の論文なんて書かなくていい。普通に遊びに来ていいから。普通に色々教えてやるし。あの教授じゃ院試指導期待できないから、俺がいくらでも教えてやるから。だから、何も気にすんな」

 なんだかそんな風に、優しい言葉をかけてもらいながら、しばらく二人で泣いていた。
だいぶ経ってお互いに泣き止んだ後、不意に冷静に先生が言った。

「あと二つだけ約束してくれ」
「なんですか?」
「四年になったら、専門の統計の講義に入れてもらえ。話通しておくから。三年の必修は全般的で、質問紙には特化してない。それは四年で院受験組が徹底的にやる」
「わかりました」
「もう一つは、卒論は、精神分析の文献研究はやめろ。必ず質問紙にしろ。大学院入試は、文献研究ではほぼ取らない」

 この先生は、本当に良い人だったのだ。
 その後帰宅してからも、私は泣いた。嬉し泣きだ。

 実は、過去に病気をした時や、薬を飲んだ時、怪我の時、これらの時であっても、誰も私の周囲で泣いた人は、いなかったのだ。勿論、影では泣いていたかもしれないし、私の前では元気づけるために泣かないでくれていたのかもしれない。だが小中時代を除き、こんな風に率直に、私のために泣いてくれた人は、初めてだったのだ。