【26】教授室
「俺の部屋、灰皿もあるし」
「え、え? それって――」
「講義以外と準備室周辺以外で、雛辻さんを見た記憶は喫煙所しかない。一人の時も、友達といる時も、大体いるよね。図書館にも行っていたとは知らなかった」
「何で知ってるんですか!?」
「そもそも俺は顔と名前を知ってる学生が少ない。その少ない一人がいつも同じ場所にいる上、実に羨ましいことに堂々と煙草を吸ってるんだ。たまに見かけたら覚えるよ」
このような雑談後、私は先生の教授室にお邪魔した。
私は、大学の建物内は完全禁煙だから、教授室で煙草を吸えるとは知らなかった。
そもそも、先生が煙草を吸うなんて、誰にも聞いたことはなかった。
先生は良い香りがすると評判だったのだ! 今思えば臭い消しだ!
鏡花院先生の教授室は、非常に良い香りがした。アロマの加湿器があったのだ。
ついたてなどもあるし、ソファもオシャレだった。観葉植物もある。
この時点で、もう他の先生方のお部屋とは全く違うと気づいた。
行ったことがあるのが、おじいちゃんとおばあちゃんの所だけだったからなのか。
それとも、教授達の中で、一番服が格好良いから、お部屋も格好良いのか。
私はそんなことを考えていた。
先生は、二十代になったばかりと言っても良いような私には、当時三十五歳くらいに見えた。教授室を持っている教授であり、毎年講義もあるわけで、大学院でも教えているのだから普通に考えれば五十歳近いはずなのだが、非常に見た目が若かったのだ。上村先生より年上というのが信じられないくらい若く見えた。
そしていつも、左手の薬指に銀色の指輪をしている。きっと結婚しているのだろう。どんな奥さんなのかとみんなで過去に雑談したことがある。どうでもいいが広野さんと同じくらいには、顔もイケメンだった。
「ま、座って。これ、灰皿」
先に座った先生に促され、テーブルを挟んで正面に、私も座った。
オシャレなテーブルクロスのようなものまでかかっていた。
ただ灰皿は、普通の黒くて丸い物だった。
「失礼します」
そう言って座った私は、緊張感から逃れようと、早速煙草を取り出した。
赤いマルボロである。
「結構キツイの吸ってるよね。細くて長くて白い、ここの女学生の多くが吸うようなのじゃないな。ことごとく見た目を裏切る。そもそも勉強をするようには見えない」
先生は、思ったより饒舌だった。この日まで、物静かな人だと思っていたのだ。
そして先生は、私と全く同じ煙草を取り出して、吸い出した。
今も変わっていない。お互い赤マルだ。
見た目はきっと、就職を一切考えていない私以外、徐々に周囲は黒髪になっていて、髪型も整えつつあったから、茶色の長髪が悪かったのだろう。美容師さんがテスト的な感じで、月に一回私の髪型を弄っていてくれたのだ。
「実は一度雛辻さんと話してみたかったのは、俺の方なんだよね」
「――へ?」
「一回しか話したこと無いって言うけど、君が俺の方に近づいてきたことは一度もない。俺の方にはネタが盛りだくさんだったんだけどな」
「でも必修中だって……」
「二年の時、君さ、質疑応答の時間無視するしかない長さで、講義終了ギリギリまで発表してたから。最後に一言声を掛ける時間しかなかった」
「一番目の発表者が私だったから、時間配分がわからなくて」
「そうなの? 初回発表者の割に、あんまりにもレジュメが長くて詳細で、語る内容も専門的すぎたから、どうしてもあの発表をしたいんだと思って見てたよ」
「緊張しすぎて何話したかも覚えてないです」
私の言葉に先生がまた笑い出した。
だんだん先生の笑いのハードルが低いのだろうと思い始めた。
ちなみに私の言葉は、本音である。
「そういえば、雛辻さんて、早起きなの?」
「え? いえ。基本的に、午後に起きる感じです」
「じゃあなんで俺の必修じゃない方の講義とってたの? しかも来てたの? 単位取るだけなら、テスト前だけでいいのに」
「面白かったから、その……」
「レポート内容的に信じるけど、単純に君が真面目なだけかもしれないから念のため聞くよ。スパイ行為を一度もしなかった?」
「スパイ!?」
何の話か、一気にわからなくなった。
首を左右にひねりまくり、多分オロオロしていたのだろう。
そんな私を少しの間眺めていた先生は、それから吹き出した。
「ええと……? 先生は、誰かにスパイされてるんですか?」
「ごめんごめん、言ってみただけだよ。いやぁその辺の、君の名前と顔を俺に一致させてくれた遠因でもあるおじい様がねぇ、珍しくあの頃俺に話しかけてきてね。既に行動の教授室に通ってる君が、俺の講義をとってるのは、別ジャンルの動向をスパイしてるからだと嫌味をね」
「へ」
「あの人の言葉を信じたわけじゃないけど、正直二年の時、君があっち関係の認知じゃなくて、俺の必修に希望出した時は、個人的にかなり驚いた。これまでの総合的な全必修と個人での講義成績的に、第一希望された以上、落とす選択肢はなかったけど、向こうにいかないのが不思議だった。単純に酒好きだから、あのおじい様と気が合うだけで、院志望じゃないから、楽な俺の必修にしたのかと考えてたな」
先生は、二年次の、私が地元のみんなに助けてもらった経緯を全く知らないようだった。本当に、あんまり他の先生方と交流をしていない様子だ。
「それにしては、毎回俺の必修に来る。一限なのに。つまり朝が早いのかと思った。発表日しか来なくていいって言ってるのに来るということは、暇なんだろうなと思ったんだ」「なるほど……」
「そんなある日、またその辺のおじい様に嫌味を言われた。某英語で非常に有名な難関私大の院以外じゃ、精神分析なんか専攻しても将来がない。つまり院で俺のところにきても将来を潰すだけだ。俺はそれを聞いて、なるほど酒が嫌いになったわけでもなく、院志望じゃなくなったわけでもないのに、あのおじい様のところに通うのをやめてるんだと知った。その頃、犯罪心理の先生が退官近かったから、ああ、そっちに行くから、もう一つは楽な俺を取ったんだろうと判断した。そうしたらねぇ、ある日、臨時で先生方の集まりがあったんだ。面倒くさくて行きたくなかったけど、一応出たんだ。俺って真面目だな」
先生は、本当に一瞬、面倒くさそうな顔になった。
この時、もしかすると私と似たような人かと思った。
「行ってみたら、必修の実験の話で、事前には特定学生の話としか聞いてなかったから、盗作した学生がまた出たんだなぁって思ってた。俺は実験は受け持ってないんだから、サボろうかとすら思ったけど、さすがに行かないとまずくてね」
私の大学は、実験必修だけは非常に厳しいので、代筆レポートなどが発覚すると、即留年決定なのだ。ほかは見逃されている!
「そしたらまず君の名前があがったから、驚いた。俺が呼ばれてサボらないよう釘を刺された理由もわかった。必修担当してるからね。しかしまさか君が盗作するとは思わなかった。かと言って話したこともないし、擁護する気も無い。ということで、一体君がどんな問題行動を引き起こしたのか、少しワクワクしながら聞くことにした。普通全欠席の上村先生までいたから、退学レベルかなって思ってたね」
先生が非常に楽しそうな顔になった。懐かしむ表情で煙草を吸っている。
「実験担当全員と、二つの必修の教員、後その他の講義で君がこれまでに、きちんと出席した講義担当者、つまり君がサボってない講義の先生は全員そこにいた。君がサボってた講義の先生方は、少し悲しそうだったね。会話には入れないから。俺はこの時初めて、きちんと君は、楽な講義も選択して出ていないことを知った。なんで俺のところには来ていたのか知らなかったけど、きっと俺の講義って面白いんだなと内心自分を褒めたたえた」
やはりこの先生は、どこか私に似ているところがあると思った。
しかし、そうか。私がサボっていたの、バレていたんだ!
それも、たくさんの先生方に!
「そこで、その時点までに終わっていた全実験の、君の成績の話になった。ま、大体、優秀だって話だったから、へぇって思いながら聞いてたよ。その時点で、おおよそ把握した。事前に院のほうのゼミに声かけするの、基本は二つの必修か、実験の評価からだから。まぁ行動のおじい様は、自分の行動まで迅速で一年次からやってるけど。で、君の実験が評価が良かったから、誰が声かけるか、不毛な戦いするんだろうと確信した俺は、どうでもいいので帰りたくなった。こうして実験での君の評価の話はだいたい終わった。話さない人が何人かいたけど、まだやってないんだろうと思ってた」
「そんなことがあったんですか。よくあるんですか?」
「無い。学生の取り合いはあるけど、普通は声をかけてから喧嘩が始まる。そこも若干不思議だった。で、それから俺とかが担当の必修の話になった。犯罪の後任の先生は、法学出だし、まだ学内にそんなに影響力ないから、控えめに君の成績をほめたたえた。問題はその後だった。俺の番が来た」
「はぁ……」
「面倒だけど、普通は、ま、犯罪の後任は空気読んで一般的なことしか言えないだろうし、心理系の専門じゃあないし、行動の部屋とか、前任の犯罪の部屋行ってるっては聞いてたけどそれは勉強態度を見るものじゃァないしね。俺に、授業態度を全員が聞きたがってると思ったんだよ。他の講義サボってるものがある時点で、すごく真面目ってことはありえないから。前任の先生の部屋に行ってたっていう学生の話は聞いたことがなかったけど、根本的に俺は、学生の話なんて知らないから。ただ、嘘をつくほど俺は優しくないので、具体的なこれまでの講義で知る成績と発表のレジュメ、これは準備室に保存してた、それと発表内容についてと、俺の講義なのに全部出席しているすごく変わった学生だと伝えた。長所や短所は知るほど親しくないからわからないと答えた。そしたらねぇ、先生方、ちょっと黙っちゃったんだよ」
「変わってます? 私? 普通ですよ?」
「俺から見れば変わってる。中身はまだ知らない。それで、その後聞かれたんだよ。院での所属がほぼ決まる、三年のこのゼミのこと。来るように君に声かけするかって。言っちゃ悪いけど、俺は過去一度も、自分から自分のところに来ないかと誘ったことなんてない。知ってるだろうと思いながら、自分から声をかけることはないって断言した。何を聞いてるんだこいつらって思った。そうしたらさらに、希望されたら取るかって言われた。そりゃ院試受かって希望されたら普通取る。一般論としてそう言ったよ。本音としては、俺にまで院を勧める学生の取り合いに参加させようとしているこの人々の頭を疑った」
「先生のほうがとても正しいと思います。頭おかしい!」
「だよね? けどまぁ、俺の答えに、みんな少しホッとしたような顔をしたあと――実験結果について話さなかった、とある二人がここで成績を開示した。なんでいまさらだよと思いながら、資料を受け取って、さすがに俺もちょっと驚いた。一応俺はこれでも精神科の医者だから、特にロールシャッハの判定の方は、すごいと思ったよ。これは、純粋に。そこからやっと本題になった。最初に言えよと思ったね、俺は」
「……本題?」
「院はうちを含めて他でも仕方ないとしても、大学として、根本的に、学生の特技は伸ばしておかないとやばいって話。優秀な才能は、専門教育しておかないと、ってこと。なので、学生を呼ぶのは例外だけど、研究室に呼んで専門的に、この方面を学ばせるべきだって話だ。さすがにこれは一任じゃ無理だ。ま、推薦者は二人いて、その先生方が熱弁して、どんな形の才能かを説明しまくったわけだね。他の先生方も当然知識はあったし、俺は結果を見るのに夢中であんまり聞いていなかったけど、確かにあの評価の仕方は個人的にも面白すぎた。だから俺はそっちをずっと見てた。とりあえず上村先生が来てるのにも納得したし、俺に対しては別に態度を聞きたかったんじゃないというのも理解した。純粋なる会議だったんだよ。研究室に学生を入れる是非についての。そこで本来は、院でやる事柄と、さらに個人的な論文執筆させて良いのかどうかの話し合いだ」
そんなことがあったとは、全く知らなかった。
実験で成績が良い場合は、どの学生だってそうなるのだろうと考えていたのだ。
「結果はもう君も知る通り、研究室行きが決定した。上村先生が呼ばれる必要なかったほどで満場一致。俺もあの評価出せるなら行っといたほうが良いと思ったよ。俺が前にいた病院の心理士の、馬鹿じゃないかと思うような判定よりは少なくともかなり良かったからね。とりあえずその時点で、ここの大学の院に来てくれたら最高だけど、他でも、とりあえず良いだろうって話になった。結構他の経験者多いし、他に知り合いいる人も多いし。俺としては、そこにはあんまり興味が無かったから、楽しく君の結果を見てた。そして会議後、その件に関しては忘れた」
なんと鏡花院先生は、興味があることに熱中する点と、忘れっぽさまで私と似ていたのである。先生が本心を語っているかは分からなかったが、なんだか似ている気がした。
「そうしたら、院試にもかなり関わってくるゼミの希望調査者の第一希望が、俺のゼミだった。流れ的に一般的には、別に不思議じゃないけど、君の場合、俺のを第一希望にするのは変だ。成績的に、君を落とすことはない。だけど、おかしいだろ? どう考えても研究室に通ってた、専門の先生のところに入るはずだから。喧嘩でもしてるのかと不思議で、それなら後々後悔するだろうからと、珍しく俺から話しかけた。他の先生に」
「……」
「そうしたら、『学生なんだから好きなことをやらせるべきだし、あれは院でいくらでもできるから、希望は好きに出すように話したんだ。先生のところが第一だったのか?』と、言われた。まぁ、正論ではある。それにこの時点では、まだ君が、今後も研究室に通うんだろうと思ってた。それなら俺のゼミは三年でも出席しなくていいから適切でもある。毎回出てるんだから、それなりに精神分析方面にも興味があるんだろう。講義態度も出席率も成績も良いから、第一希望された以上、落とす理由もない。ということで、俺は取った」
「出席していたのがそんなに良かっただなんて……!」
私は嬉しくなった。あとは授業態度だが、これはただ緊張して喋れなかったため、真面目に見えたんだろうと考えた。ノートを取っていたのも良かったのかもしれない。私の成績は、他の人が授業に来ないんだから、良くて当然だ!
「それで合格出したあと、研究室の先生に伝えたんだよ。一応、研究室に行く日を聞いておこうと思って。俺のところだってさすがに発表日はあるから、その準備期間とか考慮した方が良いと思って。なんて俺っていい人なんだろうと思って、また珍しく俺から話しかけた。そうしたら、『雛辻は、もう研究室には呼ばない』なんていう。そこまで喧嘩したのかと思って驚いていたら、更に言われた。『才能あることと、やりたいことが違うって、悲劇だよな』とかって。俺は空気が読めないから聞いたよ。雛辻さんが何やりたいのか。そうしたら普段明るい比較的まともな先生に半泣きで怒鳴られた。『ばかやろー! お前のゼミ希望してるんだから、精神分析系なんだろ! くっそ羨ましい! ばかやろー!』とか、そんな感じ。うろたえたよ。『お前』とか『馬鹿』なんて言われたこと無かったから。そもそも君が、そこまで精神分析系に興味があるとも思ってなかった」
先生が煙草を消しながら、一人頷いていた。
そんなことがあったとは知らなかった。