【27】左手の指輪



「なので、三年のゼミが始まってからしばらく観察してみた。前々から、人の話を聞く時、君が人の目をじっくり見る癖があるようだとわかっていたから、君がほかの学生の方を見ているタイミングでひっそりと」
「え」
「結果的に、講義内容にもそれほど興味があるようには見えない。ただこれは、一年生の頃から俺は授業でやってたから、逆に質問する馬鹿な学生よりは頭が良いのだろうと思った。頭が良さそうな子からゼミとったのに、当時その講義を取ってて改めて基本的な質問をしてくる時点で頭が悪いし、個人的興味でその関連の文献すら読んでないこともよくわかるわけだから。だから君は、興味がないのかもう知ってるからなのか、少し判断に迷った。かといって、他の学生のように俺に興味があるようにも思えなかった」
「先生とずっと話してみたいくらい興味ありました!」
「そういう意味じゃない」

 それから先生が、左手の指輪をなでた。

「俺さ、モテるんだよねぇ」
「あー、ですよね。たぶん一限じゃなかったら、もっと講義に人が来ますよ。学科の友達とみんなで、先生格好良いって話したことなんかいもあります! どんな人が奥さんなんですか? 羨ましいってみんなで言ってたんです!」

 これは、事実である。お世辞ではない。
 私の言葉に、先生はまた笑い出した。しばらく笑ったあと、何度か頷いた。

「この指輪はね、今行ってるクリニックで患者さんから半分病的に恋されたり、ここの学生に恋されるのを阻止するために、一人で寂しくマリッジリングで評判のお店に出かけて買ってきたんだ。しかも自分の分だけ。すごく不信な顔をされたね」
「え」
「それに、俺の講義に熱心に出席する女の子、三分の一くらいはそういう理由。憧れレベルのものも入れるともっといっぱい。憧れっていっても、君とお友達が話していたような程度じゃない憧れ。片思いのまま終わろうって感じの憧れ」
「先生も冗談を言うんですね!」
「いや俺、冗談好きじゃないから」
「……べ、別に先生がモテないって言いたいんじゃないですけど、大学の先生を学生が好きになるって、あんまり知らないです。森博嗣先生の小説みたいです!」
「犀川先生と俺じゃ、確かに共通点は、煙草を吸うところくらいだね」
「先生も読んだことあるんですか!? 私の高校生の頃の愛読書です! あと、大学と行ったら火村先生!」
「そっちも嫌いじゃないけど。んー、けど俺は基本的には、乱歩賞作家とホラ大作品の二つを毎年買うことが多い。ミステリー自体はそこそこ好きだからそこそこ読んでるけど」

 そこから少しの間、小説の話をした。佳奈ちゃんは基本的にラノベしか読まないので、こういう話題ができて、とても楽しかったことを、よく覚えている。

「うーん、まぁこう考えてみると、大学の先生に学生が恋をすることもあるのかもしれませんね! お話の中だけに限らず!」
「そうなんだよね。で、俺はさ、この三年次ゼミの時、何人か、熱心に来てた学生と、あと僕の信者とか言われてた学生も落としてるでしょう? それくらいは、毎回出てたんだからわかると思うけど」
「はい。だからてっきりクジびきなのかと! 私、頭が良かったんですね! 天才!」
「――まぁそれなりに君の頭は、深く知らないから名言はできないけど、悪くはないと思うよ。だけどクジじゃない。俺の場合、みんな出席しないから、出席日数が評価の大部分になる。もちろん能力に関心があれば、多少出ていない学生もとってるけど。ただ、毎回出席している学生達で落とした人達は、別にゼミに入れる人数より多かったからじゃない。二年次に俺に告白してきたからだ。もちろんゼミに入れてくれという下心じゃなく、恋人になって欲しいという、そっちの下心。その下心でこれまであしげく俺の授業に出ていたわけで、精神分析系統に、何一つ本当は興味がない子達だ」
「嘘! 河東さんと戸川さんと七海さんと、あとそれ以外の子も、先生に告ったの!? 嘘! 知らない! 知らなかったです! 聞いたこともないです!」
「名前出すと悪いけど、まぁそうだね、その辺全員。あと、言いたくないけど、直接告白してない子なら、今のゼミにも結構いる。今のところ実害ないし、比較的精神分析自体にも興味ありそうだから、入れた」
「誰だろう。あのゼミ、あんまり仲良い子がまだいないから、全くわからないです」

 まだ、と言ったが、その後できるのかも分からないでいた。

「前からそれはなさそうだと思ってたし、話しかけられることもなかったし、目が合うのはただの癖だとわかってたし、君が俺を恋愛対象として好きじゃないというのは、今日、さらによく分かった」
「だって私彼氏いますもん!」
「だよね。君にいないと、ちょっと変。君も俺と同じでモテそうだ」
「え!? 私美人ですか!?」
「安心していいよ、俺も学生は恋愛対象外だから。というより、若い子好きじゃないんだ」

 先生は、私を美人だとは言ってくれなかった。ちなみに、今まで誰かに言われたこともないような気がする。悲しい話である。実家の遺伝子は、なぜ私には届かなかったのだ。

「つまり俺が言いたいのは、精神分析にもあんまり興味がなさそうだから、ありえないような気もするけど他の学生の例を考えて、君が俺を好きである可能性を考えたってことだ」
「先生! そんなことを疑ってるんなら、部屋に呼んじゃダメです!」
「……正論だけど、そうだった場合ね、きっぱりとお断りしなきゃならないし、それは他の場所では周囲に露見する。そうなると、来年他に行ってもらうことになるにしろ、残りの期間一緒なのに、やりづらいでしょ、君が」
「ああ、なるほど、そりゃそうですね。ありがとうございます! 心配してくれて!」
「それと一応言っておくけど、俺に惚れないでね」
「安心してください! ありえません!」
「そう断言されるのも、少し悲しいけど、客観的には大変喜ばしいね」

 笑顔の私の前で、先生はまた大きく笑っていた。
 その後、先生が珈琲を入れてくれた、私はそれを飲みながら、煙草を吸った。