【28】消去法




「さて、一番聞きたかったことだけど」
「はい!」
「まぁ最初にも聞いたんだけど、君には、精神分析に興味があるようには見えないんだよね。他の学生と比較するなら、彼らよりはあるかもしれない。ただ、実験なんかの話も聞いた限り、本気で興味があったら、もっと頑張ってそう」
「単純に、先生の講義が面白かったからです! 確かに、あんまり興味ないです!」
「前半は、一応お世辞込みとして受け取る。後半は、素直でよろしい。けど、つっこませて。面白かったって、それは、内容が? それとも、他の講義と比較して? こちらは喋り口とか講義方法って意味じゃない。精神分析にさほど興味がない君から見て、もしかして、他の講義はさらに興味がなかった? 消去法で、俺のところ?」
「……」

 あんまりにも図星だったため、黙るしかなかった。
 珈琲を静かに飲み、それから先生もまた煙草に火をつけた。

「沈黙の肯定かぁ」
「あ、あの、その……別に、興味がないってことじゃ、その……」
「確かにゼロでは無いだろうね。本も借りてたし。けど哲学も好きなの? ウィトゲンシュタインとかハイデッカーとか」
「別に好きってわけじゃなくて、なんとなく。名前が変だから、よく目につくので、たまに読むんです」
「名前が変って理由で、ああいうのを読む人もいるんだね。俺は、あまりあの内容は好きじゃなかった。ところで、ユングは好きなの? 分析心理に興味あるの?」
「いや、前にちらっと読んだことがあって、今回は、ゼミで触れそうだから復習しとこうと思って、関係ありそうなのを色々読んでたんです。分析心理はなんかよくわかんないです。精神分析よりよくわかんないです」
「そりゃあ良かった。俺、ユングは病的すぎて好きじゃないんだよ。ちなみに、関係ありそうなのって何?」

 私がフロイトだのクラインだの名前を挙げると、先生が微妙な顔をした。

「それ全部四年のゼミで勧める本だから、残念ながら今年はやらない」
「え」
「……面白かった? 読んでて」
「一回目に読んだときは、すごく面白かったですよ! レベルで言うと先生の講義のちょっと上くらい! なのにやらない! しかも復習にまで読んだのに、私、無意味!」

「phantomってどう思う?」
「んー、なんか今研究進んで色々、意見変わってるんですよね? 色々な見方があるみたいだからよく分からないけど、個人的にあの原本読んだ感じだと、どっからその発想になったんだろうって印象でした――」

 その後私はひとしきり語った。三十分くらい喋り続けた。

「――なるほどね。先生方が、君に院を勧める理由が分かった。雑談してて頭の良さは特に感じなかったけど、本当にあの本をじっくり読んだとわかるし、ちゃんと考えながら読んでるし、精神分析方面の院にも行ける。十分行ける。院というか、院って基本検査系やって心理士の育成する感じだから、おそらく研究者になる方面で期待されてるんだ。この大学でそういうのは珍しいね。念の為に聞いておくけど、院に行くの?」
「だってもうみんな就活準備しててSPIの勉強とかしてるのに、今更私がやっても……」
「別に行きたくていくわけでもないんだ。ちなみに、何専攻予定で、どこ志望?」
「まだ決めてないです。ただ、大学院は、ここの院だと思います」
「なるほど。専攻は――……真面目に決めてたら、俺のところには来ないな。うちの大学院、俺のゼミからの進学者、二人いれば多い方だから。とりあえず、院に行くことの回避のためで選んだわけでもないんだ、俺のところ」
「そんなこと知らなかったです。どうして信者がいっぱいいるのに、みんな行かないんですか?」
「卒論の問題。俺のゼミは、質問紙以外を許可してる。文献研究。つまり卒論じゃなく、就職組に多い、卒業必修とる学生達と同じくらい、楽しようと思えば楽ができるんだ。たまにやりたい子がいれば、質問紙の配布は手伝うけど、根本的にその考察とかを俺は手伝ったことが一度もない。統計系も俺は手伝わないし。ごくたまに自分からその他で手を貸す場合は、※構造化面接だけど、そういうのをやる学生は、既にボランティアとかで被験者を抑えて指導してくれる第三者がいるパターンが多い。君はそれには該当しないし、俺自身が行ってるクリニックでは、被験者の紹介をしたことも一度もない」

 なるほど、ロールシャッハの先生は、以前それで私に統計に入れてもらえと言っていたのか。なんだか色々と納得した。

「うちの大学院は、文献研究からはあんまり取らない。数年に一人くらい。かつ他の大学院ならば、文献研究が卒論っていうのは、かなり厳しい」
「そうだったんですか……」
「うちの大学でも文献研究で採る場合は、必ず俺のゼミ」
「私、文献研究やってもいいんですね!」
「質問紙も含めて、実験が嫌いだと素直に言っていいんだよ」
「……」
「それに、院じゃ臨床心理士の資格のために、検査系は一通り、どのゼミでも総合的に必修でやる」
「……」
「まぁ別に、俺のゼミに院で来てくれるのは、まだ性格をさほど知らないけど、現時点では歓迎するよ。とりあえず、俺の信者になって欲しいね、むしろ君に。だって他の信者より、とても沢山、色々読んで考えてる」
「それは嫌です。先生こそお世辞を言わないでください。いつも信者の人たちはわけのわからない難しい話をしてるのが聞こえてきます。あの輪に入れる自信がないです」
「学生にしてはマシだけど、くだらない話をしてるねぇそういえば」
「え」

 失笑した先生にぽかんとした。しかも先生は温厚だと思っていたので、悪口っぽいことをいうとはあまり思っていなかったのだ。

「俺の信者を名乗るんなら、さっきのクラインの話くらい出来るレベルになって欲しいものだよ。俺、大学ではゆるゆるで評判だけど、院や医大では厳しいことに定評があるから。大学院にしては英語レベルが低いここの院ですら、英語論文熟読させて毎回発表だ。そっちが忙しいから、大学の方は楽な感じにしてるんだよ。文献研究以外にも、俺の信者とやらの頭が悪いというのも問題だ」
「! 絶対先生の院の所だけはいきません」
「大丈夫。雛辻さんなら、俺のところを含めて、どこに行っても、なんとかなる」
「英語が大嫌いなんです! 大学院入試って、どこも英語難しいんですか!? 嘘! 嘘! 私もう、大学院行きたくないです!」
「――は?」
「英語なんて無理です! 無理だ! うわああ! 今から就職活動しないと!」
「……」
「SPIって四年生になっても取れるんですか? でも、四年生になった春にはみんな決まってるし……先生! 私はどうすればいいですか!?」

 半分泣き出した私を、先生は奇妙な顔で見ていた。目を細めた後、タバコを深く吸い込んだ。しかし私はそれどころではなかった。英語なんて嫌だ。無理だ。

「雛辻さんさ、一組だよね? たしか、青田くんとそれが縁で知り合いだとか」
「はい!」
「うちの大学さ、入学前の英語成績で、クラス分けしてるって知ってるよね?」
「え!?」

 なんと、私はその事実を、これまで全く知らなかったのである。
 後で周囲に聞いてみたら、当然のこと過ぎて、誰も話題にしなかったらしい。

「しかも院志望者は英語の成績表、今回のゼミの前に配られたから知ってるけど、君と青田くん以外、一組ですらほとんど英語出席者いなかったのは別として、小テストも普通のテストも、ほぼ満点で二年まで来た。三年からは英語ないけど、現状維持なら大丈夫」
「あれは英語の先生と仲良かったから出てただけで――」
「出ててみんな良い成績が取れるんなら、良いよね。君の場合、今後英語で覚えなきゃならないのは、心理学専門用語の単語だけだ。しかも院試では、難易度が高い心理専門の英単語は、試験時に辞書を配布されるから、そこに載ってる」
「無理です! だって大学の英語、高校より簡単でした! なのに難しい心理学のなんて!」
「――もしかして滑り止めでうちに来た人?」
「違います! そんなことより先生! 今から就職活動は、どうすればいいんですか!? とりあえず、就職課に行けばいいんですか!? どうしよう、どうしよう!」
「まず、俺は二つ分かった。ひとつ目、君は人間として、頭が悪い」
「……それは、就職できないってことでしょうか……?」
「違うよ。そういう勘違いをする辺が、頭が悪いってこと。安心させるためだけに言うけど、院試と公務員試験落選者のために、四年時後期に採用試験やってる会社は沢山あるから、院に落ちてから考えた場合ですら、就職は可能だよ」
「!」

 私は知らなかったその情報に、嬉しくて泣きそうになった。
 教えてくれた先生が、救世主に見えた。

「二つ目に分かったこと。君は、とても変わっているという事だ。そういう変な人は、一般社会で普通に生きるのは、非常に大変だ。だから悪いことは言わないから、大学院に行って、そのあと臨床心理士の資格は取るにしても、臨床家ではなくて、大学に残ったほうがいいよ。最近は、助手も大変みたいだけど、おそらく君には、会社員は無理だ。どこからどう見ても遠くから眺めたり聞いた感じ、リア充で、営業とか余裕そうだけど、直接話すと無理としか思えない。例えば外資の保険会社の営業が君で、普通は入れないような高レベルのものを勧められたとしても、俺は絶対断る」

 笑顔の先生の言葉に対し、私はムッとした。

「確かに私はインドアです! すごいひきこもりです! だけど普通の人です! 変わったところなんてないです! リア充じゃないし、営業は死んでもやりたくないけど、会社員にきっとなれます!」
「無理だね。直感としても、経験談としても、断言して無理だ。あと、やっぱり変」
「変じゃないです!」
「変な人はみんなそういうんだよ。普通のひとに限って『私って変わってるからァ』とか言うんだ。たまに羨ましくて、蹴り飛ばしたくなるよ」
「――変って……先生は別に特に変じゃないけど、経験談?」
「俺を普通と言ってくれる君がとても好印象になった! 俺、普通だよね?」
「はい!」
「でもみんな、変って言うんだ。変なのは奴らだ。そう本気で思ってるんだけどね――残念ながら、客観的評価として、多くの人間は、俺の方を変だと言うんだよ」
「可哀想です」
「安心していい。君も可哀想な側の人間だから」
「え」
「経験談として言うけど、医師免という国家資格が無ければ、多分俺は今頃、どこに雇ってもらうこともできず、絶対無職。国家資格って良いよ。人生結構なんとかなるから」
「そうなんですか」

 そこから雑談が始まった。
 まぁそれまでも雑談みたいなものだったわけではあるが。