【71】恋人
「雛辻さん」
声をかけられ、肩を小さく叩かれ、ハッとして私は目を覚ました。
するとそこには、穏やかな表情の鏡花院先生の顔があった。
「起こしてごめん。だけどそろそろ帰らないと」
「あ、ごめんなさい」
慌てて起き上がり、ベッドから降りようとした。
「その格好で帰るの?」
「え?」
何の話か分からなくて視線を下ろし、自分の格好を見て、思わず照れた。
瞬時に真っ赤になった自信がある。
動揺して、自分と先生を交互に見た。夢では無かったのだ。
「可愛いなぁ。まぁいいや。服、ちゃんとしよう」
こうして先生に手伝ってもらい(!)、私は服を整えた。
「ありがとうございました!」
「いえいえ。さて、帰ろうか」
「一人で大丈夫です」
「無理だと思うけど、一応聞こうかな。どこに帰るの?」
「え? 上村先生のお宅ですよね?」
「だからあそこは上村先生のおうちじゃないんだって。これから俺は、実験が終わったので、自分の家に帰ります。実験だったのでどこも悪くないですが、この成果をまとめるためと、予定では類似の他の実験協力をするはずだったので――取りやめましたが、お休みは事前にもらってあります」
「なるほど! じゃあ私も自分の家に――そっか! 無理って、もう終電が無いんですね!」
「不正解。雛辻さんも俺の家へ帰るんです。貴方は、休暇中でとても暇なので、その間俺のお手伝いをお願いします。逆に今から会社に行ったら変だ。政宗くんが上手くやってくれてるから、悪いけど待ってて」
「はい! ……はい?」
「荷物はもう俺の車に積んである」
「で、でも」
「恋人の家に行くのは嫌?」
「恋人……」
「あんなに気持ち良くなれたんだから、雛辻さんはちゃんと俺のことが好きだから大丈夫」
「……」
「珍しいな、雛辻さんが表情で返事してる。そこまで照れられると俺まで恥ずかしくなるな。純情だなぁ。よし、行こうか」
そう言うと、先生がなんと私の手を繋いだ。
驚きながら、一緒に歩く。骨ばった、本当は細めの指だ。長いけど。
手を引かれて駐車場へと行き、先生の車の助手席に乗った。すぐに車は走り出した。
「家に女の人を呼ぶなんて、雛辻さんが入学するものすごく前が最後だ」
「え!? そうなんですか!?」
「どうしてそこで驚くの? 本当だよ。基本的に恋人でも、相当親しくなきゃ、自分の家には呼ばない」
「そうなんですか……?」
「相手の家に行くかラブホ」
「なるほど!」
「やっぱりそういうこと聞いてたんだ」
「っ」
「素直だなぁ……なんだか不思議」
「なにがですか?」
「無性に君が可愛く思えて」
「え」
「俺も『え』って感じ。いつからこんなに好きだったんだろう」
「……」
「全然気付かなかった。今のところ本気でずっと一緒にいたい。雛辻さんは、そういうの嫌いだって知ってるし、俺自身も好きじゃないんだけど」
「ひ、久しぶりの恋で盛り上がってるとか!」
「だと良いんだけどね。なんだか嫌な予感がするんだよね」
「嫌な予感?」
「ちょっとね。まぁ良いじゃん。そうだ、何か食べていく?」
「私お昼しか食べないから」
「一日一食もどうかと思うけど、これからはとりあえず夜にして。俺、昼間は寝てるから」
「あ、はい!」
「何食べようか?」
「先生は食べたいもの無いんですか?」
「豆腐も枝豆も別に好きじゃないし、今は蕎麦を食べる気分でもたらこスパゲティを食べる気分でもないかなぁ。どうしようねぇ」
「え、なんで? どうして私の好物を!?」
「最初の二つは政宗くんに聞いた。蕎麦は大学で君がそれしか食べてなかったから。たらこスパゲティは、君がファミレスでそれしか頼まないって聞いた。情報収集の一環のつもりだったんだけど、考えてみると研究に関係ないから、単純に君の好きな食べ物を最初から知りたかっただけみたいだ。本当に困ってるんだよ。まさに君のプーケットの人物描写のように、無駄な情報が俺の研究日記におそらく大量に混入してる」
「えー! ねぇ、先生? 上村先生に言われたから、そう思い込んでるだけじゃ?」
「それも考えたんだけどねぇ。そうだと良いなぁって思ったんだけどさぁ。考えれば考えるほど、雛辻さんが大好きだっていう結論しか出てこなくて」
「先生って、沢山好きだ好きだって言うんですね!」
「これも不思議なんだよ。今までは言ったことないの。言われてたんだよ。雛辻さんが言ってくれないし、こっちから言わないと気づかなそうだっていうのもあるんだけど、まぁ雛辻さんには言いやすいというのもあるし、色々考えられるんだけど、なんだか言っちゃうんだよね。雛辻さんが好きなんだもん。我ながら不可解。こう考えると、かなり好きだったから、君彼氏もいたし、大学に影響力のある知人も多いし、慎重になってたのかなぁ、らしくなく。らしくなさすぎるから、考えないようにしてたのかな。とすると、確実にだいぶ前から好きだったんだよね。どう思う?」
「お肉とお魚と野菜はどれが好きですか?」
「俺の話を聞いて! お願い!」
「あ、ごめんなさい! 食事のメニューを考えてたら頭がいっぱいで!」
「確かにお店閉まっちゃうしね。雛辻さんは、特に食べたいものが無いの?」
「あんまり思いつかなくて。何でも良いです。だけど、決めろと言われたら、頑張って決めます!」
「ああ、じゃあ、俺の行きつけでも良い?」
「はい!」
頷くと先生が、電話を始めた。英語で。
ぼんやりと眺めていると、すぐに終わった。
「そこそこあっさりって頼んでおいてみたけど、ガッツリが良い?」
「あっさりが良かったです! ありがとうございます!」
「じゃあ、一回俺のマンションに車おいて、近所だからそこから」
「はい!」
「それでいつからだと思う? 俺が君を好きになったの」
「へ?」
「俺の態度が変化した時期に心当たりとかない? 君から見て」
「んー、まず、面談が決まった日にそれまでとは印象が変わりました。初めて話して」
「まぁねぇ、そうだろうね」
「あとは奥田先生の名前だした時と、健忘症が分かった時」
「――練炭と首は?」
「あれは事件にはインパクトがあったけど、そこまで態度は。あとは、卒論見せた日と、就職後にちょっと変わって、特に政宗さんの話になった辺から、素が出やすくなってました」
「なるほどねぇ。こう考えると、面接決めた日に、自分に惚れるななんて言った段階で、もう俺の側はある程度惚れてたんだろうなぁ」
「え?」
「それで奥田先生と話した段階では完全に好きだったから、君の昔話まで知りたくなってたんだろうね。研究興味もあったけど。練炭と首は、とっくに惚れてたから、純粋に生きてて良かっただけか、性欲的な意味でも。そもそもこの段階で他に回さないんだから、大好きだったんだ。健忘症も考えて見るとその場で普通は自分で連れて行かないし、心配し過ぎたんだ。卒論も心配。ほっとけば良いのに、おかしかったな。社会人になってからは会える時間減ったから、会えると相当嬉しかったから態度変わってたんだ。政宗くんのは、自分の友達の話が君の口から出て楽しかったのと、あとどこかで年の差気にしてたんだろうなぁ。とすると四年間好きなんだ。俺、よく耐えたというか、気付かなかったな」
「絶対気のせいですよ」
「じゃあどうしてこんなに腑に落ちるのかな?」
「えー?」
そんなやりとりをすると、なんだか呆然とするほど高級そうなマンションについた。
マンションというより、豪華ホテルだ。
エントランス前で先生は車を係りの人にあずけ、そばの車の扉を開けてもらった。