天才研究室【1】
――ママは美人だ。
鏡花院緑はそう確信していた。目元だけ柔らかい美人。大きなパッチリとした目をしていて、まつげが長い。お化粧をしていなくても、マスカラをしているみたいだから不思議で、ある日そういう手術をしているのか聞いたら、「そんな手術があるの!?」と驚いていた。ちょっと頭の方は、抜けているみたいだ。
目元以外は自分もよく似ているのに、私は一度も「頭が悪そうだ」とは言われたことがない。パパに似たからだろうか。そして実際に私は、頭が悪くない。緑はそれをよく知っていた。だけどママは頭が良くない。明らかに私はパパ似だ。パパはママを外見で選んだのだろうか。少しそう悩んだ時期もあるが、どうやら違うらしい。
二歳で物心が着いた時を振り返ってみるが、その時から今まで、変わらずママは、いつも穏やかに笑っていて、非常に優しい。今もニコニコしながら、私を見ている。私は抜けていると思うけど、パパはママのこういう部分が好きなのかもしれない。私は、相手がママじゃなかったら、付き合う気も起きないけど、ママだけは別だ。抱きしめて頭を撫でてくれるママが大好きだ。
だから私も、ママの前では、つい笑顔になってしまう。
本気で私が笑顔になるのはパパの前だけだ。ただ、不思議とママの前にいると、頬が緩まずにはいられない。これがとても不思議だ。私はバカが嫌いなのに。
馬鹿というのは、例えば、研究室のみんなだ。先生も含めて頭が悪い。
私と兄の鏡花院紺は、三歳からこのスウェーデンにある、天才研究室という機関にいる。その頃には既に、日本語も英語もばっちりだった点は、私の兄として紺を認めてもいいかもしれないが、本当に喋れるのかは知らない。だって紺は、ずっと黙っているから。積極性がない。まだ、最近二歳になった、私達の弟である双子の三男青と四男白の方が、日本語も英語も堪能に思える程だ。パパ曰く「計画外だったから、糸へんの名前が思いつかなくてねぇ」と言っていた弟達だが、青と白も私から見ると頭が良い。二歳であるにも関わらず。ママはそんなふたりのことも大好きみたいだけど、パパのいいつけで、パパが帰ってくるまではハウスキーパーの人々に面倒を見てもらっている。
この研究室には、私や紺と同じ、天才児と呼ばれる子どもが集まっている。年齢は、私達が一番下で、上は十歳。最初はスウェーデンの言葉を少し覚えたが、私はすぐに話せるようになったし、読み書きに不自由は無い。ママは聞き取りが少しできる可能性がなくもない状態らしいから、紺もそうなのかと思ったら、そうでもなかった。そこはさすがは私の兄だ。ペラペラだった。基本的にカリキュラムは英語で進む。そこで一年間ほど私達は、総合教育を受けた。ママ曰く、「こんな小さな子が高校生の範囲まで勉強するの!?」とのことだったが、非常に簡単だった。パパは優しく笑っていた。他にはディスカッションや発表訓練、創造性を高めるための図画工作や楽器の練習などをした。どれも簡単すぎた。ペーパーテスト以外においても、その全てで私は評価された。周囲が馬鹿だという感情も、先生さえ馬鹿なのではないのかという思いも、私は年齢はともかく大人であるので黙っておいた。しかしテストの時だけは、私の他に紺も常に万点だ。紺も馬鹿ではないようだ。
そう考えながらママとお話していると、扉が勢いよく開いた。
「ただいま、伊澄」
「紫さ――」
ん、とママが言い終わる前に、パパはママを抱きしめてキスをした。
いつものことである。ママは「夫婦は、いってらっしゃいのチュウとおかえりのチュウをするの」と言っていたが、それは間違いだと私は知っている。パパはママがちょっと抜けているのをいいことに、熱烈なキスなのに、それが真実だと教えているのだ。普通は唇に軽くらしいもの。きつく抱きしめて逃げられないようにして、長時間キスしていたパパは、それが終わってから私を見た。
「ただいま、緑」
「おかえりなさい、パパ」
私が知る中で、もっともかっこいい男性だ。パパと同レベルの相手でなければ、私は対等に話せる気がしないし、そうでなくとも外見も非常に魅力的だ。パパの家族はみんな似ているけれど、中でもパパが一番格好いい。頭も良く、見た目も良く、性格も良い。なんでもできる。パーフェクトという言葉は、パパのために存在するのだ。
そんなパパは、ママを熱烈に愛している。逆じゃないのが理解できない。男性は、馬鹿な女性が好きなのだろうか? ならば一生独身で構わない。馬鹿な男なんて、願い下げだもの。
その時扉が開いた。
「ただいま、紺」
パパが、だれもを魅了するような笑みを浮かべた。さきほど私に向けたのと同じ表情だ。パパも、ママと同じで、紺と私を同じように可愛がってくれる。
「おかえり」
大きな絵本を持っている紺は、無愛想に言った。ニコリともしない。紺の取り柄は、パパに似た外見くらいだ。多分頭の出来は、ママに似ていると思う。私はママのいいところを受け継いで、紺はママの悪いところを受け継いだんじゃないかしら。
夕食は、いつものようにシェフが作りに来て、出してくれた。
弟達も一緒に六人での食卓。
ママはご飯をあげるのがあまり上手ではないけど、頑張って白に食べさせていた。
パパは青に食べさせながら、ママを手伝っている。
不思議なことに、私達が生まれてから、パパは昼間起きているのが得意になったそうだけど、そんなことってあるのかしら? 今でも冗談だと思っている。なんでも昔は、パパは昼間しか眠れなかったらしい。睡眠障害でもないのに。そのおかげで、パパは今、スェーデンの大学院で、研究をしていられるらしい。パパは精神科医で、研究者なのだ。
家族だけの食卓では、もっぱらパパと私がしゃべっている。最初はパパが、本日何かあったかなとママに質問攻めだが、ママは毎日、今日食べたもののお話をしている。私はパパが聞きたいのはそういうことではないと思うのだけれど。それが終わると、パパは頷いて、今度は青と白に本日の出来事を聞き、そこでようやくパパが聞きたかったのだろうハウスキーパーやシェフについて、白が淡々と答える。青は、「大体白の言うとおり」と時々頷く。それはすぐに終わるので、以後食事が終わるまでの間は、ほぼずっと私が研究室について語る番になる。
「――だから、明日のディスカッションまでに、興味のある分野を決めておかなきゃならないのよ。職業を視野に入れて」
明日のディスカッションと将来の希望調査について私はパパに自慢気に語った。
「私はもちろん医学よ。中でも精神医学。将来は医者ね」
私の回答に、パパが悠然と微笑んだまま頷いた。ママは、わかっているのかいないのか、いつもどおり笑顔でふんわりとした風に頷いている。するとパパが今度は紺を見た。
「紺はどうするの?」