天才研究室【2】
するとずっと一言も喋らなかった紺が顔を上げた。
「父さんは本当に医者なの? それとも研究者?」
そして非常に珍しいことに、質問をした。私は少し驚いた。医師免許をとって臨床をしつつ研究するのは当然のことだと思うのだけど、今更何を馬鹿げたことを聞いているのかしら。
「――研究一本で生活するのは厳しいからね。生計を立てることを念頭に置くなら、資格取得は比較的楽な人生を送れるよ」
するとパパが珍しく楽しそうな目をした。ママ以外にそういう顔を向けるのは珍しい。
紺は小さく頷いたあと、他には何も言わなかった。
それからは、再び医学の話に戻り、精神医学を主軸に、ほかの分野についての話になった。パパの方の家族は、ほとんどみんな医者だから、様々な分野の人がいる。
こうしてしばらく話していると、青が言った。
「あきた」
「ごちそうさま」
紺も手を合わせた。食後に手をあわせるのは、日本式のマナーだ。唯一ママから習ったことだ。大抵いつもこのふたりが、こう言うと、食事は終わる。皿を見てみると、残している分は兎も角として、紺はすべてをバランスよく食べていた。ここだけが、兄の家族の中で一番秀でているところだ。好き嫌いがないのだ。ほかは全員、パパでさえも嫌いな食べ物がある。もちろん、味覚嫌悪条件付などではない。例えば私は人参が嫌いだ。ママは私に、「人参は食べたほうがいいと思うの」というので、私もママに「アスパラを食べたらどうかしら」と言ったら、涙ぐまれた。パパはママのアスパラを食べてあげて、自分のコーンを、ママのお皿に移していた。青と白は、まだ小さい子供用の食べ物だから、好き嫌いはよくわからない。
その後は、歯磨きをしてから、リビングに移動した。
そして私とパパがほとんど喋り、たまに白のターンになり、時折青が言葉を挟み、ママはニコニコ聞いていた。たまに相槌を打つ。青はパパの膝の上、白はママの膝の上だ。紺と私は一人用のソファ。紺は、くだらない絵本を読みながら黙っている。その後、パパとママが青と白を眠らせに行った時、珍しく紺が私を見た。
「進路希望の調査書書き終わってるんだ」
「あたりまえでしょう?」
「見せて」
「いいわよ」
私がそばに置いてあった鞄から取り出して渡すと、それをじっと見たあと、紺は自分の紙を取り出して、真似して書き始めた。しかたがないわね。兄妹だもの。そう苦笑しながら、私は見ていた。パパとママが帰ってくる前にそれは終わったので、私達はしまった。それから今度は四人で少し話した後、私と紺は部屋に戻った。戻らないと、おそらくあと二十分もしないうちに、それとなくパパに部屋へ行ったらどうかなと提案されるだろうとわかっていたからだ。パパはとにかくママと一緒にいたいのだ。ママは気づいていないようだけど。パパはそんなママに、幼少時における睡眠の大切さを滔々と語って聞かせていた覚えがある。
こうして翌日の研究室で、私と紺は、医師になるという希望書を提出した。私は精神科医、紺は『外科医』と書いてあった。何を専門にするかは書いていなかった。私は精神科の中でも特に何をしたいかまで詳細に書いたのだが、紺は違った。ただしほかの多くも紺と同レベルの書き方だったので、先生は何も言わなかった。ディスカッション後、今回の希望にかかわらず、最後の一年で、ひとつ自由研究をすることになった。もちろん私は医学について研究することをその日のうちに決定した。一ヶ月程で草案が完成したので、二ヶ月目までの間は、直接専門家の医師達に質問へ行くことにした。パパと話しなれているせいか、期待していたのに、専門家は少し頭が悪く思えたが、もちろん言わないでおいた。三ヶ月目にはそれらもまとめ終わったので、もう少し詳細に研究しようか悩み始めた。
珍しく悩んだので、夕食の席で(主にパパに)相談してみることにした。
すると珍しくパパが、「食事が終わったら今までの文を読ませて」と言ってきた。
基本的にパパは研究室の内容には口を出さないから、珍しかった。
期待されていると思って、私はとても嬉しかった。パパは私の才能をきちんとわかってくれているんだもの。対等に話せるのは、パパだけなの。
その時、ママが紺を見た。
「紺は何をするの?」
少しの間黙っていた紺は、じっと母を見てから、ポツリと言った。
「まだ考えてない」
私とパパは、笑ってはいたが、非常に生暖かい目をしてしまった。
「まだ九ヶ月もあるものね!」
「――九ヶ月しかない。その間に、興味があるものが見つかるかな」
「きっと見つかるよ! 私も大学の卒論の時見つからなくて、映画を見て決めたの! 紫さんが、少し前に、映画を見てみたらって言うから、見ていて、これにしようと思って!」
「何を見たの?」
「アルマゲドンだったかしら!」
「それ、どんなの?」
「宇宙から隕石が降ってきて、破壊するお話!」
「へぇ。母さんは大学では何を勉強していたの?」
「心理学よ! 紫さんが先生だったの! そうだ、紫さんと緑が論文を見ている時に、お星様をベランダに見に行く? 月にはウサギさんが住んでるの! 星座も教えてあげたいけど、私にはお星様は全部似たように見えるの。図鑑があればいいのに……」
「図鑑はある。見に行こう」
珍しくふたりが喋っていた。しかし、ふたりは星を見ている場合じゃないと私は思う。論文の話はすでにどこかへ行ってしまっているし! しかし同じ思いであろうパパをちらりと見ると、楽しそうに笑っていた。その後、青と白は、その日は早く眠らせて、わたしはじっくりパパに見てもらった。パパは研究室の先生よりも的確にダメな部分を教えてくれたし、質問に行った専門家の見解にも疑問を唱え、私が悩んでいる点の詳細研究を勧めた上で、私の才能を絶賛してくれた。そこへママと紺が戻ってきた。
「紫さん、紺はとっても視力がいいみたい!」
「伊澄も良いと思うけど、どうして?」
「星座をすぐに発見したの!」
パパはそれまでとは一転して爆笑していた。パパがこんなふうに笑うのはママの前だけだ。それからしばらく、紺は、小さい子供向けの星の図鑑を見ていた。その脇で、パパは私の論文についてママに話、ママはニコニコしたあと、私の頭を撫でてくれた。ママには難しくて分からないみたいだけど、ママも私がすごいという事はわかってくれたみたいだ。
その後、私は研究を続けた。紺は、図書館にばかりこもっていた。私は何度もいろいろな人に聞きに行ったり、精力的に研究していたのだが、紺はずっと図書館にいた。夕食時はほとんど私の研究の話になった。紺は何も言わない。こうして五ヶ月目になったある日、珍しく紺が、パパに声をかけた。
「パパ、これが欲しいんだけど」
「――そんな気がしたから、これをもらっておいたんだ」
パパはそう言うと、紺から受け取った紙を眺めつつ、一枚のカードと、PCへ接続する専用器具を渡した。カード情報を読み取る装置だ。
「ただし約束して。きちんと眠ってきちんと食べること」
「少なくともこの家庭で一番健康管理ができていると思うけど」
「ぶは」
紺の答えに、パパは爆笑していた。
「じゃあ付け加えるけど、夕食も食後も今までどおりにしてね」
「――わかった。ありがとう」
後で聞いた話だと、NASAの収集している専門文献検索システムへの接続許可証だったらしい。そしてみんな大体書き終わった。私が一番最初に完成させた。発表期間は、一番遅くて卒業式の半月前だったのだが、早い場合は三か月前で良かった。一向に変化がない夕食時、私は発表日時について相談した。すると良いかもしれないという話になったが、祖父母も見に来るそうで、かつこれは、専門家の前で行うため、日程調整を考えなければならないという話になった。そこでパパが、ちらりと紺を見た。
「紺は、終わった?」
「うん」
私は驚いた。終わっていたとは知らなかった。最近、パソコンしかしていないと思っていたが、それも研究のためだと思っていたのだ。他には、図書館に通っていた頃から、たまに星の図鑑をプレゼントしてくれた母方の祖父に電話をしていたくらいだ。これはパソコンを見てからも、時折していた。ただ、ちらりとパソコンを見た時、紺はアルマゲドンを見ていたことを、私は絶対に忘れない。半分は遊んでいると思っていた。日本にいる祖父も、あまり頭が良くないのだ。ただ、とても明るくて、良い人だ。
「じゃあお祖父ちゃんとお祖母ちゃんが来る日程もあるし、二人で連日で調整してもらおう」
こうして私達の発表日は決まった。
紺の論文を見たパパは、「俺は専門外だから、専門家に聞いたほうがいいね。だけど文才は俺に似て、本当に良かったよ。ちゃんとコメディじゃなくなってる」と言っていた。先生は、「――専門家の皆様の意見が楽しみね」と言っていた。私は、論文でコメディという意味がよくわからなかった。