【9】



 周囲は視線を交わしている。私と同じ思いもあるだろうし、今にも自殺しそうな空音にかける言葉も迷うところだし、しかしも私をかばっている空音を今否定するのもまずいのは明らかだ。迂闊に刺激するわけには行かない。紫さんの笑顔すらひきつっている。

 するとその時、視線の会話にすら参加せず、ごくごくいつも通り、聞いているのか不明どころか興味が全くなさそうな感じで腕を組んでいた父が、静かに私に歩み寄ってきた。なんだろかと思い見上げた瞬間、頬が熱くなった。平手で思いっきり殴られたのだと気づいたのは、右によろけてソファに座り込んでしまった時である。

「ちょ、優馬」
「うるさい、黙って」

 声をかけた紫さんを、父が睨みつけた。そんな光景を見たのは初めてである。しかも紫さんを黙らせることに成功していた。絶対黙ることなどありえない紫さんですら呆然として凍りつくレベルで、父の視線は鋭かった。

 私は、父が怒っている姿を初めて見た。生まれて初めて、人生で初めてだ。それは周囲の全員が同じだと思う。なんと空音でさえも、ぽかんとしていた。先程までとは表情が違う。一瞬にしていつもどおりになっていた。いつもはぽかんとしていないけど、色気が消えたのと、死にそうな空気が消え去っていたのだ。それほどまでにこれは、空音が私をかばうことよりも驚いてしまうほどの、異常事態で、想像できない展開なんてレベルではなかったのである。

 しかも――私が知る人間の誰よりも、一族の誰よりも怖い。圧倒的な恐怖がその場を支配していた。私以外も皆、凍りつくレベルだ。

「佳奈、空音くんに謝罪して」

 怖すぎて声が出なかった。小刻みに頷いてから、私は空音を見た。

「ごめんなさい」

 謝る声が震えてしまった。それを見たあと父が続けた。

「勿論、謝罪すれば許してもらえると考えているほど愚かとは思わないけど、話を聞く限りそのくらい愚かな可能性があるから念の為に。佳奈、今後一生君が許されることはない。少なくとも僕は許さない」
「……」
「そして、君にまだ残りの人生が許されているのは、君が最悪なことに実奈の娘だからだ。実奈が君を愛していなければ、僕は迷うことなく、この場で君を殺してる」
「……」
「僕は君が死ぬべきだと確信しているし、今現在、この手で殺したくて仕方がない」
「……」

 父の目は本気だった。時折父が、下ろした腕の片手で撫でるボトムスにはメスが入っているのを私は知っているし、またそれとは逆の時に撫でる左側には注射器が入っているのも私は知っている。そちらには、首を絞めるのにも最適な、ゴムチューブも入っている。

「君の態度次第では、実奈が愛の喪失を経験して悲しむことが気にならない状態になると思ってる。今夜君が眠ったそのあと、殺さない自信がない。まだ死にたくないなら、早急に姿を消して、二度と僕の前に顔を見せないことだね。世間では勘当されたというのかもしれないけど、純粋に、君の生命維持のために、早く出ていくと良い」
「……」
「子供が出来ていたら、僕には決して顔を見せず、その子供だけを家族の誰かに引き渡して。君のような死ぬべき人間の手で育てられる子供こそが不幸だ。父親が誰かよりも、君が母親である点こそで最低の人生が決定だ。こちらで育てるから。これを守らなかったら、その時点でも、僕は君を殺しに行く」
「……」

 怖すぎて私は何度も頷いた。

「じゃあね。もう二度と会うことはないだろうけど。早くいって。視界に入るのも不愉快だ」

 私は素直に従うしかなかった。一言でも反論すれば、殺されると直感的に分かった。涙を浮かべるのもこらえた。そうすればやはり命がなくなっていたと確信している。そして周囲もそれをよく理解していたようで、というか父が本気すぎて誰だってわかる、私に声をかけることは無理だった。全員震えていた。しかし私が扉に手をかけた時、ハッとしたように空音が息を飲んだ。

「待っ、優馬、だから佳奈は悪くな――」
「仮に本心から優しい空音くんがそういうのであっても、僕にとって佳奈は悪い――というより正確に言うならば、不愉快な存在になったんだ。君に対しての謝罪とは違う部分で、これは僕の個人的な感情の問題だ。僕は佳奈を許さない」
「優馬、でも」
「空音。君は何も悪くないけど、僕は今非常に気が立っているんだ」
「だとしても、だったらむしろ、俺を殺してくれればいいだろうが! お前は殺したい、俺は死にたい、最高だろうが! それでお前は刑務所に行く! 佳奈はここにいたっていいだろう!? 娘が強姦されたから相手の男を殺しちゃった風に行けば、きっと刑期も軽く済む!」

 やっぱり空音は死にたいのだなと思うと同時に、空音の説得方法は間違っていると思ったし、あとは、こんなに私のために頑張ってくれるところはちょっと嬉しかった。苦笑しそうにもなったけど(もちろんそんなことをしたら死ぬのでしてない)。

 父は少し黙ったあと、じっと空音を見てから、歩み寄って手刀を叩き込んだ。
 え。
 空音は気絶した。

「佳奈、早く行って。それとも死ぬ?」

 私は出て行った。