5




 ――今日の昼食もカレーだった。流石に飽きる。だけどほかに食べるものがないのだから仕方がないではないか。いや……ある、あるではないか! ポテトチップス(のりしお)が! そう思い立ち、俺は立ち上がった。

「誉?」
「ごめん、僕どうしても、ポテトチップののりしおというものを食べてみたいんだ。自社製品の味を確かめてみたくて」

 告げながら、ポテトチップがしまってある戸棚へと向かう。
 存沼も興味があるのか立ち上がって付いてきた。ポテトチップスは、思いのほか戸棚の高い位置にある。だから俺が背伸びをしようとした。

 その時のことだった。

 屋根から雪が落ちたらしい。ゴゴゴゴゴと音がして、ロッジが揺れた。息を飲んだ瞬間、俺は思わず体勢を崩した。そしてポテトチップをあけようとしていた皿を取り落とした。床の上に破片が散る。慌てて手を伸ばし――「痛っ」

 俺は指先を破片で切ってしまった。赤い血がぽたぽたと浮き上がって、流れ始める。

「誉!!」

 すると存沼が勢いよくそばに来て、しゃがみこんでいる俺を中腰で見た。
 俺はびっくりしていたから、床を凝視している。
 このお皿……相当値が張る代物だ。
 そんなことを考えていると手を取られた。

「大丈夫か?」
「う、うん。平気だよ。それよりも、お皿、ごめんね」
「皿なんかどうでもいい。見せてみろ」

 存沼はそう言うと、怪我をした俺の手を取った。それからじっと見据え、静かに嘆息する。

「破片は刺さっていないみたいだな。傷も浅い」
「うん、だから平気だよ」

 ただじわじわと痛むだけだからな。そんなことを考えていると、俺の手首を掴んだ存沼が口の高さまでそれを持ち上げた。そして――……!?

 切れてしまった、俺の人差し指と中指の間に舌を這わせた。それから二本の指を口に含まれた。最初は呆然としていた俺だったのだけれど、そのうちに、背筋をゾクリとした感覚がこみ上げてきた。在沼はあくまでも手当をしてくれているのだろうけれど――あんまりにも艶かしく、丹念に舐められたのだ。指の隙間を行き来する舌、指全体を覆う唇。痛みなんか、驚きで消えていった。むしろ、自分の体が覚えたおかしな感覚に、驚愕する。

 ――存沼が口を離してくれた時まで、思わず無言で俺はそれを見守っていた。唇が離れた時には、うっすらと傷口はあるものの、血はすでに止まっていた。

 心臓がドクドクと騒ぎ立てる。こ、これはきっと、存沼の舌使いが無駄に扇情的だったからに違いない。うん。きっとそれだけだ! 

 だけど顔を合わせているなんて、羞恥で出来なかった。

「マキ君、体にお皿の破片がついているかもしれないから、僕、シャワーを浴びてくるよ」

 俺は、シャワールームに逃亡することにした。本当は先に掃除をするべきだと思ったのだが、存沼が危ないから誉はやるな、だなんて言ったのだ。今だけは助かった気持ちで、俺は若干悪いなと思いながらも、存沼にすべてを任せることにした。

 ――それから、熱いシャワーを浴びながら考える。俺の心臓は、まだ早鐘を打っていた。

 存沼は……悪い奴ではないのだ。むしろ、最近だけ見れば、本当に良い奴だと思う。遺跡を巡ったり、劇では監督を目指しているのかというほどの真剣さを求める、どこかぶっ飛んだ完璧主義者なのだが――それだって、真面目に物事に取り組んでいるからだと言えないこともないと思う。

 それよりも、問題は俺自身だ。俺は存沼を意識しすぎている気がする。それに朝、偶然かも知れないとはいえ、キスをされた時、俺は驚きこそしたけれど――決して嫌じゃなかった。それはもう認めるしかない現実だった。

 思考がぐるぐると巡っていく。俺は、どうしてしまったんだろう。
 どうして存沼相手にこんなにドキドキしているというのだ。一瞬、吊り橋効果かとも思ったが、振り返れば、学内にいた頃から、いちいち存沼のことを気にしていた。これまでは避けるためだと自分に言い聞かせてきたけれど……本当にそうだったのだろうか。

 考え事をしながら、髪や体、顔を洗い、俺はシャワーから上がった。

 脱衣所はやはり寒いのだが、ポカポカしていたので、俺はスノボウェアを脱いだ状態で、存沼がいるリビングへと戻った。シャワー前は防寒対策として着ていたのである。

 するとそこには、難しい顔をして、目を伏せている存沼がいた。

「マキくん、どうかしたの?」

 窓の外を一瞥すれば、どんどん吹雪はひどくなっていたから、それで考え込んでしまっているのだろうか? しかしそんな思考は、在沼が続けた言葉で吹き飛んだ。

「誉――……近寄らないでくれ」
「え?」

 突然の言葉に目を見開く。
 その言葉が胸に突き刺さった理由はわからないんだけどな。

 俺は、なにかしてしまったのだろうか? それともお皿を割ってしまったことを怒っているのだろうか……? だが、聞いてみなければ始まらない。

「どうして?」
「風呂上がりのお前を見て、何もしない自信がないんだ」

 しかし目を開けた存沼の表情は真剣だった。思わず絶句した。どんどん俺の頬は熱くなっていく。完全に俺が赤面するまでには、そう時間を要しなかったことだろ。

 ――やっぱり存沼はその……俺とヤりたいんだろうか……?

 ……本当に存沼は、本気なんだよな? だとすると……本来の設定だと俺様だから無理やりされたっておかしくないはずなのに。まぁ今の俺は、存沼はそんな事をしないって知ってるけどな……けど。俺は、いつの間にか大混乱状態になった。体が硬直する。すると存沼が続けた。

「俺は、お前をそういう対象として見てる。好きだ。改めていう。愛してるんだ」

 まず最初に俺を襲ったのは、多分困惑という名の感情だった。
 けれどそれよりも、そんなことをいきなり言われたものだから、俺はどうしていいのか何もかもがわからなくなってしまい、泣きそうになってしまった。何一つ俺の口からは言葉が出てこない。だからまじまじと、存沼のいつになく真剣な表情を見ているしかなかった。

「――こんな事を言っている状況じゃないのはわかってるんだ。俺もシャワーを浴びてくる。そうしたらきっと冷静になれるから」

 存沼はそう言うと、浴室へと向かい歩いて行ったのだった。

 そして存沼がいなくなったというのに、俺の心臓のバクバクは止まらない。

 ――これまでに、好きだとは何度か言われた。だけど……愛してる?

 思わず唇を掌で覆い俺は息を飲んだ。はっきりいって、頬は熱いままだ。しかも、しかもだった。嬉しいかも知れない。

 俺はそんなことを考えていた。存沼は、本当に俺のことを好きだと思っていいのだろうか。いいや、ここまでくれば、俺にだって確信できる。

 そう考えれば、正直シャワーから上がってこないで欲しい。
 顔を見て、普通にしていられる自信がない。
 縁起でもないしシャレにならないけど、俺は唐突な事態に心停止しそうだ。
 柱時計の秒針の音が嫌に耳につく。


 存沼があがってきたのは、それから少ししてのことだった。

 その後、特にその話題に触れることもなく、俺たちはいつもの通り談笑した。
 俺は心底安堵しながら、必死に笑う。雪のせいなのか、上手く菩薩もモナリザもマリア様も降りてきてはくれなかった。だから俺は、自力で頑張ることとなってしまった。時折自分でも顔が引きつったのが分かる。

 なお、夕食はポテトチップスに決定した。
 存沼は初めて食べるらしい。

「――変わっているな」
「ごめんね、あんまり美味しくない?」

 俺の味覚にはばっちり合うが、存沼が庶民的なお菓子を食べているところだなんて想像もつかなかった。はっきり言って似合わない。まぁ……今の俺にだって、似合わないのだろうが。とりあえず、自社製品だから謝っておいた。

「いいや。三葉と初めてたこ焼きを食べに行った時のことを思い出す。悪くない」

 そう言われると、ほんのりと胸が暖かくなった。

 しかしながら、ポテトチップスだけでは、全然お腹がいっぱいにならない。そうだ、どうせ明日には迎えの人々が来るのだから、チョコレートも食べてしまっても良いではないか! 俺が立ち上がると、存沼もまた立ち上がった。

「何をする気だ?」
「え? チョコレートを取ろうと思って」
「さっき転んだばかりだろうが。俺が取る」

 そういって存沼が歩き出した。その後ろを、今度は俺がついていった。

 さすがは存沼。俺よりも背が高い。実に羨ましい。そんなことを考えて上を向いて
いたら、俺は床に敷いてあった絨毯で滑った。

「誉!」

 存沼がチョコレートを放り投げて、転ぼうとした俺を抱きとめてくれた。危なく俺は床に激突するところだった。まだお皿の破片が残っているかもしれないし、実に危ないところだった。ドクンドクンと恐怖から心臓が騒ぎ立てる。すると存沼の腕に力がこもり、耳元で囁かれた。その吐息に、俺の体は先ほどとは別の意味で硬直した。

「お前が危ない目に遭うのを見るのは嫌なんだ」

 存沼はそう言うと、俺の肩に顎を乗せた。俺はといえば、存沼の力強い胸板と流麗な声に、意識しすぎておかしくなりそうだった。優しい言葉にも、なのかもしれない。ここにきてからの存沼は、本当にずっと優しいのだ。

「そんな顔をしないでくれ、押し倒したくなる」
「え――ンっ」

 俺が我に帰ろうとした時だった。俺の顎に手を添えた存沼が、唇を近づけてきた。思わずギュッと目を閉じる。するとそのまま唇を奪われた。酸素を求めてわずかに開いた唇の合間から、存沼の舌が入り込んでくる。そのまま口腔を蹂躙され、俺の背はびくりと動いた。俺は前世ですら、こんなふうに濃厚な口づけなんてしたことがない。舌を絡め取られ、引きずり出されて、甘噛みされる。結果、俺の肩がはねた。

 ようやく唇が離れた時、俺は瞠目した。何が起きたのか、一瞬だけ分からなくなったのだ。首だけで振り向いたままだった俺は――視線のその先に、苦しそうな顔をしている存沼をみつけた。

「悪い……嫌だったか?」
「……」

 肩で息をしながら俺は、必死に頭を回転させた。だけど、何も言葉が見つからない。

「――抵抗してくれないと、最後までしてしまうぞ」
「え?」

 続いたその言葉に、ようやく我を取り戻した時だった。
 首筋に口づけられて、俺の体はピクンと跳ねた。こんな感覚、俺は知らない。鈍い疼きが、首筋から広がっていく。その箇所を、存沼が何度か舐めたり、今度はやさしく口づけたりした。俺は、本気で泣きそうになって、存沼を見上げるしかできない。

 そうしていたら、唇を離した存沼に髪を撫でられた。

「悪かった。もうしないから」

 実際、その直後存沼の腕は俺から離れた。ぬくもりがなくなったことがちょっとだけ寂しいなんて思った俺は、絶対におかしい。

 何よりも――キスをしてしまった。

 思考が停止しそうになった俺は、コーヒーを飲むことで、口を閉ざすよう心がけた。存沼はといえば、ごくいつもどおりだ。なれているのだろうか……俺が知らないだけで、存沼は性的玄人だったというのか?

 さて、その日も同じベッドに入ったのだけれど、俺は全く眠れなかった。
 別に警戒していたからじゃない。存沼のことを意識しすぎて、生々しい唇の感触を思い出して、体が震えてしまったからだった。

 結局、早朝まで眠ることはできず、俺は最後に時計が四時半を回ったのを確認してから、ようやく眠ることができた。どうせ朝になれば、迎えが来るはずだ。それまでに俺の動悸が収まってくれることを切実に祈った。


 そして――三日目。目が覚めると、俺はやっぱり存沼に抱きしめられていた。
 しかし今度は存沼が起きていた。

「お、おはよう、マキ君。離してもらえる? そ、その、着替えないと……」

 必死で取り繕った俺の言葉に、存沼が微苦笑した。

「起こすと悪いからこうしていたんだ」

 そう言いながら、俺を静かに腕の中から開放してくれた。そうか、気をつかってくれていたのか……。いちいちこういう気遣いができるだなんて、俺は知らなかった。俺はやっぱり、知った気になっていただけで、大人になった存沼のことは、全然知らないのかもしれない。そう考えればまた胸が、ズキズキと痛むのだ。だから……なんで……そうは思いつつ、俺はもう、答えが出かかっている気がした。

 うつむきながら、着替えようとした時、存沼が不意に明るい声を上げた。今日は、曇り空から、ちらちら雪が降っているだけだった。

「――今だけでもこんな幸せな朝を迎えられて嬉しいんだ。最悪なことに、俺はこの状況を喜んでいるんだ。誉を苦しめているのに」

 そう言ってから、再び苦笑した存沼に、俺は何を言っていいのか分からなかったのだった。