【十三】初めて触れる温度





「貴方が、ネルス殿下か?」

 案内されたのは、第一王子殿下の私室だった。一対一で会いたいと、地の国の第一王子であるユーガ殿下が述べたそうで、俺は単独で部屋に入った。人払いが済んでいるようで、使用人の姿もない。扉の外には近衛騎士達がいるが。

「……」
「殿下? そのように暗い顔をして、どうしたんだ?」

 金色の髪と目をしたユーガ殿下は、不思議そうに俺を見ている。ミネスが道中で俺に聞かせた話によれば、今年で二十四歳なのだそうだ。端整な顔立ちのユーガ殿下を眺めながら、俺は言葉を探した。繰り返しミネスから、失礼が無いようにと言われている。

「……ネルスと申します。この度は、お会いできて光栄です」
「それは俺の質問の答えにはなっていないと思うが?」
「……」
「緊張しているのか? とりあえず、座ってくれ」

 俺を長椅子に促した殿下は、正面に座り直すと、手ずから紅茶を淹れてくれた。人間らしい飲み物を差し出されるのも、数年ぶりの事だ。

「瞳が暗いな。絶望した顔をしている」
「……」
「俺には、先に述べておくが、思考解読の神術と感情の色彩を見る魔力が宿っている。だから、手に取るように分かるんだ。辛そうだが……思考を読み取る事は、控えているんだ。口頭で答えて欲しい。気を楽にしてくれ」

 微苦笑したユーガ殿下は、それから俺の前に改めてカップを差し出した。俺は視線を揺らすのが精一杯で、上手く考えもまとめられない。ここ数年の生活で、既に心が摩耗し、疲弊しきっていた。

「長く辛い逃亡生活の後、樹の国の弟君に無事保護され、心の傷を癒やしていると聞いていたんだ……だから、落ち着くまでは誰にも会えないという話だったんだけどな……それを耳にして、俺の能力ならば、助けになれるのでは無いかと考えた。それで今日はお会いする事に決めたんだが……ネルス殿下? 大丈夫か?」

 ユーガ殿下が心配そうに俺を見ている。だが凍り付いてしまった俺の表情筋は動かず、言葉も何も見つからない。

「ここは安全だ。地の国は、樹の国の見方だ。俺達は、良き友人になれると信じている。だから気を遣わないでくれ」
「……有難うございます」
「飲んでくれ。その紅茶は、俺のお気に入りなんだ」

 その声に、俺はカップに手を添えた。その温もりに、涙が滲みそうになる。しかしもう俺の涙腺は枯れてしまっているようだった。一口、飲めば柔らかな味がした。

「少し話をしよう」
「はい……」
「何故、風の国に加担して兵器を生み出したんだ?」
「……」
「いきなり核心を突いて悪いが、俺は今後、地の国を統べて行く。その上で、あちらが持つ神々の力は厄介だ。こちらは樹の国を援助しているのに――何故?」

 決して、そこに俺の意思など無かった。だが、それを述べても、信じてはもらえないだろう。俺は俯いて、カップの中を見据えた。すると苦笑するような気配がした。

「自分の意思では、ないのか」
「っ」
「悪いな、この程度であれば、普段通り力を抑制していても読み取れてしまうんだ」

 顔を上げた俺を、優しい瞳でユーガ殿下が見ていた。小刻みに俺の体が震える。

「あ……俺は……っ」

 信じてもらえると思ったら、今度こそ涙腺が緩みそうになった。これまで、あの日ミネスを見捨てた日から、俺の味方は、誰一人としていなかった。だが、初めて信じてもらえた。それが無性に嬉しかった。だから何か言おうと思ったのだが、何も思いつかない。

 震えていると、ユーガ殿下が立ち上がった。そして、俺の隣に座り直した。手を伸ばしてきた殿下が、端正な長い指先で、俺の唇に触れ、静かになぞった。

「ゆっくりで良いんだ」

 柔和な笑みを浮かべた殿下は、どこか困ったような顔をしていた。

「ネルス殿下の事が知りたい。聞かせて欲しい」
「……っ、俺は最低の罪人で、それで報いを受けて……」
「貴方の罪とは何だ?」
「ミネスを置き去りにした罪人で……その上、俺の体はおかしくて……」

 ここに来てから、何度も言い聞かせられた。俺は淫乱なのだと。だがそれを述べる事は出来なかった。どう表現すれば良いのか分からなかったのだ。

「罪は償える。だが、まだ幼かったのだろう? 恐怖に駆られても仕方が無いと俺は思うけどな」
「っ」
「それに、体がおかしくなったというのは……決して貴方のせいではないだろう。触れて分かる。酷い目に遭ったんだな。俺の叔父上の所にいたと耳にし、嫌な予感はしていたが」
「……っ」
「泣きたい時は、泣いていいんだ。誰も、この部屋には、咎める者はいない」
「……」
「ネルス殿下。辛かったな」

 その声を聞いた瞬間、俺の双眸から涙が零れた。まるで救われたように、肩から力が抜ける。俺は嗚咽を堪えきれず、片手で唇を覆った。

「逃げようとは思わなかったのか?」
「っ、思った……何度も思った。実際に、俺は逃げた。だけど……だけど……――何も上手くいかなかった」
「そうだったのか。安心して良い。これからは、俺が守ってやる」
「え?」
「だから泣くな。俺は、貴方が気に入った」

 ユーガ殿下はそう言うと、優しく俺を抱きしめた。その腕の中で、俺は目を見開く。虚を突かれて、思わず殿下を見上げると、そこには温かな微笑があった。