【十九】旅路





「――入れ」

 ラッセルに見送られた後、いつか滞在した家の前に立って扉をノックすると、懐かしい声がした。静かに扉を開けたが、木製の戸は軋んだ音を立てた。

「久しぶりだな、ネルス」
「……そうだな」
「何をしに来た? ラッセルからの手紙では、用件があるとしか書いていなかったが」
「熱を……体の熱を、取って欲しいんだ。満月が来ても、熱くならないように」
「逆に満月にしか熱くならないように緩和してやったんだが……それまで取れと? 随分と面倒な依頼だな」

 歩きながらエガルが言う。嘗て見慣れていた事もある食卓へと案内され、俺は椅子に座った。目の前にお茶が置かれる。両手でカップに触れ、俺は俯いた。

「……眼球を一つ差し出せば、叶えてもらえると聞いた」
「確かに魔力を宿す人体部位は特別だが、俺は綺麗なものを傷つける趣味が無い。お前には、今となってはその美貌くらいしか取り柄は無いだろう? それを失い、どうやって生きていくんだ? 隻眼が醜いというつもりはないが、揃ってはまっている方が魅力的だと考えるぞ」

 正面の席で、フードを取ったエガルが、俺を見ながらそう述べた。それからお茶を飲み込んで、再びカップを置く。

「快楽に飲まれてしまえば良いでは無いか」
「……もう、辛いんだ。それに、俺は死神なんだろう?」
「ラッセルの奴は口が軽くて困る。仮にも殺し屋だというのに、へらへらと」
「抱かれ、その相手や関係者が亡くなる姿も……もう見たくない」
「それは随分と善人だな。本心では、死んでせいせいしてるんじゃないのか?」

 俺は口ごもった。その問いに、答えが見いだせなかった。自分の気持ちが分からない。果たして、そうなのだろうか? 

「――一つ、解決策を教えてやろうか?」
「頼む」

 沈黙していた俺を、気遣うようにエガルが見ていたから、反射的に答えた。

「黄泉の国が存在する。水の国でも占領できなかった秘境だ。何せ――死者の国だからな」
「黄泉の国?」
「ああ。黄泉の国には、死者の魂がいる。刻印を持つもの同士であれば、その魔力痕をたどって、伴侶に再会可能なはずだ」
「? それは……」
「黒薔薇の刻印をお前に刻んだ人間の魂に会って、刻印を消し去って貰うという手法となる」
「……」
「無償で俺が協力するのは、ここまでだ。黄泉の国は、太陽が沈む方角にあると言われている。行くのならば、好きにしろ」

 そう言うと、エガルが俺を追い出すように手を振る仕草をした。お茶を飲み干し、俺は立ち上がった。そして小さく頷き、エガルを見た。

「有難う」

 俺はそう述べてから、足を引きずって玄関へと向かった。
 外へ出ると、俺の髪を風が攫った。外套の首元を抑えながら、俺は空を見上げる。
 ――黄泉の国にいるのは、俺が殺めたベリアス将軍だ。

 彼は永劫苦しむ事になると、俺に告げていたような気がする。何より、自分を殺した相手など憎いはずだ。果たして、再会したとして、黒薔薇の刻印を消去など、してくれるのだろうか?

 だが、他に縋れるものは無い。
 こうして俺は、太陽の沈む方角を目指して歩き始めた。何も持たない俺は、街から街へと移動しながら、男娼の真似事をして、食料を得た。痛みは無いが上手く動かない足での旅は、本当にゆっくりとしたものとなった。通常ならば一時間で到着するような距離に、丸二日かかる事などざらだった。それでも俺は、僅かな希望に縋って歩いた。

「やるよ」

 この日の客は、裕福な商人で、手にしていた杖を俺にくれた。彼の男根をしゃぶりながら、俺は愛想笑いを浮かべた。無表情の代わりに、いつしか笑顔が張り付くようになっていた。その方が、客の受けが良いからだ。

 宿屋の食事を振る舞って貰った後、俺はまた旅立つ。杖をつくと、大分楽になったような気がした。困難だったのは、登山だ。日が落ちる方角に、山脈が広がっていたのである。夏でも雪が溶けないというその道を、頂上を目指して俺は歩いた。道中の山小屋では、体を売った。

 快楽から逃れるはずの旅路だというのに、俺はそれを売り物にしている。時にむなしさが付きまとってきたが、他に出来る事はないというのが現実だ。長い登山の間、何人かの馴染みの客も出来た。俺と同じ速度で進む一行がいたのだ。いいや、正確には、俺を性処理要員としたため、時に俺を馬に乗せて進んでいくのだ。

 彼らの目的地は、ビバリアという街なのだという。そこに、魔導具を卸しに行くのだと語りながら、俺を抱いた。もう俺の感覚は麻痺していて、夜毎体は熱くなるから、金銭のために抱かれているのか、自分の欲望を解消するために抱かれているのかも分からなくなっていた。

 頂上を越えて下り始めて少しした時、一行のリーダーであるマズラが俺に言った。

「これからも一緒に来ないか?」
「いいや。目的地があるんだ」
「どこだ? 近場なら送ってやるぞ」
「黄泉の国だ」
「――自殺でもする気かい? まだ若いんだし、そんなに綺麗で良い体をしてるんだから勿体ないぞ。生きてりゃ良い事も沢山ある」
「違う。会いに行くんだ」
「恋人でも死んだのかい?」
「……俺は、恋なんて知らない」

 一瞬だけユーガ殿下の事を思い出したが、その顔はすぐに霞んで消えていった。