【六】日課




 ――朝の訓練の時間。
無心に的を狙撃してから、ヘッドフォンを外して、青海は額の汗をぬぐった。それから隣のスペースを『日課』のように確認する。そこには、先日結婚を告げられた相手、明楽溟露が立っていた。『あきらめろ』なんて、ネガティブな名前だなというのが、第一の印象で、第二の印象は、随分と端正な顔をしているなというものだった。

 同じ歳の二十八歳の相手。
 そんな配偶者の姿を、けれど同居している事になっている家では、ほとんど見かけない。朝四時付近、低血圧もあるのかどうしても所在地連絡に答えられない青海は、実はパソコンにデータを仕込んで、自動返信をしている。それでもチェーンを開けているし、きっと朝四時付近には、明楽も家に来ているのだろうと、時々捨ててあるゴミを見て青海は判断している。

 任務上の結婚であるから、そこに愛が無いのは仕方がない。だが、幾ばくか寂しいと思う気持ちもある。元々両親が、警察関連の特殊部隊にいた青海は、彼自身も遺伝子を合成されたコーディネート児童である。多忙な両親に代わり、乳母に育てられる内に、実を言えば、少しだけ家庭や家族というものに憧れていた。なお、遺伝子合成児は、必ず特異な能力を持つというのは、研究の結果明らかとなっている。

 その相手が、明楽だというのは、青海から見れば、そう悪くはない事だった。よく知らない相手であるし、閲覧可能な基礎データでは己と実力が拮抗しているし、顔は綺麗だ。子供を成すための性交渉は不要である同性間であるから、肉体関係について深くは考えなかったが、事前に住居の関連で、懇意にしていた見角大尉に話を聞かせられていた事もあり、別に構わないと思っていた。見角大尉は、昔から青海に目をかけてくれる偉大なる先達だ。元々は青海の母の部下だったと聞いた事があった。

 だが、結婚の現実は無情であり、家では無く職場でしか青海の姿は見かけない。
 己が嫌われているようだと、いくら鈍くても気づかない方が無理だった。
 ただ初日からずっと射撃の訓練時間がかぶるからという理由で、今日もそのブースで、先に終えた青海は明楽の真剣な横顔を眺めていた。見ている点については、あちらには気づいた様子は無いし、日中たまに視線を向けても目が合った事は一度も無い。なお夫婦別姓の制度が、籍とは別に班には根付いている。

「……」

 自分が上や下になるという発想は無かったが、それすら決めないまま放置された状況の方が、色々と精神的に辛かった初夜だったとは思っている。マンションに帰宅するまでの間は、それなりに緊張しながら道を歩いていたからだ。だが、自分が相手では勃起しないと明確に言われてしまった以上、仕方は無い。寂しくないわけではないが、そこまで性欲が旺盛というわけではない青海は、こんなものなのだろうかと考えるにとどめていた。

 その後、施設のシャワーで汗を流して、外へと出る。
 すると歩み寄ってくる足音がして、気配に顔をあげると、そこには来道が立っていた。

「よ。青海」
「おはようございます」

 自分より二歳年上の来道は、件のショッピングモールでの立てこもり制圧事件の後くらいから、心配するように声をかけてきてくれた相手だったから、ここの所比較的よく話すようになったなと青海は思っていた。本当に話すべき明楽は眞岡とばかり話しているし、話しやすい見角大尉は基本的に束瑳大尉と並んでいる為、日常会話となってくると、普段は来道とばかり話しているのが実情だ。

「今夜、飲みに行っても良いか?」
「――申し訳ありませんが、お断りします」

 もし現在独身だったならば、誘いには答えたかもしれないと、青海は考える。酒自体は嫌いではない。だが、いつ明楽が帰って来るかもわからないし、今では二人の家であるというのが事実であるから、勝手に招く事は気が引ける。例えば、自分が誘われて見角大尉の家に行くのとは違うと、青海は考えている。青海は、結婚をしたら誠実でいたいと思うので、同性であっても二人きりになろうとは思わない価値観の持ち主である。それは一見すれば古風なのかもしれない。だからこそ、結婚してすぐ宣言して娼館に行った明楽の声は、小さなささくれのように、心に傷をつけている。

「最近冷たいな。恋人でも出来たのか?」
「……そんなところだ」

 答えつつ、名目上だと、自分に念じる。しかし嘘は吐けいからと放った青海の言葉に、来道が驚いたように息を呑んだ。

「そうなのか?」
「……」
「紹介しろよ」
「……いつか」
「青海……それ、来ない約束だろ」
「分からないだろう」
「男か? 女か?」

 ガタイの良い来道が顔を覗き込んでくる。青海は少し困ったが、小さく答えた。

「男だ」
「へぇ。どんな所を好きになったんだ?」
「……目」

 真剣な明楽の狙撃時に見せる瞳の色は怜悧で格好良いのは事実であるし、造詣自体も申し分ない。

 ――面食い。
 そう評するのが、正しいのだろう。青海は、明楽の顔が好きだった。勿論、表情や感情の滲む瞳の色もそうだが、単純に、顔立ちを好いている。逆にそう言った容姿以外の部分は、まだ深く知らない。だから判断できないとさえ思っていた。

「ふぅん。目、ねぇ」

 すると頷いてから、豪快に来道が笑った。通路においての出来事で、その声は大きかったからなのか、明楽も気づいたようで視線を向けてきた。だから何気なく周囲を見ていた青海と目が合う。しかし青海がそれに気づいて目を瞠ると、呆れたような顔をされ、すぐに顔を背けられた。それが少しだけ辛い。

「今夜、お祝い届けてやるよ」
「結構だ。お気遣いは不要です、来道さん」
「気にするなって。ちゃんと出ろよ? プレゼント、届けてやるから」

 そんなやりとりをし、バシンと青海の両肩を叩くと、来道が狙撃ブースに入っていった。呆然とそれを見送ってから、少し俯いた後、入れ違いに青海は本部へと戻った。

 そうして本日もデスクワークを開始した。
 引継ぎを受けているのは、主に書類仕事や伝令だ。武力自体は、これまでのメンバーでも難なくこなせていたどころか、自分の前任者は不要と判断されて、配置を変えられたらしい。

 前衛突入・突破の明楽、遠隔からの狙撃と情報統制が可能な眞岡が根幹を担い、それ以外の補助を来道が行ってきたのだという。作戦指揮立案や医療関連は束瑳大尉が、その他の部分と最終決定を見角大尉が成してきたようだった。

 だが、連絡連携面を主としたデスクワークの不得手を補うために、見角大尉が自ら引き抜いてここへと着任させたのが青海だ――と、直接見角大尉から聞いたので己の役割を青海はよく理解している。

 その際の遺伝子再検査において、結婚相性の診断により、同時に青海と明楽の結婚・合成児の育成の話も進んだといえる。遺伝的結婚相性は、候補者は数名基本的に上げられる存在で、多くはもっともその中で近距離の相手と任務結婚を果たす。近年では、クローン母体による出産が男女ともに多いため、出産・育児はキャリアに影響する頻度がより減少した事も手伝い、婚姻後も軍人は働き続ける者が多い。

 例えば束瑳大尉がそうで、子供を二人育てながら、副官として現役で仕事をしている。過去のように、夫婦や家族が同じ職場となっても、一方が配置転換をされる事も無い。

「きちんと食べているの?」

 ぼんやりとコンビニで買ったツナサンドを噛んだ時、水筒をポンと束瑳大尉が青海のデスクに置いた。

「中に、クラムチャウダーが入ってるから、良かったら」
「有難うございます」
「それと、サンドイッチだけではなく、せめて野菜サラダも買ったらどう?」
「……」
「折角食堂もあるし、そこで食べてもいいけど。どうしていつもツナサンドなの? って、毎回訊いていると思うけど」
「好きなもので……」
「偏食はダメだとも毎回言っているはずだよ? あとは、ほら。これも僕からの差し入れ」

 気まずく思っていた青海の前に、最後に苺のムースケーキを束瑳大尉が置いた。
 パァと青海の目が輝く。束瑳大尉が料理上手である事も、中でもこのケーキが最高に美味しい事も、青海は知っていた。

「あとで、全部食べたら感想を聞かせてね」
「は、はい!」
「返事は元気で宜しい。けれどね、何度も言うけど、サプリだけでの筋肉維持は望めない。きちんと食べてね」
「有難うございます」

 微笑した青海の神々しい表情を見ると、何処か無機質だった束瑳大尉の白い顔(かんばせ)にも、僅かに笑顔が覗いた。

「また今度、家(うち)に食べにおいで」
「はい!」
「またね」

 にこやかな束瑳大尉というのも珍しい。そんな昼食時を経て、午後も仕事に没頭してから、定時の七時を過ぎた後、青海は帰宅した。チェーンは、朝四時には顔を出すらしい明楽の為に本日も開けておく。

「洗って返さないと」

 慣れない手つきで水筒を洗い始めた青海は、出来れば己も束瑳大尉のような家庭を築きたかったと思ったが、すぐに俯いた。

「俺には、束瑳さんみたいに料理も――いいや、他の家事も何もできないからな……」

 それから、インスタントのコーヒーの粉が入る瓶を見た。不味いと先日切り捨てられてからは、念のため冷蔵庫にペットボトルのアイスコーヒーも入れてあるが、今の所披露する機会はゼロだ。自分では専ら、粉を薄めて飲んでいる。

「明楽は、何が好きなんだろうな」

 ポツリと呟きながら、洗い物を終えて手を拭いた時、インターフォンが音を立てた。視線をエントランスに向けてから、外界を移すモニターへと歩み寄る。明楽であれば、押さない事は分かっていた。

「ああ、本当に来たのか」

 そこに映る来道の姿を見て、困ったように青海が苦笑する。
 手に、何か酒らしき品を持っているのが見えた。
 受け取るだけならば、浮気には当たらないだろうし、そもそも明楽は気にも留めないだろうと思いながら、青海はエントランスへと向かう。そしてロックを解除し、扉を開けたのだった。