「やっぱり、君にこの部屋を使わせるわけにはいかないな……」
ライナス様がそう言ったので、俺は顔を上げた。俺の真正面にライナス様は立っているので顔が近い。
「つまり、ライナス様が使うんですね!」
「だから俺に変態趣味はない! 二人で当初の予定通り、あちらの部屋を使う事にするしかないかな……」
「ベッドは狭いけど、二人眠れない事はなさそうだったし、俺はどちらでも!」
なぜこの部屋がそんなに嫌なのかわからなかったが、俺が頷くと、ライナス様が息を飲んだ。
「あ、いや……え……っと、二人で寝るのは、このベッドを使用する以上に、心臓に悪くないかな、主に俺の」
「?」
「……君、ソファは絶対に嫌なの?」
「嫌です!」
「……ベルは他の弟子連中と違って自分から来たいと思ってここにいるわけじゃないしね。嫌がる権利はある。だけどこの俺に否を唱えるなんて……今までいなかったタイプで新鮮というか……」
ブツブツと呟いてから、少しだけ屈んで、ライナス様が俺を覗き込んだ。
「こうしよう、あちらのベッドは君が使っていい」
「本当ですか!?」
「俺が、あー、俺が、ソファを使うから……うわああ、優しい俺とか、我ながら気持ち悪い」
「ありがとう、ライナス様!」
嬉しくなって、思わず俺はライナス様に抱きついた。魔族は最大限の謝意を表す時、相手に抱きつくという文化がある。
「!!」
すると、ライナス様が、びくりとした。後ろに一歩退いた後、慌てたように俺を受け止めた。やはり俺は筋肉質なのだろう。ライナス様が転びそうになるくらいには――そう考えた時、恐る恐ると言った風に俺の背中に手が回った。
「?」
謝意で抱きついた場合、普通はその気持ちを受け取る場合、額か右手の甲にキスをして終わるものである。相手の背中に手を回すというのでは、ただ抱き合っているだけだ。
ライナス様を見ると、先ほどまでよりも近い距離で、真っ赤になっていた。唾液を嚥下しながら、じっと俺を見ている。
「ライナス様、キスして」
「っ、ちょ」
「お願いだ……」
じゃないと、お礼の気持ちが伝わったか不明ではないか。それとも、ライナス様は、俺に意地悪をしようとしているのだろうか?
「意地悪をしないで下さい……」
悲しくなってきて、俺の目が潤んだような気がする。すると、俺を抱きしめるライナス様の腕に力がこもった。
「……ベルが悪い」
「? あ!!」
驚いた時、ぐいと腰を引き寄せられて、思わず俺は声をあげた。何事かと思った時、ライナス様の唇が降ってきた。
「っ、!? ん!!」
しかしそれは、額にでも手の甲にでも無かった。無かったのだ! 口に、だ! 俺の唇に、ライナス様の唇が触れている。これは、恋人同士がするものだ。違う、俺が求めていたものと違う!
「ン!!」
そのままライナス様の舌が、俺の口腔に入ってきた。舌を絡め取られて、俺は焦った。俺はこれまで恋人がいなかったし、できた事は一度もないので、初体験だ。
「ぁ……は……」
口が離れた時、俺は肩で息をしながら、力が抜けてしまった体をライナス様に預けていた。するとライナス様が言った。
「これで満足? ベルがしろて言ったんだよ?」
「……満足じゃない」
「それは、俺のキスが良く無かったって事かな?」
「うん」
場所が悪かった。だから素直に頷くと、ライナス様が硬直した気配がした。それから、笑顔なのに死ぬほど冷たい声で、俺の耳元で囁いた。
「へぇ。その割には、随分と気持ち良さそうな顔をしていたけど。それとも、あれじゃあ物足りない、と?」
「ライナス様こそ、物足りないんじゃ……?」
だって場所が違ったし。抱きつくだけじゃお礼が足りないという意味だとしか思えない。
「そりゃあ俺も男だからね。煽られたら――」
言いながら、ライナス様が俺を……押し倒した。巨大なベッドに頭をぶつけて、俺は焦った。ふかふかだ。今このふかふかは危険だ。
何せ今日は、朝から人間が襲ってきたり、大変だったのだ。体は疲れきっている。正直、眠い。
「――物足りないって言ってる美人を、満足させるくらいの肉欲はあるよ」
「おやすみなさい」
「は!?」
そのまま俺は目を閉じた。もう、睡魔に勝てなかった。
しかし、すぐに腕を引かれて、抱き起こされた。
「まさか物足りないって、睡眠欲? ここまできて許すわけがないだろう!」
「そうじゃなくて、お礼が……」
「お礼?」
「? お礼をする時は、抱きつくものじゃ……?」
「何のお礼?」
「ソファで寝てくれるって……あ、俺はここじゃなくてあっちのベッドに行くんだった」
俺がそう言って必死に起き上がろうとすると、ライナス様が困惑したような顔をしていた。
「……も、もしかして、ま、まさかと思って聞くけど、お礼を言う時に抱きつく文化が魔族にはあるの?」
「人間にはないんですか?」
「ほとんど無いかな。確かに、嬉しくて抱きつく人はいるかもしれないけど……でもキスしろって、あれは?」
「お礼として抱きつかれたら、普通、額か右手の甲にキスするんです」
眠い意識で答えながら、俺はライナス様につかまって、体勢を整えて起き上がった。するとライナス様が真っ赤になった。
扉が勢いよく開いたのはその時だった。
「ライナス様、部屋がラブホになってるからすぐに直せって魔術通信、あれは一体どう言う状況で……し、失礼しました!」
「待ってくれ、レジェル、誤解だ俺はまだ何もしていない!」
入ってきたのは、ライナス様の一人目の弟子だった。レジェルは腕を組むと、俺と、俺を押し倒しているライナス様を、半眼で見た。
「まだ? ま、まぁ、今からだったんですね」
「そうじゃない! 人間と魔族の文化の違いによる誤解があっただけだ!」
「その真っ赤な顔で言い逃れはちょっと……ライナス様のタイプですもんね、従順で家庭的で魔術の話も合いそうで。何より好奇心旺盛……ライナス様は向上心がある子が好きだって前から言ってたし」
「違う! いや、違わないけど、これは違うんだ!」
ガバリと起き上がったライナス様が、赤面したまま声をあげた。するとレジェルが俺を見た。
「何かされたか?」
「キス……」
「ベル! 誤解を招くことを、いや、誤解では無いけど、ああああ」
ライナス様が頭を抱えて悶えた。レジェルが苦笑している。
そんな二人を見ているうちに、結局眠くなって俺は寝た。