<1>人としての尊厳




室内の電灯が切れたのは、それから数時間後のことだった。
同時に切れた空調に、次第に寒さがつのってくる。俺は、槙永に毛布を投げた。

「君が使いなよ」
「風邪ひきやすいのはお前だろ」
「……有難う。ねぇ、時島」
「ん?」
「いつまで此処にいる?」

腕時計を見れば、もう七時に近づきつつあった。
幸い未だ日はあったけれど、今日は雨が降りそうな曇り空だ。いや、降っている。時折、俺の背後の曇り硝子越しに、激しい雨の音が響いていた。

「――そろそろ、行くか」

ホームセンターに立てこもるというのは、ゾンビ映画の定番だ。
だけどここにいても、俺達にはどうすることも出来ない。
現状把握が出来ないのだ。俺も槙永もスマホの電源が切れてしまった。
一体何が起こっているのか、さっぱり分からない。仮に、本当に、ゾンビだったりして。

「やるよ、これ」

俺は買い物袋から、大きめのペンチを槙永に向かって差し出した。
自分では木の棒を取り出す。

「何これ?」
「護身用。何かあった時困るだろう」
「何か……」

呟いた槙永は、無表情でじっとペンチを見ていた。受け取った白い手が、少し震えて見えた。やはりもう少し毛布にくるまっていった方が良いのだろうか。

それから少し経ってから、俺達は二人でスタッフルームの外に出た。

青白いフロアは無人で、人の気配がしなかった。
ただ血の臭いと腐敗臭だけがする。
外に出るならば今の内だと思った。そして、己がした選択が間違っていなかったと、そう思った時だった。

「ッ!!」

影から腐肉を纏った人影が飛び出してきた。瞠目した俺は、動けない。
驚いて槙永はしりもちをついた。
ペンチが床と縦高い音が響く。

「グガァアアアアア」

多分そんな声だった。獣の鳴き声に似ているのに、確かに人間の声がした。
遅い来る腕に、俺は思わず両手を交差させた。
そんな俺から進路を変えて、ゾンビは座り込んでいる槙永に向かう。

グシャリと音がした。

時が止まったような感覚だ。ペンチを拾い上げた槙永が、ゾンビの心臓があるだろう部分にそれを突き立てていた。体液は散らない。しかしゾンビの動きは一瞬だけ止まった。けれどその肩がピクリと動き、再び両腕を伸ばそうとしているのを俺は見逃さなかった。
棒を握りしめ、俺は、ゾンビの頭部を殴った。
感覚で言うならばきっと、やったことはないが、スイカ割りに近い。
腐った肉がボトボトと落ちていき、黄ばんだ頭蓋骨が見えた。何度も何度も棒を振り下ろして、俺は周囲のことなど何もカモを忘れて、それを叩き割った。

「っ、あ、うあ」

漸くゾンビが床に倒れた時、俺は思わず安堵の吐息に声を乗せていた。
まだ槙永は呆然としたように座っている。

「た――……助けてくれて有難う」

俺はそんな槙永の声で、漸く我に返ることが出来た。自分がしたことが怖くなって、俺は棒を取り落とした。コツン、なんて音がした。どす黒い液体が、床を塗らしていく。俺はそれを踏んだ。ビチャリと音がして、それだけで吐き気がこみ上げてくる。

「た、助けてなんて無い」
「だけど時島がいてくれなかったら、僕は恐らく死んでいたよ――死ぬという言葉が正しいのかは分からないけどね。人としての尊厳を失ったナニカになっていたと思う」

ナニカ――……?

そうだ、これはなんなのだ。
本当にゾンビなのか? ゾンビとはそもそもなんだ。きらりと薄暗い室内で光るペンチを見据えながら、俺は苦しくなって息を詰めた。

「これからどうする?」

響いた槙永の冷静な声に、俺は拳を握った。何故そんなに平静でいられるのだろう。
いられない自分に対して苛立った。

「みんな無事なのかな。高山先輩とか」
「ッ」
「災害時は学校が避難場所になるよね。行ってみる?」
「あ、ああ……」

不意に優しい先輩の笑顔が脳裏を過ぎった。
俺には向かない笑みだ。
――無事、なのだろうか?
仮に学校が避難場所になっているとすれば、家族だって避難している可能性が高い。
特に弟の白は、隣接する中学校にいるのではないだろうか。
今側にいてくれたのが槙永で本当に良かった。もしも一人だったならば、冷静に考えることなど出来なかったのではないかと思う。

ハンズの外に出ると、丁度豪雨が弱まりつつある所だった。

サイゼの前を通過しながら、電車は動いているのだろうかなんて話し合う。
――結果としては、駅は近づく前に血の臭いと腐った臭気に溢れかえっていたから、回避した。俺達は、歩いて、すぐ近くにあるから学校まで向かうことにした。電車で参分も徒歩十分もさして変わらない。
街は閑散としていて、人や人であったモノが密集している場所の他は、誰もいないに等しかった。俺達は途中で自動販売機から飲み物を調達し、雨に濡れながら歩いた。


そんなこんなで学校へとたどり着いたのだった。