【八】ぬりえ





「さて、ええと礼儀作法なのですが」
「別に俺は、男だしダンスの練習とかは不要だと思うけどな?」

 大人しく部屋へと戻り、俺は述べた。桃恋の世界では、礼儀作法の勉強により、攻略対象の好感度を操作するという項目も確かにあった。基本はシナリオにそって選択肢を選ぶだけのゲームだが、ちょっとしたミニゲームが沢山あったのである。他には、ペットを育てたり、植物を栽培するといった機能もあった。

「……では、神子様にしか出来ない仕事をお願いしても良いですか?」
「うん」
「これに着色して欲しいのです」

 エデルはそう言うと、テーブルの上に載っていた大量の紙を見た。横には色鉛筆がある。

「ぬりえ?」
「神子様の手で力を込める事により、お守りとなる可能性がゼロではない紙ですね」
「お守り……」
「全員に神の加護の力を与えるのは無理だと考えられますので、一般の騎士達に配布します。大切なお役目です」
「なるほど?」

 頷きながら、俺は色鉛筆を手にとった。そして描かれているお花を見てから、何色にしようか考える。俺は美術の成績だけは良かった。昼食後、俺は早速一枚目に取り掛かった。エデルは俺を見守りながら座っている。なお、扉の外には、アロイスが立っているようだった。集中して、俺はこの日、一枚目の一割を塗った。

「今日はここまでとするか」

 夕食が運ばれてきたので俺がそう言うと、エデルがじっと俺を見ていた。

「お上手ですね」
「ん? 有難う」

 思わず笑顔を返した時、エデルの好感度が5上がった。え? 好感度がもう40だぞ? これ、100になったらどうなるんだろうな? ピンク色の方も、100より上になる場合があるのだろうか?

「誰にでも取り柄が一つはあると、神子様は教えてくださったようです」
「どういう意味だ?」
「――さて、夕食にしましょう」

 エデルは答えてくれなかった。
 その後、俺は一週間かけて、やっと一枚目を完成させた。するとその日、エデルが満面の笑みを浮かべた。

「あと一ヶ月と三週間、その調子でお願いします」
「うん。一週間に一枚しか完成させられなくて悪いな」
「お気持ちだけで」

 この一週間で、エデルの好感度は少しずつ上がり続けて、既に50を超えてしまった。そんなにこの塗り絵の効果は絶大なのだろうか?

 激しいノックの音が聞こえてきたのは、その時の事だった。
 視線を向けた瞬間には、アロイスが扉を開け放っていた。アロイスは、初めて見せる険しい表情で、真っ直ぐにエデルを見た。

「大変だ。リンダッツェ公爵領地に、また魔物が大量に生じた」
「な」

 エデルの顔色も変わった。魔物は、魔王の部下だと漠然と考えていた俺は、魔王の領地に出現したのなら、魔王の手先ではないのかと思った。

「アルトバルン卿でも討伐が困難かも知れない。王国騎士団と宮廷魔術師団からも人員を派遣すると決まった。ただ、数が多い。神子様のお力をお借りできればと……」

 チラっとアロイスが俺を見た。そして複雑そうな顔になった。

「宰相閣下の話によると、無償で提供してくれるんだろう? 神聖な力を」
「あ、ああ。この国を救うためならば!」

 俺は神子であるのだから、守れるものは守っていきたい。

「俺が護衛をするから、一緒に来てくれないか? 神子様」
「ああ。ぬりえは、どこにいても出来るからな! 旅の準備をしないと」
「転移魔法陣がある」
「――正気ですか? 神子様のお力を借りる……?」

 エデルの顔が引きつっている。

「あと一ヶ月と三週間を乗り切れば無事に祭儀が――」
「その前に国が滅びたら終わるだろうが」

 アロイスが言うと、エデルが沈黙した。それから何度か小さく頷いて、クローゼットへと向かい、鞄に荷物を詰め始めた。俺はぬりえと色鉛筆を鞄に入れる事しかしなかった。

 こうしてその日の午後、俺達三人は転移魔法陣で、魔王の領地に移動した。
 リンダッツェ公爵邸の地下の魔法陣に到着した俺達は、侍従達(皆魔族だった)に、上階の応接間へと案内された。アルトの姿はない。

「アルトバルン卿は、今日も最前線で自ら戦っているから、挨拶は遅れる」

 俺の考えを読んだようにアロイスが言った。頷いて返した俺は、エデルが執事と客間の相談のために出ていくのを見送った。アロイスと二人になったので、俺は聞いてみた。

「魔物は魔王の配下じゃないのか?」
「別物だ。人間にとってのクマが、魔族にとっての魔物だ。害獣って事だな」
「ふぅん。俺はアルトに力を貸せば良いのか?」
「そうだな。頼んだぞ、神子様」

 アロイスが笑顔を浮かべた。俺も笑顔を返す。
 その後俺達は雑談をしていたのだが、アロイスが現地の部隊と話し合いをすると言って途中で退席したので、俺は応接間で一人になった。その内に、俺は眠ってしまったようだった。

「ん……」

 目を覚ますと、室内が薄暗かった。誰も戻ってこなかったようで、俺も寝ていたから、明かりをつける者がいなかったらしい。巨大な窓からは、月の光が差し込んでいて、それが唯一の光源だ。時計を見れば、既に深夜の一時を回っている。

「今もまだ戦ってるのかな……こんなに遅くまで? 大変だな……」

 アロイスとエデルの姿もないのだし、きっと皆、多忙なのだろう。そう考えながら俺は立ち上がり、扉に触れてみた。いつも夜間は自室から出られなかったのだが、ここは王宮ではないから、出ても良いんだよな?

 そう考えてドアを開けると、廊下も静まり返っていた。みんな、寝てしまったのかもしれないな。窓に手を添えて、俺は外を見た。すると――噴水があって、その前に立っている魔王の姿が見えた。

「今帰ってきたのか? 働き者だなぁ」

 思わず呟いた時、俺の視線に気付いたように、アルトが顔を上げた。射抜かれるような瞳に、ゾクリとした。頭の上の好感度マークを思わず見ると、相変わらずの青いハート……マイナス2665。あれ、前回は一体、いくつだったかな?

 とりあえず俺は、アルトのいる噴水へと行ってみる事にした。俺の方だって、滞在させてもらうのだから、挨拶をしなければならないだろう。