【2】た、確かにここは、異世界であった……。
暫く歩いていくと、土だった道が、石に変わった。
木々も増えてきて、草花も見える。観賞用の人工物らしい。咲き乱れる菖蒲風の花を長め、石橋の下を流れる川のせせらぎに耳を傾けてみる。うん。何というか、完全に時代劇!
僕は溜息を押し殺しながら、脇差を帯刀して歩く武士風の人々や、肩に竿をかけて魚や豆腐を売りさばく人々を眺めるしかない。これ、異世界トリップじゃなくて、江戸時代にタイムスリップじゃないのかと思いかけたが――人々の頭にはチョンマゲが無い。髪型は、現代日本と変化が無かったのである。とすると、美容師という職が独自の発展を遂げている可能性がある……。
もう一つ気になるのは……大通りに出てきたというのに、一人も、たったの一人も、女の子の姿が見えない事だ。こ、これはもしかしたら、平安時代みたいに、女の人は御簾の奥で座っている形式とかで、公衆の面前には姿を現さないのかもしれない。僕の歴史の成績は下の下であったが、平安時代は女の人と中々出会えなかったと、なけなしの知識で記憶している。
今の所、まだ、オメガという種族(?)については、特に確認させられている事は無い。何の事何だろう……? 首を捻りながら、川の水面に映る自分を見てみるが、変化は特に無い。もしかしたら、種族名じゃないのかもしれない。少数民族の名前だったとか?
腕を組んで、僕は唸った。悩んでいたその時、僕の目の前に、コロコロと蹴鞠が転がってきた。屈んだ僕は、手を伸ばしてそれを拾う。すると走ってきた小学生低学年くらいの男の子が、僕を見て小さく息を飲んだ。白磁の頬に、パッと桜のような色が散り、少年が僕に対して照れている。僕は、施設で年下の面倒を比較的多く見ながら育ってきたので、初々しい少年を可愛く思いながら、蹴鞠を手渡した。受け取った少年は、煌びやかな着物姿だ。それから少年は、お付の人らしき青年の方へと走っていった。
それから僕は、歩みを再開する事に決めた。街の中をまずは見てみよう。
しかしどこからどう見ても、完全に江戸風であり――遠目には、江戸城(仮)まで視界に入り始めた……。天守閣がよく見える。金色の鯱らしき何かが輝いていた。
「あ」
角を曲がったその時、僕は立ち止まり、思わず声を上げた。
砂埃を立てながら、喧嘩(?)が勃発していたのである。
いいや――喧嘩というには語弊がある。リンチが正しいだろう。
一人の青年を囲んで、殴る蹴るの暴行を、鮮やかな刺青をした人々が行っている。僕は、場違いなことに、刺青の模様がデフォルメ調のキリンである事に狼狽えていた……。あれ、刺青って、黄色も入ってたっけ? と、思いつつ……思わず右手で口を抑えながら、視線を殴られている青年に戻した。ヤのつくご職業だろう現地の方々にフルボッコにされている青年は、目の上が紫に晴れ上がっている……。
「今日という今日は金を返しやがれ!」
響いてきた声によると、借金をしているのが、殴られている青年のようだった。
取り立てているヤのつくご職業の方々は、貸しているんだから正しそうだが、腕に物を言わせるのは――僕の価値観的には、ちょっと酷い。止めに入るのは怖いが、このままでは、殴られている青年は、死んでしまうかもしれない。そ、それに、僕はチートを貰っているから、俺Tueee状態のはずだ。相手が美少女でなくとも、見過ごせない……!
僕は、ちっぽけな勇気を振り絞った。
「やめろ、やりすぎだ!」
そう声をかけると、ピタリと殴っていた集団が動きを止めて、僕を見た。
殴られていた青年も、驚いたように僕を見た。
「……ま、まさか、αか?」
「違ぇねぇ……こ、この正義感……αに違ぇねぇ……」
「自分を犠牲にする可能性があるのに止めに入る道徳観……αだ……」
「「「「「逃げろ――!!」」」」」
直後、ヤのつく職業らしかった人々が走り去った。え?
何それ、どういう意味?
ええと……αという種族(?)もあると、そういえば聞いたっけ……。
も、もしや、Ωという種族(?)には欠落しているのだろうか、正義感……。
僕はαさながらに、正義感を持っているΩだという事……?
大混乱状態のまま、僕はとりあえず、地面に座っている青年に歩み寄った。
「大丈夫ですか?」
「あ……はい。有難うございます……あ、あの、貴方は?」
「僕は水季と言います」
一応名乗った。しかしこの、水季という僕の名前は、転生前のものである。
果たして、この世界でも違和感は無いのだろうか……?
「俺は、藤平と言います。実は病気のお父つぁんの薬代を、まずい所から借りてしまって……」
「そうだったんですか」
「――今は、寺子屋に行く際中を襲われて……おかしいでしょう? 俺みたいな良い歳で寺子屋に行くなんていうのも」
苦笑しながら、青年が立ち上がった。おかしいのかどうか、僕には分からない。藤平青年は、僕よりは年上に見えるから、現代日本で言うなら、大学生くらいの年頃だ。
「寺子屋まで、送ります。また、絡まれたら大変だから」
僕が伝えると、目の上を真っ青に腫らした藤平が息を飲んだ。そして笑みを浮かべた。優しげなお兄さんである。
道中で、僕は話を色々と聞いた。何でもここは、『江戸』らしい。それが僕が知る歴史上の江戸と同じであるかは知らないが。現在は、『和暝十八年』だそうだ。過去にそんな暦があったのかすら、僕は知らないが、無いような気がした。徳川幕府により、天下統一がなされているそうである。士農工商が存在しているそうだった。江戸のどの時代なのかは、全く分からない。そこで僕は、肝心な事を聞く事にした。
「――やっぱり、女の人は、大奥とかにいるのか?」
「へ? にょ、女性は……異国には居ると聞いた事もありますけどね、そういうのは、源氏物語だのの、お話の中だけの存在ですよ。やだなぁ、俺に学がないからって、からかわないでくださいよっ」
「え」
この瞬間、僕は、海外脱出を志す事になった……。
まだ時代が幕末かは不明だが、僕の人生の仕事はきっと、海軍作成とかに違いないだろう……少なくとも、密入国して、留学しなければ……。
「大奥っていうのは、美Ω3000人とかっていう、花園でしょう?」
「――へ?」
この時――僕は初めて、他者の口から、オメガという語を聞いた。
「微オメガって何?」
「美人のΩの事です」
「微妙の微じゃなく、美人の美?」
「そうです。僅かだけ、微弱なΩなんていません。Ωは総じてΩです」
「あのさ、オメガって何?」
僕は率直に尋ねた。すると腕を組んだ藤平が首を捻った。
「ううーん。俺も貧乏とは言え普通のβなんで、何と聞かれてもいまいち……」
「普通のベータって言うのは、何?」
「へ? ベータって言うのは、俺達みたいな一般人っつぅか、民衆というか……圧倒的大多数の普通の人間って覚えてて貰ったら良いかと思いやすよ」
「つまり『さす!主人公★』する現地人の集まりだよね……で? アルファって言うのは何?」
「え? な、何と言われましても……天下の政の一切を取り仕切る優れたお方や、古くからの尊いお血筋の方々でして……江戸城や、京の貴族というくらいしか分からない、殿上人の事ですよ。普通、そうでしょう? 一般的な俺達ベータには、存在すらベールに包まれているって言いますか……!」
そう口にしてから、藤平青年が、頬を染めながら、ちらっと僕を見た。
「も、もしかして、水季様は、αだったりするんですかい?」
「……」
「αの方が、お忍びで? ……ですよね、そうでなければ、そのように麗しいお顔立ちをされていて……容姿端麗で、細身で……到底腕っ節が立つようには見えないのに、単独であの悪漢共を止めに入る――所を見ると、見かけによらず腕もたつのでしょうし……あれこれと先程から、この江戸の話をお聞ききになるのも、普段は俺達のような下々の者とは掛け離れた場所でお過ごしだからでしょうし……時折俺には理解できないお言葉を遣われるのもきっとそれが最先端の学問用語だからでしょうし……眉目秀麗、頭脳明晰、優れた人格――αが持つとされるもの、全てを水季様はお持ちですし……!!」
僕は乾いた笑いを零すしかなかった。
「ち、ちなみに、オメガって言うのは……どんな人々なの?」
「Ωですか……いやぁ、ね? それが、α・β・Ωのいずれであるかは、十三詣りの頃に、紙に精をかけると判明するんですがね……Ωと結果が出て以降、発情期が来るようになるんですよ」
「は、発情期……」
「人間の形をしてはいるけれど、畜生の生まれ変わりだとして、この江戸じゃぁ嫌われてますね」
「へ、へぇ……」
「鎌倉の時代の頃は、αの子はΩしか孕めなかったと言われていて、Ωが持て囃された時代もあったようですがね、今は、異国の技術もどんどん伝来していて、余程の稀種の御子でも無ければ、発情期のフェロモン無しでも、αは種付け可能と聞きますし」
「え、ええと……」
「あ、稀種というのは、それこそ例えば、徳川のお血筋ですよ。幕府の要、将軍! 将軍の御子だけは、絶やしてはならないとして、全国から集められた美Ωが、大奥にいるそうです。大奥の所属のΩだけは、畜生が前世であった等とは蔑まれず、大切なお世継ぎを産むべくして、一度この世の苦悩を味わうため、前世において修行として畜生になったと言われています」
「……そ、そうなんだ」
「逆に畜生道を突っ走っているのは、吉原の花魁ですねっ! 快楽こそ正義! 吉原のΩは、αだけでなく俺達βの相手も、金さえあればしてくれます。人間もまた畜生の一部という信念のもと、幕府公認で花を売ってますよ」
……。
た、確かにここは、異世界であった。僕、ちょっと舐めていた。夢オチを期待していた。そろそろ病院の救急のベッドで目を覚ます頃かなと、チラチラ考えるも、その気配も無い。
「兎に角Ωというのは、この大奥と吉原にいるほんのひと握りを除けば、外見がまず最悪で、頭も悪く、物覚えが一番悪くて、手に職を付けるのも無理で、性格も僻みったらしい嫌ぁなやつが多くて、そのくせ発情ばっかりしていて――発情期には、優秀なαを誘惑するんですわ。卑しい生き物です。水季様も、気をつけて下さいね!」
笑うしかない。しかし笑えない。僕の顔は、おそらく真っ青だろうし、引きつっているはずだ。え? え、嘘。僕、って何、つまり、最悪な感じのΩに転生したけど、世間からの評価はαとか、そういう流れ……? しかもこの世界、女の人がいない? なのに、発情期が来る? それは、僕にも来るの? 来たとして、女の人、いないんだろう!?
「あ、あのさ、発情期が来て、αを誘惑って……男同士……?」
「へ? え、ええ。それが?」
「それがって……βは? どうやって子供作るの?」
「異国の技術で。これにしたって、男同士ですよ」
衆道どころの次元では無かった……。というか、異国、凄すぎる。こ、これは、開国フラグなのか? そ、それとも、鎖国フラグか!? 僕の頭の中は、混乱していた。
「まぁ、普通に暮らしている分には、αやΩに遭遇する事なんて滅多にありませんから」
そう言って、藤平が笑った。僕もつられて笑ったが、僕は自分がΩである事を黙り抜こうと決意していた。