【2】




 ――朝、ではない。
 自堕落な僕は、夜が深けてから目を覚ます。今宵は、九時に起きた。
 世界の文字盤には、十二の数字が並んでいて、一周すると半日、十二時が二回の二十四時間で一日となる。世界時計という品が、この大陸には存在している。魔術武器製作者の始祖とされる賢者ソフィスの作である。一日が七回で一週間、四週間で一ヶ月となる。暦は多様だが、魔術武器製作者は、大陸共通歴を用いる事が多いから、一年の最初の月は、一月と呼ぶ。今尚、生活の端々に、僕の魔術武器製作者としての気配は残存している。

 硝子のカップに、珈琲の粉を入れた。珈琲粉は、複製魔術で増やしている。家を建てる前に購入した品だ。それを僅かなお湯で溶いてから、氷を入れる。これは氷魔術――攻撃魔術の応用だ。最後に、魔導具で海から汲み上げ濾過している水道水を注いで、僕はアイスコーヒーを作った。

 複製魔術は難易度が高い。魔術には、最上級・上級・中級・下級・最下級の五段階の難易度が存在する。その中で、最上級に数えられるのは、『複製魔術』『時空魔術』『転移魔術』の三種類だけだ。複製魔術は、ある品を全く同じ状態で複製する魔術だ。基本的に複数人がかりで何日もかけて行う。魔術武器連盟の職員が行うのもこの魔術だ。一個人で使える人間を、僕は、僕を除けば一人しか知らない。既に没している、僕の師匠だ。師が僕を引き取った理由は、僕に生まれつき、複製魔術の素養があったからであるらしい。換言するならば、師匠は僕の両親に大枚をはたいて、僕を買ったそうだ。僕は、実の両親の顔も知らない。

 時空魔術は、ある品を、そのままの状態で保存する魔術だ。時間経過を止める。時間を進めたり、過去に戻す魔術は、今尚人間の手の中には存在しない。魔術の深淵に飲み込まれた時、運が悪ければ、あるいは良ければ、別の時代に放り出される形となるから、世界に存在しないわけでは無いのだろうが。不老不死、不老長寿、そういった人体変化も、この時空魔術に含まれる。時空魔術の使い手というのは、僕も含めて等しく、魔術の深淵と過去に関わりを持った事がある人間だ。

 最後の転移魔術は、ある品を、ある場所から別の場所に、まるで瞬間移動したかのように転移させ、再構築する魔術である。魔導具を用いた亜空間転移装置は、各地にある。しかし、それらにしても、生物の移動、生物の再構成は困難だ。その中で、自分自身を転移可能とする魔術が存在している。一般的に最上級の魔術が使用可能であると言われたら、自力転移可能な魔術師を指す。

 これらの他に、上級から最下級までに分類される事が多い、各系統攻撃魔術や回復魔術が、世界には存在している。生活魔術も存在するが、僕が人と関わって生きていた頃には既に、それらは魔導具にとって変わられていた。他の分類としては、単体効果と範囲効果がある。対象を一つとするものと、対象を一定の範囲とする魔術だ。

 何故魔術が生み出されたのかには、諸説ある。
 僕のように魔術の深淵に触れてしまった人間には、膨大な魔力が宿り、子々孫々まで、弱まりつつもそれは受け継がれるとも言うし、不老になった魔術師が周囲に話を披露する場も少なくはないようだから、全ての契機は、魔術の深淵である可能性も高い。

 アイスコーヒーを飲みながら、僕は本日の予定を考えた。一日は二十四時に終わる。僕にとっての本日とは、起きた現在から次に眠るまでの間となる。絶対にやらなければならない事は無い。畑には魔術がかかっているから、世話をしなくても野菜は自然に育つ。

 決して、心が穏やかなわけではない。だが、刺激が無い分、過度に荒れる事も無い。
 そう考えながらカップを傾け、長めに瞬きをした時の事だった。

「――この魔導書は、上巻しか存在しないが、中巻と下巻はどうなったんだ?」

 実にそれが自然であるように、前方から声がした。
 反射的に目を開いた僕は、対面する席に座り、長い足を組んでいる見知らぬ青年を見た。右手で、僕が嘗て製作した魔導書を開いている。左手で開いて偶発的に魔術が展開するような事態を防ぐためだ。高位の魔術師に多い仕草だ。

 そもそも崖の下のこの家に来訪する事が、困難であるが――仮にそれが出来たとしても、僕の家は不可視であるし、扉自体にも僕以外が触れる事の出来ない防衛魔術が仕掛けてあった。転移の魔術を用いたとしか考えられないが――だとして、僕に気配を微塵も気づかせず、どうやって入った? そして、どうやって僕の眼前に座った?

 黒髪の青年は、同色の形の良い瞳をしていた。その夜のような視線をスッと魔導書から上げて、僕を見た。上質な外衣を羽織っている。それも黒い。詠唱が必要な魔術も多いため、魔術師の外衣は、喉を保護する作りである事が多い。彼の右手の中指と薬指にはそれぞれ二連の銀の指輪が嵌っている。――装飾品形態の結界魔導具である。

「生み出される事は今後も無い。存在したら存在したで、この魔導書の内容は何だという苦情が来る時勢に製作した品だからな」
「だが構成として、上巻で前方、中巻で自分周囲、下巻でその他空間に魔法陣を展開する魔導書であり、三作揃った時初めて、完璧な対幻夢魔獣範囲攻撃魔導書となるようだが? 上巻のみでは、正面にいる幻夢系の魔獣を追い払う効果しか無い」
「この世界には、幻夢系の魔獣に対する魔導書も溢れている。何も、僕の魔導書を使用する必要はない」

 動揺を押し殺そうと、カップを傾けた。溶けた氷の欠片が、僕の喉を通っていく。

「お前の魔導書が、この世界に溢れているわけでは無い。俺は、他の魔導書ではなく、お前の魔導書の話をしている」
「僕は、他の多くの魔導書と比較して難有りだと口煩い人々のもとから遠ざかって、魔術武器製作からも退いた。例えば、そんな製作者をわざわざ探し出して、こんな辺鄙な土地へと訪れ、不躾に自分の中の疑問をぶつけてくるような他人から逃れるためにな」
「気を悪くさせたのならば、謝ろう。勝手に立ち入った非礼は詫びる。しかし、こうでもしなければ、お前に会う事は出来なかった。何度手紙を書こうとも届かない。送り先すら変わっている。そのお前に、お前が製作したお前以外には生み出せず完全なる理解が不可能な魔術武器について問いかけるために、他に方法があるというのか?」
「そもそもの話、僕に問いかけるなと伝えているつもりだ」

 僕の声に、青年が沈黙した。そしてじっと僕を見てから、再び魔導書に視線を落とした。

「何も言わずに使うか、言わずにいられないのならば使うなという事か?」
「その通りだ」
「では、使用後に生まれた感動を製作者に知らせたいと感じた時、どうすれば良い?」
「知らせたいと感じたまま過ごしたらどうだ?」
「――もう少し、この部分が違っていたら良かったと感じた時は?」
「一個人のそんな使用感を僕は求めていない。僕に関わるな。帰ってくれ」

 率直に告げると、青年が魔導書を閉じた。そしてそれをテーブルに置く。久方ぶりに見た自分の魔術武器の、使用感ある表紙に、心苦しくならないわけでは無かった。口ぶりからしても、僕の武器を愛用してくれているのだろうとは分かる。だが、それとこれとは話が別なのだ。僕は僕を保つために、総じて嫌いである『他人』からは遠ざかる。

「アエリアという街を知っているか?」

 青年が指を組み、テーブルの上に肘をついた。不意に変わった話題に僕は首を傾げる。

「この大陸の最も東にあるニューグリール帝国の暁都市だったか?」
「そうだ。そのアエリアの街に、暁の砦が建造される事になった」
「元々砦が存在していたと記憶している」
「ああ。正確には増改築と言えるのだろうな――先日、九割が魔獣被害で瓦解した」

 形ばかり小さく頷いてから、僕はアイスコーヒーを飲んだ。

「どうしてそんな話を僕に?」
「――ここへ来た目的は、お前に新砦の建造を手伝って欲しいからだ。内蔵させる結界魔導具、範囲攻撃効果のある巨大魔法陣、そういった部分において助力して欲しい」
「断るよ」

 きっぱりと僕が告げると、青年が嘆息した。

「富、名声、権力――いずれも不要か?」
「不要だ」
「では、何か必要としているものは?」
「目の前から客人が帰還する事だな」
「一応客であると認識されていたのか」

 随分と前向きな青年だなと思い、僕は目を細めた。

「しかし俺も、引き受けてもらえるまでは帰れない」
「勝手な話だな。泊める気は無い」
「野宿には慣れている」
「……人の、庭で?」
「お前にこの家から追い出された場合は、そうなるな」

 笑うでもなく、当然だという顔で、青年が頷いた。僕の耐え難い物の一つとして、こういった他者の無神経さと図太さが挙げられる。

「どうしたら、引き受けてくれる?」
「引き受ける気はないから、特に何をする必要も無い。帰ってくれ、それだけだ」
「人々は魔獣に苦しんでいる。お前の力が必要だ。お前が助力してくれれば、被害の程度がマシになり、苦しむ者が減る」
「――そんな中で被害が出れば、僕の力不足のせいであると集中砲火を浴びるのか? 道徳的な問題で、被害を聞けば僕は心を痛める。しかし感情論に心を動かされて、製作を引き受けるような事は、もうしないと決めているんだ」

 僕が言うと、青年が小さく首を傾げた。

「『もう』――という事は、昔はしていたんだろう? 被害の大小――いいや、その内容に問わず、実際に、過去には個人的依頼をお前が引き受けていた記録が、魔術武器連盟に残っていた」
「だからなんだ? 今は、もうしない。他をあたってくれ」
「頼む。俺には、そして多くの者にも、お前の魔術武器が必要なんだ」
「多くの者? 僕は大多数の代弁者を気取るような人間が、何よりも鬱陶しい」

 目を閉じながら、僕は苛立ちをぶつけた。すると青年が、腕を組んだ。

「そう言われてもな。アエリアの暁都市を擁するニューグリール帝国皇帝として、俺は民衆の代弁者として生を受けている。生まれながらに、俺は民の声に耳を傾ける、次期皇帝として育てられた。それは、即位した今も変わらない」

 その言葉に虚を突かれて、僕は息を飲んだ。
 ただ、最上級の転移魔術が使用可能である事には、納得が言った。元々、転移魔術は、ニューグリール帝国皇族の血脈遺伝魔術だったとされているからだ。そのため、高位の魔術師であっても一生をかけて習得可能であるような転移魔術を、僕の眼前の二十代後半くらいの青年は、生まれつき使用可能だったのだろうと推察できる。

 ニューグリール帝国は、この大陸最古にして最大の強国である。
 決して弱い国でも小さい国でもなく、その最高指揮者が、ふらりと一介の魔術武器製作者の元へと顔を出す事など、本来はありえないだろう。

「そんなにも、新砦作りは、帝国の命運を握っているのか?」
「どういう意味だ?」
「皇帝陛下が自ら指揮をするほどに」
「――俺は、それが国内のどの土地であっても、こと魔獣に関する事柄や魔術被害であれば、可能な限り自分自身で対処するように心がけている。それが、最も魔力の保持が濃い事を理由に皇帝輩出家となった、我がコールレイド皇族の姿勢だ」
「では、魔術武器製作者を自ら選んで自ら勧誘に出かける事も、その一環か。皇帝陛下も難儀なお立場だな。いけ好かない武器製作者に是と言わせるため対話を重ねなければならないんじゃな」

 僕が吐き捨てるように笑うと、彼は小首を傾げた。足を組み直している。

「ここに俺自身が来たのは、単純に、まず、会ってみたかったというのが動機だ。自分の好きな魔術武器の製作者に会ってみたい――別段不思議は無いだろう? それに……別に『いけ好かない』などとは思っていないが、お前は俺に、そう思われていると感じているのか? あるいは、そう思わせたいのか?」