【4】




 彼の馬の死という惨事が訪れたとして、それは決して僕のせいではなく、ワイル陛下自身が原因であるのは間違いようも無い事だったが、僕はその言葉に脅されるようにして、準備を整えた。

 どうやって崖を登るのかと考えながら、荷物を手に、玄関の扉を閉めた。

「荷物はそれだけで良いのか?」
「ああ。別に養ってもらわずとも、これで足りる」
「寵姫は養う」
「――は?」
「では行くか」

 ワイル陛下は、そう言うと、僕に背を向けて、少し屈んだ。

「早く背に乗ってくれ」
「――え?」
「早くしろ」

 再度促されて、僕は困惑した。まさか、この崖を素手で降りて来たのだろうか? そして、もしや僕を背負って登るつもりなのか……?

「リオ? どうかしたのか?」
「ど、どうかって……ッ……分かった」

 僕は適当に頷いた。どうせ登るなど無理だと思ったのだ。無理ならば、僕が行かなくて良い理由の一つになるだろう。僕を背負うと、ワイル陛下は立ち上がり、崖の上から垂らしたままにしてあったらしい、登山用の魔導具を可視化させた。僕にとっては非常に心もとなく思える紐が視界に入る。その紐を彼自身と僕の腰に巻いた。安全確保のための代物だ……。その後、その紐をあまり頼りにする事は無しに、ワイル陛下は崖の岩肌を素手で探りながら登り始めた。

「怖いか?」

 ゆっくりとであるが着実に進みつつ、陛下が聞いた。僕は嘆息した。

「いいや」
「では、雑談の続きをしよう。俺は、お前に好かれたい。その前の段階として、嫌われたくないと感じている。リオは、他人のどういった部分が嫌いだ?」
「自分の正当性を主張するために、相手をあげつらう所だ」
「――自分が正しいと感じる行いをして生きていく事は、俺から見れば健全だが。自分が悪いと思いながら生きている人間は少ないだろう」
「その過程で、他人が悪いと主張したり、他人が誤っていると主張する点が嫌いだ。正しいのであれば、誰かが悪いと引き合いに出す必要もなく、自分の正しさを認めさせるために自分の考えを押し付ける必要もない。それも白黒つかないような問題においてさえ、灰色を許さず、己の意見が通るまで繰り返す。そしてそれを親切心だと誤解している。誤ったままでは可哀想であると、勝手に憐憫を向ける。えてしてそう言う人間は、自身が論理的で理性的であるという誤った確信も伴っている。時には、道徳的でさえあると考えている。社会はそのような大多数の嫌な人間で構築されている。その嫌な者達は、多くの場合、大多数がこの見解なのだと、数を理由に正当性を主張する。嫌な他人の数が一人から大多数に増えるだけの話なのにな。その上、ではその大多数を明確に挙げるよう問いかけたならば、果たしてどうなる事か。始まるのは、内輪揉めだ。今度はその大多数の内側で、自己主張同士がぶつかり合い、自分はそんな事を言っていない、そういう意味では無かったという論争が起きる。この一連の流れを、健全とする世界、それ自体が、僕は嫌いだ」

 語りながら、僕はどんどん小さくなっていく家をちらりと見た。この高さから落下すれば、何もしなければ死ぬだろう。

「お前は自分のその考えが正しいと思うのか?」
「僕の考えが正しいか否かを、問題としていないんだ。人によって回答が異なるものだからな。問題としているのは、結果として僕が、他人が嫌いだという部分だ」
「数が論拠で無いのだから、嫌な他人の数が良い他人の数より多いというのも問題では無いという事か?」
「そうだ」

 大きく頷きながら、僕は無意識に、彼の体に回している腕に力を込めていた。

「では、たった一人の良い他人――つまり俺がいれば、人間を好きになってくれるのか?」

 すると、思わず腕から力が抜けてしまいそうな声が返ってきた。

「陛下が僕にとって良い他人であるという、その根拠無き自信は、一体どこから生まれてくるんだ? 決して陛下が僕にとって良い他人では無いと断った上で答えるが、答えは否だ。良い人間は沢山いた。僕は良い人間の存在から他者を好きでいる事よりも、嫌な他人の存在から遠ざかる事を選択したんだ」
「深く考えすぎなんじゃないのか?」
「その通りだ。そして僕は、考えが足りない人間もまた嫌いだ」
「自己主張するというのは、考える事では無いのか?」
「そこを錯覚している人間が多すぎる。逆だ。自己主張を思考と誤認しているような浅薄な輩に、僕は耐えられない。本当によく考えたならば、世の中の主張の数は減るだろう」
「繊細なんだな」
「陛下が知る僕以外が無神経なのかもしれない」
「――良い意見のみ採用し、受け入れていってはどうだ?」
「もうその気力すらないんだ」
「俺が盾になる」

 鬱陶しい話である。陛下よりも非常に優秀な盾――魔術武器連盟という公的機関があってなお、嫌な他人はどこへでも訪れるのだ。今回こうして、彼が我が家を訪れた事もまたそれと同じだ。どうしてついてきてしまったのだろうかと、既に後悔し始めていた。

「では――魔術武器を作る事は、好きか?」
「そうだな」
「使って欲しい相手にだけ、売ってはどうだ? 例えば、俺だとか」
「別に陛下に使って欲しいわけではない、が、使って欲しくないわけでもない。僕は、特定の人間のために、魔術武器を製作していたわけじゃない。強いて言うならば、自分のために作る、自分があれば良いと思う品を考える、そうしている――そうして、いた。過去の話だ、それも。僕は今、魔術武器を作る事も止めた」
「逆にそれは残念でもあるな。いつかお前に、俺だけの杖を作ってもらいたいものだ――使って欲しくないと言われなかっただけで良いとするか」
「公開されている連盟指定武器を使う権利は、誰にでもある。作成者がその権利を奪う事は出来ない」
「――公開しなければ良い、という結論に達したのか?」
「ああ。だから、製作を止めた」
「来て良かった。俺が来なければ、二度と新作の武器にはお目にかかれなかったという事だからな」

 そう口にして喉で笑うと、陛下が大きく吐息した。こめかみに汗が見える。

「確かに世界には、自分を加害者だと理解していない、悪意なき加害者は多い。同じくらい、自分を被害者であると感じる人間も多い。それらをすり合わせるために、譲れない部分には法が定められる。犯罪の明確化だ」
「そして、二人以上いれば生じる社会において、法では裁く事が困難な、あるいは触法しない出来事の数を見るに、他者が嫌いである以上、一人の世界にこもり生きていく事が最も僕にとっては楽な事なんだよ」
「分かり合いたいとは思わないのか?」
「思わない」
「主張するのは、相手に知って欲しいからであり、相手の主張を聞く事で、相手の事もまた知りたいのではないか?」
「僕には、相手の主張を聞き、相手のことを知るのではなく、相手の主張を如何にして叩き潰すかを考える他人、その上で自分の主張を通そうとする他人の方が多く感じる」
「お前の世界の他者像というものは、出店で菓子をねだる我儘な幼子のような存在か?」
「欲しいという本音のみで、余計な論法で自身すらも欺き正当性を主張する事の無い子供は、だいぶマシだ」

 僕がそう言った時、陛下が動作を止めた。

「少し疲れた。休もう。俺に掴まったまま、動かないでくれ」

 最初から僕は、背負われて以後、ほぼ動いてなどいない。果たして一体どうやって休むつもりなのだろう。ちらりと見た下は、既に屋根が小さく見えるだけになっていて、相当な高さまで登ってきた事が分かる。まさか本当に僕を背負って崖登りをするとは……。意表を突かれすぎて、言葉が見つからない。だからいつもよりも饒舌に、僕は喋ってしまうのだ。いつもならば黙り抜くような事も多いのに、誰かに語ろうとも思わないのに、崖の高さが上がる度に、僕の口は軽くなる。既に、落下すれば即死する高さだ。

「誤っている事は、誰かが指摘しなければ改善されない」
「改善しなければ、誰かを殺傷したり、法に触れるわけでもなく、指摘した人間が満足するだけの結果であってもか? 僕が言いたいのは、指摘する必要性の吟味をしろという事だ。闇雲に自分の善悪や信念と比較した時、気にかかるからといって、主張すればそれで良いのか? ああ、当人は良いのかもしれないな。例えばな、包丁で自分の喉を掻き切ろうとしている人間に、死ぬからやめるべきだと指摘するのは、僕にだって当然だと分かる」「なるほど。指摘が欲しいと望んでも無反応の者からすれば、贅沢な悩みとなるのだろうが――互いに不幸だな。指摘した側はしても直らず苛立ち、された側は指摘をそもそも求めておらず直す気も無い」
「そういう事だ。関わらないのが最良だ。欠点のない魔術武器など存在しない」
「お前が欲しい指摘は、例えば?」
「そうだな、スープを作る際、塩の代わりに間違って砂糖を入れようとしていたら、指摘して欲しいだろうな。だが、世の中には、間違って砂糖を入れようとしているのか、それともアクセントやそういう味付けで砂糖を加えているのかの判断が出来ない人間の方が多い。ならば、黙って塩の代わりに砂糖を入れるのを見ていてもらった方がマシだ。つまり、欲しい指摘は特に無い。甘くてとても飲めたものでないと感じるならば、捨てろ。必要ならば、味見役は僕が自分で見つける」
「ぜひ俺をその味見役にしてくれ――しかし、弱ったな。魔術武器職人というのは頑固であったり偏屈な人間も多いが、砦の建造の際には、俺側の意見や指摘も飲んでもらいたい」
「安心して良い、引き受ける気は無い」

 僕の言葉に、彼が吐息に笑みをのせた。困っているようにはとても見えない。
 それよりも、僕は下が気になって、チラチラとそちらばかりを見てしまう。
 高い崖の一角で、岩肌にしがみついている事が、本当に休息になるのだろうか?

「それは困る。この場での決定は保留としてくれ」
「……」
「所で、お前から見れば悪意であるとしても、客観的に判断して無害な指摘を除いた場合、どの程度、世界には嫌な他人がいるんだ? 率直に言えば、誹謗中傷のような客観的に考えても悪意ある他者だ」
「さぁな。もうみんな亡くなったんじゃないか? 嫌いな人間の一挙手一投足を把握するような行動を僕は取らない。距離を置く。そして現在、外部との連絡先を僕は設けていない。幸いな事に、僕を罵るために崖を降りてきた人間はいない。降りてこない位置を見つけ出すまでに苦労したよ」
「では、好きな相手は?」
「他者との交流は全て絶っている。連盟が僕の住所を把握していた理由は、事務連絡事項手続きのためだ」
「俺以外の相手の影が無いのは良いな――さて、登るか」

 そうして、彼が再び崖を登り始めた。僕の肌には、疲労ではなく高所への恐怖から、僅かに汗が浮かび始めた。