【8】狭い世間


 その週の木曜日――午前中の診察時間が終わり、午後からは休みとなった。本日は、救急のバイトもお休みだ。何をして過ごそうかと考えながら、クリニックの扉を閉めに向かう。そして看板をしまおうと外に出た所で、昼威は眉を顰めた。

「暇そうだな、藍円寺昼威」

 そこには、妖狐の水咲が立っていた。やはり神聖な気配がする。だが先程まではしなかったから、たった今、ここへと来たのだろう。

「アメ様に頼まれごとをしたというのに、暇そうだというのは、不可解な話だな」
「何も聞こえない。俺には何も聞こえない。ただ強いて言うなら、引き受けた覚えはない」

 確かに少しだけ興味を持ってしまい、呪殺屋の名前などは調べてしまったが。
 しかしあれ以後、特に何をしたわけでもない。

「今日の夜、六条彼方が新南津市に来る」

 水咲は昼威の言葉には答えずに、そう続けた。

「人間の行事の中に、顧客が多く集まるものがあるそうだ」
「なんだそれは? 別れさせ屋の顧客が多く集まる行事?」
「『まちこん』というそうだ」
「街コン?」

 合コンならば、昼威も何度もやったから分かる。それから記憶をたどって、どこかで聞いたなと考えた。


「――ああ。あれか。街主催の出会いイベントか」
「そうらしい。人間の行事はよく分からない」
「何故出会いのイベントに別れさせ屋が出てくるんだ?」
「想い人が出席者で嘆いているものもいれば、既婚者が独身を装って不義の相手を探して歩く事もあるからだと、アメ様は仰っていた」

 それを聞いて、昼威は腕を組んだ。

「――人間同士の婚活だのをする場だろう? 妖同士でも妖と人間でもないはずだ、出会うのは。それにわざわざ、六条彼方が来るのか?」
「それを調べるのが、藍円寺昼威、お前の仕事だ」
「は?」
「報酬は弾む」

 唐突な言葉に、昼威は思わず声を上げた。しかしくるりと踵を返し、そのまま妖狐は消えてしまった。唖然としながら、昼威は遠い目をした。

 溜息をつきつつ、スマホで検索してみると、夕方五時から新南津市のとあるホテルで街コンが開催されるとすぐに分かった。当日参加も大歓迎とある。

「……」

 少し悩んだが、報酬という言葉を脳裏で反芻した。どうせ本日は暇である。


 そう考えながら、一度藍円寺へと戻り、昼威は居間にいた享夜を見た。

「おい」
「なんだ?」
「私服を貸してくれ」

 残念ながら、昼威は街コンに行くのにふさわしいような服装は持っていなかった。
 最初はスーツで良いかと思ったが、『カジュアルな服装推奨』と書いてあったのである。

「ああ。どこか行くのか?」
「ちょっとな――享夜は、今日は休みなのか?」
「最初はバイトの予定だったんだけどな、たまたまその前を紬が歩いたらしくて、自動的にその場が浄化されたそうで、俺は行かなくて良くなった」

 弟の言葉に、昼威は頷いた。

 享夜が、幽霊吸着装置のごとく霊を引き寄せるとすると、玲瓏院紬は、幽霊自動掃除機だ。紬が歩くと、浮遊霊や微弱な妖魔は消えていく。

「昼威はどこに行くんだ?」
「街コンだ」
「え?」
「出会いを求めているわけではない」


「……ああいう場所は、本当に出会えるのか?」
「さぁな。お前も行くか?」
「えっ……あ、ああ」

 なんとなく誘った昼威の前で、虚をつかれた顔をしてから、恥ずかしそうに享夜が頷いた。純粋な弟は、二十七歳にして未だにカノジョが出来た事がないと昼威は知っている。哀れだ。昼威は、何度かカノジョがいた。そしてさらに哀れなことに、享夜は大体の場合、昼威のカノジョに片思いをしていた過去がある。違うのは、昼威が遠方の大学時代に出来たカノジョくらいのものである。兄弟だけあって、女性の好みが似ているらしい。

 その後、昼威は享夜から服を借りた。享夜も洒落た服に着替えた所で、二人揃って街へと出た。車で出ても良かったのだが、アルコールが出るらしかったから止めた。途中でバスに乗り、駅前のホテルへと向かう。

 会場は立食パーティ式で、好きな相手と自由に談笑して良いようだった。
 シャンパングラスを手に、昼威は周囲を見渡す。
 そして眉を顰めた。

 ――参加者の、三分の二が人間ではなかったからだ。
 人間に化けている狐狸だったのである。
 客の内、人間は十人に満たなかった。

「昼威、なんだか吐き気がする」

 除霊のバイトはしているものの、視えない弟は、入って早々顔を青くした。


「享夜、会場に何人いるように見える?」
「は? 俺とお前の他は、十人しかいない」

 視えない弟が断言するのだから、やはりそうらしい。しかし視える視えない以前に一般人の他十名は、妖魔の暗示にかかっているらしく、会場には更に二十人前後いると感じているようだった。

 一人、また一人と、人間達は、美しい妖の甘い言葉に惑わされていく。
 享夜はといえば、一番人気のない場所に移り、ひたすら料理を食べ始めた。
 視線を上げようともしない。

 除霊のバイトをしているわけだが、弟が誰よりも怖がりである事を昼威は知っていた。
 昼威は、酒を飲みながら、周囲を観察する。
 すると――会場の奥に、質の良いスーツを着た一人の青年がいる事に気がついた。

『彼方様、もうあの人間は私の虜です。これで無事に別れさせる事が叶いましょう』

 その時、普通の人間には聞き取れないような、直接脳裏に響かせるような声がした。それは青年に歩み寄った妖艶な女の声だった。青年は満足そうに頷いている。


「なるほど。別れさせ屋が主催しているのか、街からの請負という形で。それで、呼び寄せた人間を配下の狐狸に誘惑させて、別れさせているという事か」

 なるほどなと考えながら、昼威は呟いた。
 するとその時――不意に青年、六条彼方が昼威を見た。
 薄い唇の端を持ち上げると、彼は昼威に会釈した。

 それから彼方は、昼威に歩み寄ってきた。

「楽しんで頂いていますか?」
「ああ」
「六条と申します」
「頂戴します」

 名刺を渡されたので、昼威は受け取った。それから己の名刺も取り出す。

「藍円寺? もしかして――朝儀さんの……?」
「朝儀は兄ですが、ご存知なんですか?」
「ええ、少しだけ」

 驚いた昼威の前で、柔和に彼方は微笑した。


「これも何かの縁です。悪い事は言いません、お帰りになった方が良い」

 しかし続いた彼方の声は、不穏なものだった。その瞳が暗く光っていたので、昼威は危険だと判断し、小さく頷いた。

「ああ。帰る。今日は、素敵な催し、感謝する」

 その後昼威は足早に享夜へと近づいて、腕を引いた。

「帰るぞ」
「そうしよう。俺も、一刻も早く帰りたい!」

 こうして、二人はホテルを出た。その場で別れ、バスで藍円寺の最寄りに行くという享夜とは別れ、昼威はクリニックへと一度戻る事にした。

 ――妖狐と神様は、頼み事を断っても、祟ったりはしない。

 しかし、あの六条彼方という人物は危険そうだった。

「関わらない方が良さそうだな」

 一人そう呟いて、昼威はクリニックの奥の部屋で、眠る事にした。
 深夜から救急のバイトがあるので、藍円寺には帰らなかったのである。