【9】夏本番


 その内に、夏本番が近づいてきた。梅雨が終わったのはありがたいが、熱中症で救命救急が混む時期が近づきつつある。なお、クリニックは混まない……。切ない気持ちになりながら、昼威は予約ゼロ・来院ゼロの診察時間に、オークションサイトを眺めていた。

「あ」

 見ると――そこには、フロイトの直筆の手稿が出品されていた。
 欲しい……。
 しばらくじっとそれを見てから、この日、昼威は藍円寺に、久しぶりに帰る事にした。

 そこで朝方まで救急でバイトをし、仮眠をし、一度クリニックに戻って落札してから、火曜日の夜、昼威は藍円寺へと戻った。

 お惣菜のパックと発泡酒を購入して帰ったのだが、冷蔵庫を開けると、ビールが入っていた。享夜は普段、酒を飲まないから、この缶は弟が買っておいてくれたものだと分かる。気遣いがありがたいなと思いつつ、昼威はパックをテーブルに並べた。

 享夜には、昨日の内に、帰ると連絡しておいた。今回は、顔を合わせないわけにはいかなかったからだ。なにせ、フロイトの直筆の原稿がかかっている。早く帰ってこないかと、昼威は何度も時計を見ながら、弟を待った。

 玄関の扉が開く気配がしたのは、九時過ぎの事である。


「遅かったな」

 そう声をかけて、昼威は立ち上がった。享夜の肩に、大量の浮遊霊や微弱な妖魔がのっていたからである。それを見て、バシンと昼威は手で振り払った。

「ホコリが付いていたぞ」
「洗濯には気を遣ってるんだけどな」
「へぇ」

 曖昧に返事をしつつ、実際に享夜は洗濯やアイロンがけをきっちり行っているなと昼威は考えた。昼威は面倒だと、捨てて新品を購入する場合がある。財布に余裕がある時のみだが。そして余裕はめったにないので、享夜に洗濯をそれとなく頼む場合が多い。他の見方は簡単だ。洗濯機の横のかごに無言で衣類を放り込むだけである。すると、次に帰宅した時には、綺麗な状態で部屋に置いてある。よく出来た弟だ。

 それから二人で、お惣菜を食べる事にした。

「今日も、除霊のバイト帰りか?」
「まぁな」
「馬鹿馬鹿しい。幽霊なんて、いるわけがないだろう」

 ビールを飲みながら、昼威は言った。すると、人がいる場合は酒を口にする享夜もまた、缶ビールを手にし、蓋を開けた。それを眺めながら、昼威は続ける。


「お前の仕事なんて、葬式だけだろ。それすらほぼ無く、怪しいバイト」

 するとグイっと酒をあおってから、享夜が昼威を睨んだ。

「あー!? 誰の金でご飯食べてると思ってるんだ、このヤブ医者! お前のクリニック、ほとんど人が来ないだろー!」
「……うるさい」

 これは、二人の間のいつものやりとりだ。別段彼らは不仲ではないのだが、昼威が除霊を馬鹿馬鹿しいといい、享夜が無人のクリニックについて指摘するのは、二人が顔を合わせた時の日常風景である。

「葬儀だって大切な仕事だ!」

 そう叫んでから、享夜がビールを煽る。

「俺は死んだあとじゃなく、生きてる人を救いたいんだ」

 眼光を強めて昼威が言った。これは彼の本心でもある。

「ご立派なことだな! けどな、だったら――救急のバイトで入った金、さっさと家に入れろこのバカ! お前は大人しく外科にいけー! 人を切り刻む才能に長けてるんだからそれを伸ばせー!」

 しかし――こう言われてしまうと、昼威には、返す言葉が無い。


「第一、手術着でうろうろすんなって言ってるだろ!」

 すると享夜が続けて叫んだ。適度な私服が無かったため、昼威は本日も術着だ。

「……汗をかいた時、手術着の方が楽なんだ。今、夏だし」
「どんな言い訳だ!? この三十路独喪男!」
「独身貴族と言い直してくれ。それに、それだけは、お前には言われたくない」

 冷静に昼威が返すと、享夜が動きを止めた。昼威から見ると、弟は決してモテないわけではないのだが、享夜自身が自分から恋愛面において率先して動くような性格ではないので、昼威が知る限り、これまでに恋人が出来た姿を見た事が無かった。

 そう考えてから、昼威は本題を切り出す事にした。

「それより……その、悪い、二万円程、貸してもらえないか?」
「あーっ、やっぱりそれで帰ってきたのかよ! 昼威! お前、使いすぎ!」
「頼む……!」

 昼威は深々と頭を下げた。すると享夜が辟易したような顔をした後、眉を顰めた。


「今度は何に使ったんだよ?」
「……フロイトの直筆の原稿がオークションに出ていてな……」
「そんなもん贋作だろ、どうせ」
「落札してしまった……」
「あーもう……」

 享夜はしばらくの間怒っていたが、結局、昼威にお金を貸した。
 ありがたく昼威は借りた。

 ――時々、考える。三十一歳にもなって、弟にお金を借りている自分って、ダメだなぁと。しかし、欲しいのだ。どうしても、欲しかったのだ……。

 なお、無事に落札は出来たが、今回の品もまた、贋作であった……。