【*】享夜くんと僕(藍円寺斗望の日記)


 藍円寺の紅葉が色づいている。
 銀杏の黄色とモミジの赤が、絨毯みたいに地面を埋め尽くしている。
 僕が石段を上っていくと、享夜くんの姿が見えた。

 暗い紫色の僧服に、袈裟をつけている享夜くんは、僕の叔父さんだ。見た目はちょっと怖いけど、僕にはすごく優しいから大好きだ。錫杖の代わりに竹箒を手にしている享夜くんは、落ち葉を片付けている。

「ああ、斗望」

 そして僕に気づくと顔を上げ、小さく笑った。柔らかいその眼差しを見ると、僕はホッとする。僕は、今小学六年生なんだけど、この新南津市に五歳頃引っ越してきてからは、毎週末、こうしてお父さんの実家である藍円寺に顔を出している。

 最近は、お父さんに連れてこられなくても、一人で遊びに来られるようになった。
 僕のお父さんは無職だから、週末は仕事探しを特に頑張っているんだと思う。
 邪魔をしちゃダメだ。

「おいで。クッキーを貰ったんだ」

 享夜くんはそう言うと、箒を手に歩き始めた。僕は駆け寄り、享夜くんの隣に並ぶ。

「あのね、聞いて」
「なんだ?」
「芹架くんが、学校に来るようになったんだよ」

 僕が満面の笑みで言うと、享夜くんが僕を見た。享夜くんは僕よりもずっと背が高い。僕も早く大きくなりたい。でも、僕のお父さんは、享夜くんや、享夜くんとお父さんの間の叔父さんの昼威さんよりも背が低いから、もしかしたら、僕も伸びないかもしれない……。

「そうか。前に話していた、一年来なかったという子だな?」

 享夜くんは、いつも僕の話を覚えていてくれる。お父さんはたまに忘れるんだけど……。

「うん。なんか、昼威さんがね、助けてくれたんだって」
「昼威が?」

 僕の言葉に、享夜くんが驚いたような顔をした。それから、少しだけ苦い顔で小さく吹き出した。

「あいつは医者だけあって、人助けが上手いな」

 そう言った享夜くんを見ながら、僕はお寺のそばのお家に入った。僕の友達の冥沙(メイサ)ちゃんとかは、享夜くんの事を「笑わなくてクールで格好良い」と言うんだけど、享夜くんは、僕の前では沢山笑う。

 それから居間で、僕は享夜くんに緑茶をもらい、テーブルの上にあったアイスボックスクッキーを手にした。

「これは、どうしたの?」
「ああ、絢樫Cafeで貰ったんだ」
「絢樫Cafe……?」
「バス停からこの寺に来るまでの途中にある喫茶店だ。少し前までは、マッサージもしていたんだけどな」

 享夜くんの言葉に、僕は何度か頷きながら、パクパクとクッキーを食べた。
 すぐに、クッキーは無くなってしまった……。

「享夜くん、もっと食べたい」
「斗望、もうすぐ夕食だ。あんまり食べちゃダメだ」
「今日はお父さん、まっすぐ出かけるみたいだったから――お惣菜のパック?」
「う……――あ。そう言えば、軽食メニューもあったな」

 僕の声に、享夜くんが思い出したように言った。

「絢樫Cafeに行ってみるか? 晩ご飯に」
「行きたい!」

 こうして、僕達は出かける事になった。

 ――いつもだと、遊びに行く時、享夜くんは私服なのだけど、今日は僧服のままだった。僕は並んで歩きながら、楽しい気分で、これから行くお店について考える。

 すると、目の前で女の子がトラックに轢かれた。
 美和ちゃんだ。
 正確には、女の子の幽霊だ。

「っ」

 ビクリとした享夜くんが、不意に僕の手を掴んだ。僕は驚いた。美和ちゃんは、いつもここで轢かれているんだけど、見える人と見えない人がいて、享夜くんはこれまで見えなかったからだ。そういえば、享夜くんはこの前ここで、交通事故にあったらしい。

「享夜くん、怪我はもう大丈夫?」
「あ、ああ……奇跡的なかすり傷だったからな……」

 無表情の享夜くんは僕の手をギュッと握って、足を速めた。
 そうして進んでいくとすぐに、絢樫Cafeという看板が見えた。

「あそこ?」
「そうだ」

 僕が見上げて問うと、優しい顔で享夜くんが頷いた。僕はその首筋を見て、小さく目を瞠った。赤いマークがあったからだ。きっと、キスマークだ。享夜くんに、女の影だ! 大人だ……。

 ちょっとドキドキしながら、僕は享夜くんに続いて中へと入る。
 豪華な飴色の扉を開けると、甘い香りが広がった。

「いらっしゃいませ」

 姿を現したのは、高校生くらいのお兄ちゃんだった。薄い茶色の髪で、僕が初めて見る緑色の瞳をしている。名札には、『砂鳥』とあった。

「藍円寺さん――と、」
「甥の斗望だ」
「斗望くんですね。こちらへどうぞ」

 享夜さんに対してにこやかに砂鳥さんが言った。砂鳥さんからも甘い匂いがする気がした。促されて向かった席は、ふかふかのソファで、正面にテーブルがある。窓を向いて、横長のソファに二人で座った。

「どれも美味しいんだ」

 享夜くんはそう言うと、メニューを手に取り、僕の前に広げた。写真付きで、色々な料理が並んでいる。

「僕、明太子のパスタ」
「……辛いぞ? たらこにしたらどうだ?」
「え? 辛くないよ」

 僕が言うと、享夜くんが複雑そうな顔をした。僕は知っている。享夜くんは、辛いものが苦手なのだ。回転寿司に行くと、僕はわさびを使うけど、享夜くんはわさびは絶対手に取らない。

「俺はラザニアにする」

 こうして注文する品が決まった時、丁度良く、砂鳥さんが歩いてきた。砂鳥さんだけではなく、その隣に、『ローラ』という名札をつけたお兄さんもいた。猫のような目をしている。

「こんにちは、藍円寺さん。それに、斗望くん」

 ローラさんがそう言うと、享夜さんがびくりとした。どうしたんだろう?

「ローラ、甥だ。べ、別に――気を遣わなくて良い」
「ん? いつも通り呼べって意味か?」
「……砂鳥くん、俺にラザニア、斗望に明太子パスタを頼む」
「承りました!」

 砂鳥さんは笑顔で注文を取ると、すぐに下がっていった。しかしローラさんは、享夜くんの隣に座った。享夜くんが少し僕側にずれて、場所を作った。

「斗望くん、か。んー、藍円寺に似て――しかも藍円寺より濃くて美味しそうだなぁ」
「ロ、ローラ! 斗望に手を出したら、絶対に許さないからな」
「それはどういう意味合いだ? 嫉妬か? それとも保護欲か?」
「保護欲に決まっているだろうが!」

 享夜さんが声を上げた。僕は、濃いっていう意味がよく分からない。髪の毛だろうか? 享夜くんは、二十七歳だけど、まだフサフサだ。そう考えていると、享夜くんが僕を見た。

「斗望、ローラは吸血鬼だから、迂闊に近づいてはダメだぞ」
「え? 吸血鬼!?」
「そうなんだ。二人だけの秘密だからな」

 享夜くんはそう言って、唇の前に、一本立てた人差し指を置いた。黙っていろという合図だ。それから僕は、ローラさんを見た。目が合うと、楽しそうに笑われた。

「叔父さんは、冗談が好きらしい」
「うん……冗談……そっか」

 吸血鬼なんているはずがないから僕が頷くと、ローラさんがクスクスと笑った。

「ただ、俺が吸血鬼だというのは、実は本当の事なんだ」
「え!?」
「ローラ……」
「なんだよ、藍円寺。お前がバラしたんだろう?」
「っ」
「――それでなぁ、斗望くん。今はほら、人外と言えども、働いて喰う時代だろ? だから俺も働いて、お前の叔父さんから血をお給料に貰っているんだ」

 それを聞いて、僕は目を丸くした。

「じゃあ僕が血を上げたら、ローラさんは、働いてくれるの?」

 素朴な疑問をぶつけると、ローラさんが驚いた顔をした。享夜くんはむせた。

「――あー、それはな、ダメなんだ。藍円寺が俺にな、『この集落を守る住職として、むやみにほかの人間に手を出すな』って言ったんだよ。格好良いよなぁ。それでな、『俺の血だけを取れ』だそうだ。僧侶のかがみだよ、斗望くんの叔父さんは」

 笑顔でローラさんがそう言うと、享夜さんが真っ赤になって俯いた。
 照れているらしい。

「うん。享夜くんはいつも格好良いよ」

 僕は本当のことなので、笑顔で同意した。すると享夜くんが両手で顔を覆ってから立ち上がった。

「ちょっとお手洗いに!」

 ……恥ずかしいとトイレに逃げるのは、享夜くんの癖だって、お父さんが言っていた。立ち上がって歩いていく享夜くんを見て、僕は再び首の赤い痕に気がついた。

「ねぇねぇ、ローラさん」
「なんだ?」
「ローラさんは、享夜くんと仲が良いの?」
「かなりな」
「じゃあ――享夜くんのカノジョ、分かる?」
「ん?」
「享夜くん、首にキスマークがあった。女の影だよ!」

 僕がそう言うと、その場に冷気が漏れた。なんだろう? 急に室温が下がった気がする。

「斗望くん、詳しく」
「あのね、享夜くんの右側のあの所に、赤い痕があったんだよ」
「へぇ」

 ローラさんは笑顔だったが、どこか不機嫌そうだ。もしかして、ローラさんは享夜くんよりもイケメンなのに、非リアという生き物なのだろうか? 吸血鬼だからモテないのかもしれない。

 そこへ、享夜くんが戻ってきた。

「――ああ」

 その首元を見て、ローラさんが頷いた。

「斗望くん、あれはな、ただの虫刺されだ。キスマークっていうのは、その斜め下の合わせ目のちょっと上の、鎖骨のそばの、あれだ」
「え!」

 僕が驚いていると、享夜くんが眉を顰めた。

「お前ら、一体何の話をしているんだ? 斗望、変なことを教わっちゃダメだぞ? ローラも子供におかしなことを吹き込むな。キスマークって一体何の話だ?」

 するとそれを聞いたローラさんが吹き出した。

「キスマークなんて簡単に付けられるだろう。常識だ。一般常識だ。小学生にだって知る権利はある」
「な……嘘をつくな。俺は小学生の頃、知らなかった」
「純粋ですね、藍円寺さんは」
「馬鹿にして……」
「――手の甲を自分で吸ってみれば良いだろ」

 ローラさんの言葉に、僕は目を見開いた。悟りを開いた気分だった。
 右手の甲に吸い付いてみると――鬱血痕ができた。

 その内に、美味しいパスタが届いた。