【2】榎波、料理を作る。
榎波が腕を組んで首を傾げた。
「なぜここに?」
「ああ、ちょっとな、時東と遊びに来たんだけど、あいつ仕事で帰った」
「なるほど。お前も帰るのか?」
「うん」
「――送る」
「え? 大丈夫だ」
「最下層から出たことのない、いうなれば田舎者のお前に親切で教えてやるが、ここにはナンパを得意とする虫が沢山いるんだ。それはそうと、腹が減ったな。お前は何か食べたか?」
「いや、食べてない」
ゼクスが言うと、榎波がゆっくりと頷いた。
通りかかったのはたまたまだが、幸運だったと思っている。
「私は何か食べたい。ゼクスも食べていくか?」
「俺はいい」
「何故だ?」
聞いてから、榎波は思い出した。元気そうに見えるが――ゼクスは病気らしい。
先日のマインドクラック時の容態ほど酷くはないが、慢性的に具合が悪いはずなのだ。
時東が連れ出しているくらいなのだから、そこまで問題はないだろうが。
とはいえ思わず聞いていた。
「食欲がないのか?」
「……」
「――金がないのか?」
「……両方だ。まず金はない。それと、夜しか基本的に食べないんだ」
「不健康極まりないな」
「……」
ガチ勢が置いていってくれるもの以外は、ハーヴェストクロウ大教会でお世話になっている。それ以外、ゼスペリア教会には食べ物がないのである。
「支払いは私がする、というか、気にするな。どうせ経費で落ちる」
「……そ、そうなのか?」
「ああ。とりあえず、ついてこい」
「わかった」
こうして榎波が一歩早く進み、時計塔から外に出た。
そして、噴水から左に五本の通りを抜けた後、広がる繁華街への坂を下りた。レンガで作られた石畳を降りて、最初に榎波が向かったのは、さらに大きい通りの一本裏にある、一見雑貨屋のような場所だった。CLOSEの看板が出ていたが、榎波は扉を開けた。
中に入る時、ロステク防衛システムの透明なフィードを通過したことにゼクスは気づいた。扉が勝手に締まる。榎波は奥の急な階段を登っていった。ゼクスも続いて歩きながら首をかしげた。
「ここは?」
「私の隠れ家のようなものだ。城に近くていいだろう? 護衛隊の住居や榎波の家に戻るのが面倒な時に、ここで寝泊まりしているんだ」
「そうなのか」
「それと時東にはああは言ったが、護衛をするつもりはないから、自分で気をつけろ。お前ならば余裕だろう?」
「……」
「お前が私に守ってもらわないと死んでしまうと泣いて懇願したら、何もしなくて結構だ。そうでなければ、そばにいて敵がいれば対処するが、そばにいてお前が襲われて勝手に対処している分には眺めておく」
「わかった」
「それで、何か食べたいものは? 少しくらいは食べられるだろう?」
「……食べたいもの……か。難しいな……食べられるだろうけど――榎波は?」
「適当に冷蔵庫にあるもので十分だ」
「教会の冷蔵庫には、ピクルスしか入っていないけど、ここには何があるんだ?」
「――昨日は何を食べたんだ?」
「ピクルスだ」
「一昨日は?」
「ピクルス……」
「その前は?」
「……ピクルス」
「さらに前は?」
「……多分、ピクルス」
「ピクルスの前はいつ何を食べたんだ?」
「ナポリタンを食べたと思う……」
「――お前はその食生活についてどう思う?」
「……思ったより豪華だった」
「ほう」
「もうちょっと減らしてもいいかもしれないな」
「……――とりあえず、ここの冷蔵庫にあるものを始末する。どうせ放置しても捨てるだけだから適当に大量に作る。しばらく戻れそうにないんだ。文句を言わずに適当に食べろ。食堂には、こちらから降りる」
こうして榎波が歩き出し、別側の階段を下りたので、ゼクスも続いた。
そこはキッチンとテーブルがある、小さな部屋だった。こちらにも入口がある。
「座っていろ、灰皿は好きに使え」
荷物を置いてそう言ったあと、榎波が冷蔵庫から、ジュースの瓶を取り出し、コップとともにテーブルにおいた。そそいでゼクスの前に置き、上着を脱いで黒いエプロンをつける。なんだか申し訳なかったが、ジュースを一口飲んでみた。パインジュースだった。
「美味いなこれ……!」
「そうか? それは良かった」
手際よく料理をしながら、ほかに何を作るか考え、数品仕上げて榎波は振り返った。そして――うっとりするような顔で大切そうにジュースを飲んでいるゼクスを見て、なんだか動揺した。白磁の頬がわずかに色付き、瞳が幸せそうに見える。そ、そこまで?
「――どうせ捨てるから、全部飲んでいい」
「え? い、いいのか?」
「ああ。ここでそれは完全に破棄する」
「これ、榎波が作ったのか……? 本当にさすがだ」
「そうだ」
「……」
「とりあえず飲め」
持って帰ると言い出しそうだったゼクスを制して榎波は言った。何度もゼクスは頷いている。そして心底驚いたような顔をしていた。その後、持参予定の保存が利くものや調味料、器具を適当にしまった後、榎波はテーブルに完成品を並べていった。それを見たゼクスが目を丸くしている。――まぁゼクスが驚くのも無理はない。一般的な冷蔵庫にあるありあわせのものでは出来上がらない品々が出てきたのである。榎波の『普通』の料理は、普通ではない。それは貴族だからではない。『榎波だから』である。榎波男爵家は、王都一の料理人だった祖父の代から、場合によっては王家の人間よりも美味しいものを食べて暮らしている、そして自作している家柄である。最高級レストラン、ロイヤル三ツ星の創業者一族である。
「私は一服してから食べるから、先に食え」
「あ、ああ……いただきます」
こうしてエプロンを外した榎波がタバコを吸う前で、おずおずとフォークを手にしたゼクスが食べ始めた。
「……!」
これまでの人生で食べた中で一番おいしかった。
緊張して体がこわばる。変な汗が出てきた。人生がかわった。
もう一生食べることはないだろうと思いつつ、ゼクスなりにかなりの速度で、パクパクたくさん食べ始めた。
――榎波から見ると、尋常ではなく食べるのがゆっくりでお上品に思えた。マナーという意味ではそれはそれで完璧だが、そういう意味ではない。周囲に大勢いる最下層連中を思い出しても、護衛隊のメンバーを思い出しても、基本的に殺し屋系統は食べるのが早いのだ。かつ大量に食べる。自分が食べる分がないことすら考えて榎波は作ったが、全料理皿から、それぞれ少量取ったゼクスは、全て食べた後、頷いた。
「こんなに美味しいものを、こんなに沢山食べる日が来るとは思わなかった。榎波は護衛隊じゃなく、厨房の人間になるべきだったな……」
「――誘いは今でも来る」
「それはそうだろうな。これはおかしいクオリティだ」
「もう食べないのか?」
「ああ、ごちそうさま。もう一週間くらい何も食べなくても大丈夫だ。最悪でも一日三度ピクルス・ピクルス・ピクルスの日々を過ごせ」
「あ、ああ……努力する。しばらくは、ピクルスも足りると思う」
「そうか――じゃあ残りは私が食べる。本当にもういいのか?」
「大丈夫だ。じっくり食べてくれ」
残したらもったいないしと思いながらゼクスが言うと、頷いて榎波が食べ始めた。
ゼクスは目を見開いた。食べるのがものすごく早い上に、きれいだ。
料理皿ごと一気に食べている。取り皿は使っていない。まぁ全部食べるのだから良いだろう。見ている前で次々片付いていき、大量の料理が消えた。
「ごちそうさま。我ながら美味かった」
「……美味しいのはわかるが、よく食べるな……」
「そうか? 私はかなり平均的な方だ。それでも、この量じゃ腹七分目とギリギリ言えるかどうかというところだな」
「……」
その後榎波が、テーブルクロスを少し引っ張った。ロステクフィードが発動して、食器類が消失した。洗浄後、元の場所に戻る。
そのまま地下に降り、二人で移動した。
橋の下の最下層西側入口に出て、坂を下り、孤児院街に出たところで、左に曲がる。
「では、私は王宮に戻る。それとこれを」
「うん、送ってくれてありがとうな――ん? チョコレート?」
「ああ。大量にもらって困っていてな」
「あ! 今日はバレンタインか。お前な、せっかく貰ったのに人にあげたら可哀想だろ」
「では返せ」
「有り難く頂戴します」
こうして、二人は別れた。
帰り道、ゼクスのことが気になる自分の内心を思って、榎波は嘆いた。
好きなのかすら、よく分からなかったが、気になって仕方がないのである。
勿論、最初からゼクスに渡すためのチョコレートを用意していたのだが、そんなことは言えなかった。なお、街で会ったのは偶然である。