【4】ゼクス=ゼスペリアは存在しない。
……そこまで考えて、高砂は、違和を感じた。
――ゼクスの価値観や気持ちを尊重して、肉体関係を持たない……?
――自分が……?
壮絶な違和感だった。高砂は、万象院の僧侶だ。万象院の教えは、世界は個であり、個が世界……自分中心主義なので、見解の相違があるならば自分の世界を優先し、相手の見方を変えさせる。
確かに自分はゼクスが好きだ。
なのに、ゼクスに手を出していなくて、それが当然だと思っている。
これは、おかしい。
人間の道徳観念としては真っ当なのかもしれないが、高砂にとってはあり得ないことだった。本当に好きならば、とっくに押し倒している。高砂には、プラトニックなどという概念はないのだ。
それよりも問題は、誤った現実を正しいと受け入れかけていたことであり……即ちこれは、マインドクラックである。今、自分は、赤いリンゴを見て青いパイナップルだと感じている状態なのだ。そもそもパイナップルは青ではなく黄色なのに。
高砂はゆっくりと瞬きをした。
マインドクラックされているのは、自分一人だけなのだろうか……?
考えてみると、初恋状態の時東というのが、既におかしい。
時東は、自分以上に即物的だと高砂は思う。
回りくどく告白してさらに振られてその後も諦めないというような、人としては正しく輝かしく素晴らしく甘酸っぱいような行動を……あの時東がするだろうか?
高砂は、あり得ないと思った。
おそらく時東もまた、間違った信念を正しいと思わせられているのだ。
人としては正しいのだが、高砂と時東的には正しくはない。
さて、時東もマインドクラックされているとする。
……他は?
榎波は頻繁にマインドクラックされているので、本人も周囲も慣れているから気にしなくて良い。一番気にしなくてはならないのは、ゼクスである。
そう考えて、高砂は首を傾げた。
ゼクスは、マインドクラックされているのだろうか?
大至急確認しなければならない。
何せ、ゼクスはゼスペリア十九世猊下だ。
そこまで考えて、またハッとした。
――ゼスペリア猊下と周囲も分かったにも関わらず、護衛がいない。護衛もつけずにそんな貴人を最下層に放置するだろうか?
――そもそもゼクスが最下層にいるのは自然であるという価値観自体が、誤った信念ではないのか?
高砂は嫌な予感がした。
「ロードクロサイト議長の目は、まだ覚めないのか?」
レクスが、オーウェン礼拝堂の右奥に設置されている医療院置換VIPルームを一瞥した。現在は、怪我人は皆治っているため、唯一目が覚めていない時東の専用ベッドとなっている。時東は、高砂と共にゼクスのマインドクラックを解くために、逆マインドクラックをするため、意識状態を落としたのだが……そのまま起きないのである。
今度は時東を起こすために外部から逆マインドクラックをしているのだが、時東は全く起きない。レクスは溜息をつきながら、椅子に座って眠っている高砂を一瞥した。時東の意識内容を見に行くと言って、先ほどこちらも意識状態を落としたのだ。だからてっきり時東の目もすぐに覚めると思ったのだが……高砂まで起きる気配がない。先ほどからはさらに、闇猫からゼクスが来て、隣のベッドに横になって時東の状態を確認してくれている。忙しい中をぬって来てくれたのだ。元を正せば自分が理由だとして。
既に闇猫も黒咲も猟犬も、オーウェン礼拝堂地下の生体兵器討伐に行動を切り替えている。だが、ギルドのみ、意識不明者がいてかつそれが討伐部隊のリーダーなのだ。身を案じないわけではないが、どちらかといえば苛立ちと焦りがあった。
「レクス様、副総長をお呼びになられては?」
配下の黒色の声に、レクスが腕を組む。
「父上と相談して、もう声をかけた。副総長は、PSYを魔力呼称し、時東先生の嫌いなオカルトを盛り込んだマインドクラック現実を、PSY融合仮想現実接続システムにより遠隔から送っていると聞いた」
その声が終わった時、高砂とゼクスがほぼ同時に目を開けた。
「……うわぁ」
高砂が呻くと、両手で顔を覆った。隣でゼクスが苦笑している。
「ちょっとゼクス、何が『お前が好きだ』なの? 俺で遊ぶのやめて」
「遊んだわけじゃない。高砂まで時東と同じマインドクラック状態になりかけていたから、気合を入れてお前に一目惚れをした記憶を掘り返したんだ」
そのやりとりにレクスが眉を潜めて首を傾げた。
「おい、一体ロードクロサイト議長は、どんな意識現実にあるんだ?」
「えっとな、レクス……時東の名誉のためにいうと、思春期とは輝かしい」
「黙ってなよ、ゼクス。ええと……レクス様。敵は絶望の子をどうしても見たいようで、時東に、『自分はゼクス=ゼスペリアが好きである』と思いこませようとしています。時東はマインドクラック状況下で、ゼクスにベタ惚れに見えます。ただし……時東なら本来絶対に取らないような恋愛行動をしているので、本人もマインドクラックに気づいていて、話を合わせながら、表面的にマインドクラックされたように装っているのだと思います」
絶望の子とは、聖書の黙示録に出てくる、偽ゼスペリアが救世主の再来を孕ませて生まれてくる子供のことだ。近親相姦の結果生まれるとされる。異父兄弟を親に持つ。だがこの表記は、双子の義兄弟の例から行けば、実際に兄弟であるとは限らない。というよりも、解釈次第で誰でも兄弟にできてしまう。
今回その父親役に選ばれたのが、時東ということである。もしこのマインドクラック状態で時東が目を覚ませば、時東は現実でゼクスに何をするか分からない。その「分からない」部分を、なるべく被害を出さない形態にすべく、時東は内側から「大好きだけど好きすぎて手を出せないヘタレ」というイメージを構築して、仮に目が覚めても自分がゼクスに何もしないようにという安全策をとり、さらに起きなければ何もできないので、眠っていると考えられる。高砂が静かにそれを説明した。
「それは分かったが、何故これだけ大勢で逆マインドクラックをしているというのに、目を覚まさないんだ? 本来、マインドクラックだと気づいたならば、その時点で目を覚ますはずだ。なのに内側から対抗策を練って、外側に……現実には戻らないというのは……?」
その言葉に、高砂が腕を組んだ。目を細めている。
「俺も過去に一度だけ、自力で抜け出せなかったことがあります。マインドクラックだと気づいていても」
「ああ。万象院の若御院の病気クラックだろう? そういえば、何故その時は抜け出せなかったんだ?」
レクスが聞くと、ゼクスが大きく溜息をついた。
「レクスは子供だな……」
「兄上に言われたく無いが、一応聞こう、どういう意味だ?」
「高砂は若御院が好きだったから、夢でもいいやと思ってしまったんだ」
「……その理屈でいくと、ロードクロサイト議長も、夢でもいいから見ていたい逆マインドクラック設定が存在するから、敵のマインドクラックはそのままに、ずっと意識レベルを落としてその世界に浸っているということか?」
呆れ返ったようにレクスが言った。
苦笑しながら、ゼクスは小さく頷いている。
レクスには、この人物がゼスペリア十九世だとは信じられなかった。
――ゼスペリア十九世というのは、これまでは外に出て来なかった。
よって、敵集団はあれこれと、「実はこの人物こそがゼスペリア十九世である」というマインドクラックを仕掛けてきた。
猟犬が所蔵しているマインドクラック災害の中で、大きい事件は二つである。
一つは、院系譜という、青き弥勒の仏教を信仰する寺院の一つ、万象院の本尊を守護する家柄の、緑羽万象院家の若御院を「ゼスペリア十九世である」としたのだ。三大宗教の内の、ゼスペリア教以外から、ゼスペリア教の救世主が現れたというマインドクラックだった。
もう一つは、最下層の教会の牧師を「ゼスペリア十九世である」とした。偽りの黙示録を上手にこちらは作って言ったのだが……その牧師本人も周囲も敵のマインドクラックだと気づいていて、敵の一斉摘発のためにマインドクラックされたふりをしていただけだったので、ことなきを得た。
小さいマインドクラック事件はもっと沢山ある。
なお、三大宗教最後の一つの青照大御神神道関連の匂宮本家、朱匂宮や、ギルドの守護対象家であるハーヴェスト長子をゼスペリア十九世としようとした事件もある。
さて、この内の、若御院の事件である。
そのマインドクラックにかけられた多くは、すぐにそれがマインドクラックだと気づいた。理由は、『ロードクロサイト議長』が、時東ではなかったからである。これは、時東がマインドクラックだと気づいた場合に必ず、内側から作り出す対抗信念なのだ。だが……いつもならば真っ先に目を覚ます高砂が、この時だけは意識を取り戻さなかった。
あの時も周囲から逆マインドクラックをした。
するとひたすら、安楽死を阻止しようとしていたのである。
時東で言う所の思春期的ヘタレ行動だ。高砂は悲惨だったのである。
夢であったとしても、高砂には認められなかったのだろう。
だから夢でも良いからと、奔走していた。しかし何度も何度も失敗していた……それが、マインドクラックである。時東が現在振られているのもそうだが、マインドクラック内部での行動は、必ず失敗するか悪い方向に転ぶ。そして挫折し心に傷を負ったところで、精神感染汚染症兵器で、対象を闇汚染させるのが本来の目的なのである。
高砂の場合は、本物の緑羽万象院の若御院に、意識レベルを同化させてもらい、本人にマインドクラックを解いてもらって復帰した。安楽死をしないと本人が断言したのだ。それでマインドクラックが解けた。
で、あるから、時東の恋愛行動も、先ほど中に入ったゼクスが「自分も好きだ」といえば、それがお互いの偽装感情であったとしても、解除できた。高砂も無意識にそれを覚えていたから、何故付き合わなかったのか疑問だったのだろう。
「お兄ちゃんが思うに、時東も迎えにきて欲しい人がいるんだ」
「兄上、明確に名前を述べてくれ」
レクスが不機嫌そうにいうが、ゼクスは答えない。
そのやりとりで、高砂は我に返った。
「俺、今日はもう帰ります」
こうして高砂は使徒オーウェン礼拝堂こと王宮を出た。
そもそもであるが、ゼクス=ゼスペリアという人間は存在しない。
するといえばするのだが、換言するならば、複数人存在する。
闇猫、黒色、猟犬、黒咲、万象院の合同プロジェクトとして、敵を撹乱するために、『ゼクス=ゼスペリア』という人物を作り出したのである。
闇猫からは、ゼスト家直轄隊長。
黒色からは、ギルド総長。
猟犬からは、最高顧問。
黒咲からは、闇の月宮直轄黒咲隊長。
万象院からは、本尊本院直轄隊長。
この内、猟犬顧問は、ゼスト家隊長である。
また、ギルド総長が、黒咲の隊長でもある。
なので、三名で『ゼクス=ゼスペリア』を作り、その人物の所在地を、最下層のゼスペリア教会としておいた。
この三名は、ゼスペリア十九世本人、ハーヴェスト長子だが朱匂宮相続が決まっている若宮、緑羽万象院の若御院である。幼少時は、この三名の安全対策だった。全員ゼクスという名前であるが、公的にそれを名乗る場合があるのは、ゼスペリア十九世のみである。なので、ゼクス・朱・緑羽と呼ばれる。
続柄は、クローン兄弟である。誰がオリジナルかは公開されていない。三人とも全く同じ顔で、同じPSY円環を持っている。ただ、体型や知能が同じというわけではない。生育環境により、個性はある。なお、戸籍上は無関係に記されている。
一人でも生き残れば、三大宗教を維持できる。
というよりは、元々が一人で維持しなければならず危険だったからというのもあるだろう。