【1】使徒オーウェンの恩赦式典――使徒ゼストの救済――
オーウェンの恩赦式典の当日になった。司会は、王都大聖堂の特別枢機卿として、レクスが行う――と、周知されていたが、これは、本人が護衛を強く希望したからである。
場所は、特別三機関の共通の庭だ。
――本当に敵はやってくるのか?
悩まずとも、メルディ猊下とイレイス猊下だけは、最初から避難組として王宮にいた。
どころかこのプログラムの最初のゲストでもある。
ロイヤル組がそのような心配をしていた頃、民衆は、噂話に花を咲かせていた。
まだ英刻院閣下が意識を取り戻したことも伏せられていたため、何も知らない者達は、『聖職者を誰も呼ぶことができなそうな無能な第一王子とその伴侶補の行く末』をニヤニヤと噂していたのである。無論、ここに来てクビになる聖職者が誰かも気になっていた。
その他の民衆は、純粋に噂でメルディ猊下とイレイス猊下の複合祝詞がすごいと聞いていたため、ほぼ八割は、それを楽しみにしてきていた。メルディ猊下が十九世を継承するという説は、人気のゴシップの一つなのである。
そのようにして、時間になった。
「――それでは、式典を開始したいと思います。貴族院では本日、最下層の有籍孤児院を経営している東方ヴェスゼスト派王都ゼスペリア大聖堂分霊王都西地域管理ゼスペリア大教会直轄最下層有籍孤児院街ゼスペリア教会筆頭牧師のゼクス=ゼスペリア牧師をお招きしております。貴族院では、最下層有籍孤児への慈善活動を毎月行っており、そこに暮らす子供達もまた、我々と同じ信徒であると、この場において強く広める意図を持ち、本日ゼスペリア牧師をお招きいたしました。それでは、東方ヴェスゼスト派新約聖書、使徒ヴェスゼストの福音書第五章『ゼストの救済』第一節『滅びと再生』より全文を今よりお聞かせいただきます」
なるほど、と、多くの者が思った。これは頭がいい。クビにもできない。なにせ後任で最下層に行くような人間はいない。さらに教会側も、最下層のゼスペリア教会牧師が闇猫であることは知っていた。王室の猟犬のような存在だ。下手に手出しはできない。かつ名目上も、慈善活動でばっちりだ。さらにPSYに関しても、ゼクスを知るものは上手く流せるとここでも改めて判断したし、そうでないものは、どうせほとんどないだろうから、メルディ猊下とイレイス猊下の二人にかき消されて感じられないだろうと思った。
多くの人間は、そもそもメルディ猊下とイレイス猊下にしか興味がない。ここの所、一気に救世主なのではないかとして、この二人は国中で話題になっているからだ。さて、こちらの二人は、ゼクスの存在を気にもとめていなかった。見ることすらなく、ゼクスの後に出てくる人間が誰だろうかと内心ニヤニヤしていたのである。誰であっても、二人の後に唱えるのでは、拍子抜けされることは確実だ。可哀想だなぁとすら、二人それぞれも、他の人々も思っていた。
こうして、祝詞が始まった。よく晴れ渡った昼下がりだというのに、二人の声とそこに重なってはいるもののあまり目立たないゼクスの声、それらがいつしか空の色を薄紫に見せ始めた。ESP聴覚が無意識に刺激され、受容体がイメージを受け取り始める。
イレイス猊下の持つ、PSY-Otherと身体表現性天才である彼のまぶたの動きで、周囲に大量の情動喚起がもたらされているのだ。そのうえで、メルディ猊下の青が溶け合い、紫が生まれているのである。いつも通り――そう二人は思ったが、いつもよりも少し赤……朱と橙がほんのわずかに強いような気がした。
続いてイレイス猊下のPK-ESPにより緑と赤が混ざり合い薄れて曇天色を作り出した時、いつもならばそれ一色のはずなのだが、鴉の羽音が響いた気がした。――なんだ? 唱えている二人が、それぞれドクンと胸に衝撃を受けた気がした。それでもそのまま、廃墟のイメージを作っていく。灰色の朽ちたビル、本来それは灰色の世界の灰色の瓦礫のはずだった――だがその瞬間、空が一瞬すべて橙色になり、ビルは黒い影になり、一羽の鴉が横切った。それは一瞬だけであり、すぐに灰色のイメージ通りの世界がもどる。
動揺に押しつぶされそうになりながらも、二人は続けた。続いて、紫色の世界で、終末の世界で救済を願う人々の姿を思い浮かべた。いつもよりも、なぜなのか今度は、青が少し濃い。そして――人数が多い。群れのようにひしめいている。これ、は? 息を飲んでほぼ同時に、二人は冷や汗を流しながらゼクスを一瞥した。淡々と祝詞を諳んじているゼクスの声が、次第にはっきりと聞こえるようになっていた。
思えば初めからあったのだが、そこに絶対的にゼクスの声があることを改めて認識した瞬間だった。きっとたまたま自分達のPSYに重なっているのだろうとそれぞれ内心を落ち着けて祝詞を続ける。廃墟世界と終末世界を交互に流し出すイメージ。それは、いつも通りだった。
しかし最初は一瞬紛れ込むだけだった夕焼けの中の影になったビルと鴉が、次第にコマ送りのように灰色の廃墟と交互に移り始め、最終的には灰色世界に入った亀裂と雑音が広がり、すべてが逢魔が時の影の街に変わってしまった。それは――もはや、廃墟などではなかった。終わった後、廃墟のさらに後、末路だった。
嘲笑うような鴉の羽ばたき、音、舞い散る黒い羽。橙色の空には紫が走り、そこに動揺などという言葉では表せない焦燥感と絶対的な終焉の結果、もはや何もできない絶望感と心臓を直接手で掴まれたような嫌な気配が浮かび上がった。
気づくと、二人は、ダラダラと冷や汗を流していた。では薄紫の終末世界はどうかといえば、溢れかえった人々が押し合いひしあい、それ以外なにも見えなくなっていく。その先に、金色の小さな十字架がある。しかし――まずい。このままでは救済できない。人々が、十字架に気づかない。皆うずくまるようにして逃げるように進むだけだ。大渋滞。だが仮に気づいたとしても、十字架は小さくひとつしかなく、救済は困難だと唱えている二人ですら考えた。
そのイメージとオレンジ色の黒い街の光景が切り替わる速度が早くなる。――制御できない。完全に二人の祝詞の側が押し殺されようとしている。それでも必死に口にするが、仮に主導権を取り戻したとしても――……そう思っていた時、不意にゼクスの声音が弱まり、一気にそれまでのイメージが二人に襲いかかってきた。ダラダラと汗をかきながら必死で制御しようとするが、焦れば焦るほど、鴉羽のあざ笑う音が重なり羽が増え、溢れかえった終末の人々の群れはついに絶望と諦観の声なき叫びをあげはじめた。
周囲もいつもとは全く違うことに気づき始めていた。そして大多数は、二人よりもゼクスの方を気にするようになっていた。次に橙色の空になった時、飛んでいた鴉が四角い黒い影のビルの上に止まった。
そこでゼクスの声が戻った。
その光景がズームされ、すべてが黒に飲まれるようになり、直前で葡萄酒色を混ぜたようになり同時に聞いている全員が心を揺さぶられた。圧倒的な衝撃に息ができない。紫が終末世界に同化し、大勢のうずくまる人々の四角い背中が、砂のように溶け始めた。終末だ。先ほどの衝撃で、二人は祝詞を唱えることができなくなっていたが、ここまでくれば――終末までいってしまえば、自分達のPSYではもはや救うことなど無理だと呆然としていた。終わった、終わってしまったのだ。
全てが砂になり、残るは小さな金色の十字架。宙に浮き、金色の光を放っている。
その時、青い瞳の主――ゼスペリアのイメージが重なった。瞬きをするたびに、十字架が高く浮かび上がっていく。
そこで二人は気づいた。民衆も気づいた。ゼクスの瞳の色――法王猊下やゼスペリア十八世アルト猊下と全く同じ、ゼスペリアの青だ。サファイアのようであり淡いブルートパーズのようでもある宝石のような瞳が、終末を見た。その場面。次にそのまぶたが伏せられて開いた瞬間、光景は、青紫葡萄酒黒色とかわり、そこには舞い散る黒い羽の世界があった。鴉が飛んでいくと、橙色だった空は、曇天になっていた。
しかし平らではなく、陰影がはっきりしている。オレンジが混ざり込んだが、次第にそれはなくなり、そして鴉が飛び去り消えると、橙が溶けて陰影になった雲の合間から、十字架が現れ、同時に雨が降り始めた。
二人だけならば救済の雨とするのだが、ゼクスの放つイメージにおいては、ただの絶望だった。黒い雨が、黒い建物の残骸を汚し、次第に廃墟すら溶けていく。終末後の世界の終末。無の再来。十字架が下りてくる背後で、これまでのすべての光景がコマ送りのように入れ替わり混ざり込む。そして最後に闇の中央にただ、シンプルな金色の十字架があるのみとなった。
そこで一度、世界が止まった。
もう再起など不可能。絶望も虚無も諦観すらもない。そう虚脱感に襲われた時、世界が動き始め、それが『黒い法王衣』であり、金の十字架が首から下げられているものだとわかった。
気づけば、真っ青な青空の下に立つ、主ゼスペリアの器、使徒ゼストがそこにいた。終末も滅亡も忘れてはいけない、心に刻まれなければならない、けれど――……今赦され人々は、
「――今赦され人々は、十二使徒と共に歩く。ゼストの救済」
ゼクスがいい終わった瞬間、イメージの空と現実の青空が重なり、人々の意識が元に戻り、感動で胸が震えた。何か言おうと唇を動かすが声にならない。そして気づくと視界が歪み、目に涙が溜まっていることに人々は気づいた。
そうだ、そうだった――すべて失くなった後、今、こうして赦され生きている。その幸福。ほぼ同時に盛大な拍手が溢れかえった。――本来、使徒ゼストの救済とは、これでいいのだ。終末世界と滅亡した世界の後、主、ゼスペリアが赦しを与え、人々が平和に生きる世界がここにあることを思い出す福音だからだ。
これまでメルディ猊下達二人が作り出していたものは、終末世界の人々が救済され、滅亡した世界が再び色づく程度であり、似てはいるが本質的に異なる。だからあちらには、不快感と胸騒ぎが残る。科学的に言うならばPSY-Other不足であり、他者のPSY受容体を青系統Otherで刺激しきれていない結果でもある。ただ、科学的にそう理解していた時東やラクス猊下ですら、これには呆然としていた。
なお、メルディ猊下とイレイス猊下の二人は、世界が救われた事実に、というより救われた世界にいて過去を振り返っていたのだったという事実に、胸をなでおろしていたが、だらだらと汗が流れてくるのが止まらなかった。
ゼクスを呼んだ瑠衣洲を含め、見ていた首脳部側は唖然としている。宗教関係者も絶句だ。全員がゼクスを見ている。いつもと同じ淡々とした表情のゼクスは、それから――微笑した。胸に響く笑顔だった。そのまぶたの動きや眼差しが、それらが作り出した存在感とでもいうしかない何かが、すぐに静寂をその場にもたらした。静かにしなければならないという直感――そんなPSY知覚を人々が無意識にしたからだ。非常に微弱なものであり、注意していても気づける人間は少ないだろう。
「本日は貴族院にお招きいただき、参りました。ゼクス=リオ・ハーヴェストクロウ=ロードクロサイト=ゼスト・ランバルト=ゼスペリアと申します。本日は、よろしくお願いします」
ゼクスがそう言うと、レクスが静かに隣に立った。